2016.09.18 徳丸町キリスト教会 朝礼拝 秋の一泊修養会
『隣人となるために』

ルカの福音書 10:25-37

 今日から明日まで「隣人となるために〜よきサマリヤ人のたとえに学ぶ」というテーマで秋の一泊修養会が持たれます。午後からのプログラムには、32名の方が参加してくださるということですけれども、今朝は礼拝で皆さん全員でイエス様が語られた「よきサマリヤ人のたとえ」に学び、隣人となる生き方をともに受け取っていけたらと思います。

1.イエス様をためす律法の専門家に
 このたとえ話は、クリスチャンでない方の間にも比較的知れ渡っている聖書のストーリーの一つだと思います。旅の途中、強盗に襲われ、ひん死の状態だったユダヤ人を、普段はユダヤ人と敵対しているはずのサマリヤ人が手厚く助ける。それは、とても感動的な愛の物語、目指すべき愛の実践の模範とされてきました。しかし、そのような感想はこのたとえ話の部分だけ、30−35節の部分の印象だけで語られることが多いように思います。たとえ話は、ある事柄を別の事柄に置き換えて話す話し方ですが、そのメッセージはそのたとえ話が語られた場面や対象と深く結びついています。つまり、一つのたとえについて深く知るためには、まずそのたとえが語られた状況をよく知る必要があるのです。そこで、今朝始めに見たいのは、このたとえが語られた状況です。
 今朝の箇所の直前、10:17−24を見ると、このたとえが語られる直前、イエス様たちのうちにあったのは、大きな喜びであったことがわかります。17節でイエス様から特別な力をいただいたことを喜んでいた弟子たちに、イエス様は20節で「ただあなたがたの名が天に書きしるされていることを喜びなさい」と語られました。そして、21節では、ちょうどこの時、イエス様自身も「聖霊によって喜びあふれ」たと言われます。それは、イエス様に出会い、「天に名が記されている」という祝福の約束を知る人々が、世の中の賢い人や知恵のある人たちではなく、「幼子」のような弟子たちに示されたからでした。
 この箇所は、おそらく聖書の中でもイエス様が一番喜びを表わされた箇所だと思います。「喜び溢れて」と言われることは、他の箇所ではありません。イエス様は弟子たちが御自身と出会い、福音を知ることを心から喜んでおられた。しかし、その背後に1人の人が立ち上がった。というのが、今朝の箇所の始まりです。
25節「すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスをためそうとして言った。『先生。何をしたら永遠のいのちを自分のものとして受けることができるでしょうか。』」
 その喜びの雰囲気を突き破るように立ち上がった律法の専門家は、イエス様に「何をしたら永遠のいのちを受け取ることができるのか」と質問をした。しかし、この質問は、「永遠のいのち」を本当に自分のものにしたいから出てきた質問ではありません。彼は、イエス様を「ためそうとして言った」とはっきり記されています。彼は、イエス様を値踏みするために立ち上がり、質問したのです。
 ここまでの流れは、すでにある一つのことを示しています。それは、この律法の専門家が、イエス様の前に立ちながらこの御方と真実の出会いを経験していなかったということです。彼は、イエス様をためすために立ち上がった。「ためす」とは、テストすることです。それは、自分自身の基準や枠組みに相手が当てはまるかどうかで相手を判断することです。そして、そのような関わりは、ともすれば、基準に合う人間を思い通りに動かそうとしたり、基準に合わない相手を非難し、蔑み、攻撃することにつながります。そこに相手を知り、自分自身を知ってもらい、互いに成長していくような人格的な出会いは生まれません。
 本当の出会いは、そのような相手を自分の枠組みにはめ込むことではなく、相手によって自分自身が変えられることを意味します。本当の意味でその人と出会うとは、その人抜きの人生からその人がいなければありえない人生へと変わることだからです。イエス様とのそのような出会いを経験したのは、「幼子」と呼ばれるような小さな者たちでした。高度な教育を受けることもなく、弱い立場で生きていた人々。貧しさや病に悩まされていた人々。彼らのうちには、イエス様を自分の基準でためす思いではなく、イエス様によって自分が変えられることを受け入れる心がありました。小さな自分を認め、イエス様の姿や言葉から大切なものを受け取る心があった。そこに互いを喜び合うような真実な出会いと交わりが生まれたのです。
 「イエスをためそうとして立ち上がった」この小さな言葉は、律法の専門家がそのようなイエス様との本物の出会いやその喜びを経験することができていない人であったことを示しています。そして、そんな律法の専門家に、イエス様は「よきサマリヤ人のたとえ」を語っていくのです。

2.道の反対側を行く
 この律法の専門家の問いかけにイエス様は、26節で「律法には何と書いてあるか」と問い返されました。彼の問いは、律法の中にすでに語られてきたことでもあったからです。そこで律法の専門家は、「『心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神である主を愛せよ』、また『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』とあります」と答えました。神と人とを愛するようにという2つの戒めは、イエス様自身も様々なところで最も重要な戒めとして教えられたものです。その意味では、当時の一般的な律法の専門家たちとイエス様は同じ理解を持っていました。イエス様は真新しいことではなく、主なる神様がずっと語ってこられたことの中心を確認されました。そして、彼にそれを実行するようにと言われたのです。
 しかし、このやりとりに当の律法の専門家は満足しませんでした。続く29節にはこう記されます。
29節「しかし、彼は自分の正しさを示そうとしてイエスに言った。『では、私の隣人とは、だれのことですか。』」
彼は問いを重ねることで、「自分の正しさを示そうとし」ました。そもそも自分が質問したのは、そんな初歩的な律法理解を聴くためではなかった。しかも、このまま引き下がれば、その初歩的な律法の実践を自分ができていないと認めることになると思ったのかもしれません。また、自分がイエス様ともっと議論を重ね、自分の方が優れているということを証明しなければならないと感じたのかもしれません。とにかく彼は、自分を弁護し、なおイエス様の前で自分は変わる必要がないということを証明しようとしたのです。
 彼は、「私の隣人とは、だれのことですか。」と問い返しました。当時のイスラエルでは、律法の言う隣人とは同じイスラエル民族をさすと考えられていました。そのため、彼の問いかけは、おそらく「イスラエル民族の中でも、私の隣人とはだれか」という、さらに細かい分類を問うような意味合いがあったと考えられます。彼は、そうして隣人とそうでない人の間に境界線を引き、どんどん身近な人にしぼっていくことで自分の守れる範囲まで、この命令が求める内容を狭めようとした。神様の命令に自分を当てはめていくのではなく、自分の現実に神様の命令を合わせていく。本来あるべき姿と真逆の態度を取ることで、この人は自分の正しさを証明しようとしたのです。
 そんな彼にイエス様が語ったのが、よきサマリヤ人のたとえでした。
30−32節「イエスは答えて言われた。『ある人が、エルサレムからエリコへ下る道で、強盗に襲われた。強盗どもは、その人の着物をはぎ取り、なぐりつけ、半殺しにして逃げて行った。たまたま、祭司がひとり、その道を下って来たが、彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。同じようにレビ人も、その場所に来て彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。』
 この前半部分は、このたとえを聴いている律法の専門家にとっては、衝撃的な内容が語られています。祭司とレビ人とは、当時のイスラエルで礼拝をリードする人たちであり、律法の専門家と同じ宗教的なリーダーと呼べる人たちでした。彼らは、律法の専門家と同じように律法に精通し、当然「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」という命令が律法の中心にあることを知っていた。ユダヤ人が考える普通のたとえ話ならば祭司やレビ人は、この命令に従って、隣人であるユダヤ人の旅人を助けるはずの人たちだった。しかし、にも関わらず、彼らは、旅人が倒れているのを見て、彼の状況を理解した上で、道の「反対側」を選び、通り過ぎていったのです。もちろん、そこには彼らなりの理由がいくつも考えられます。しかし、どんな理由も彼らが隣人であるユダヤ人を見捨てて反対側を歩いている結果を変えるものにはなりません。祭司とレビ人が道の反対側を選んでいく姿は、何よりもまず「境界線の内側にいる人の隣人にすらなれない人間の現実」をはっきりと突きつけてくる。彼らと同じように律法を教える立場にあった律法学者からすれば、より一層、「あなたも境界線の内側にいる人の隣人になれていないのではないか」という迫りを感じたのではないでしょうか。
 愛の実践は、何よりもまず身近な人との関係において問われる。当然のことと言えば当然のことですが、今朝、私たちも改めてこの祭司とレビ人の姿から、自分自身の身近な人々へのあり方を見つめ直したいと思います。

3.あわれみの心
 さらに、イエス様が語るたとえの続きは、より大きな衝撃を律法の専門家に与えたでしょう。
33−35節「ところが、あるサマリヤ人が、旅の途中、そこに来合わせ、彼を見てかわいそうに思い、近寄って傷にオリーブ油とぶどう酒を注いで、ほうたいをし、自分の家畜に乗せて宿屋に連れて行き、介抱してやった。次の日、彼はデナリ二つを取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『介抱してあげてください。もっと費用がかかったら、私が帰りに払います。』」
 サマリヤ人は、ユダヤ人たちを祖先を同じくしてはいましたが、その歴史の中で異邦人との混血が進み、またその信仰のあり方もユダヤ人たちとは異なったものとなっていました。そのため、ユダヤ人たちはサマリヤ人を差別し、サマリヤ人たちもまたユダヤ人たちに敵意をもっていました。しかし、そんなサマリヤ人が、むしろ、祭司たちがしなかった愛の実践を行ったとイエス様は言います。何が彼らの行動を分けたのでしょうか。強盗に襲われた場所を通り、傷ついた旅人を見るところまでは、祭司やレビ人と全く同じでした。何が祭司やレビ人とサマリヤ人の行動を分けたのでしょうか。
 それは、33節にあるように傷ついた旅人を見て、「かわいそうに思う思い」、その心の動きです。それは、よく相手に共感する心であったり、同情する心だと言われますが、私はそれ以上の意味を持っているのではないかと思わされます。この「かわいそうに思い」と訳される言葉は、元のギリシャ語では、内蔵、特にお腹の深い部分を表わす単語から生まれた言葉です。目の前の人の悲惨な状況を見て、お腹の奥の方が熱くなり、痛みを覚える。私たちはよく心と体を分けて考えますが、本来心と体は簡単に分けることができないものです。いや、本当に心が動かされるとき、私たちは体に大きな変化が起きることを体験するものです。この言葉は、ただ頭の中で相手の気持ちを想像して同じ思いになるというのではなく、頭よりも先に体が反応してしまう、それほどまでに相手のことで自分が変わってしまうという強い感情を意味しているのです。そのようなその人の全存在を動かすほどの強い心の動きが、サマリヤ人を傷ついた旅人の隣人としたのです。
 アメリカで黒人解放運動を先導したキング牧師は、このサマリヤ人の心の動きを「危険な愛他主義」だと呼びました。危険なまでに他者を愛するあり方。それは、普段私たちがもつ物の見方や考え方とは真逆の視点を意味します。そこにあるのは、「もし私が何か一つの立場を取り、一つの行動を起こすなら、私はどうなるだろうか」と考える心ではなく、「もし私が何か一つの立場を取ることも、行動を起こすこともしなければ、目の前のこの人はどうなるだろうか」と考える心です。自分に起こる結果を考える心ではなく、相手に起こる結果を考える心です。
 祭司やレビ人は、おそらく旅人を助ければ、その間に自分も強盗に襲われてしまうかもしれないとか、この人が死んでしまえば自分は死体に触ったということで祭司としての仕事がしばらくできなくなってしまうとか、自分の身の安全や自分の仕事のことを考えていました。それは、ある意味当然の考え方であり、残酷には思えても理解できない判断ではないと思います。私たちも、おそらく同じ状況に立てば、同じ判断をくだすことがあるでしょう。
 しかし、サマリヤ人は、自らの危険や汚れなど気にせず、大胆に倒れている旅人に近づきます。そして、自分の持っている物が無くなっていくことなど気にせずにオリーブ油とぶどう酒と包帯を使います。そして、自分の時間が失われることなど気にせずに旅人を宿屋まで運び、翌日まで時間をともにしました。最後には、さらなる介抱の必要のために、宿屋の主人にお金を渡し、足りなければさらに払うとまで言った。そして、何よりも彼らの根底にあった民族同士の憎しみなど、何一つ無いかのように行動を貫いた。私の安全、私の持ち物、私の時間、私のお金。そう言って通り過ぎることもできた。やはりどうしても赦すことができない相手だからと途中で投げ出すこともできた。しかし、それらを飛び越えて、傷つき、奪われ、何もかも失った旅人の必要のために与え、仕える。この危険なまでに自らを省みず、相手へ愛の限りを尽くす「危険な愛他主義」に立つサマリヤ人の行いを、イエス様は愛の模範として示されたのです。

4.だれが隣人となったか
 このたとえを語った後、イエス様は新たに律法の専門家に問いかけ、彼に愛の実践を促しました。
36−37節「この三人の中でだれが、強盗に襲われた者の隣人になったと思いますか。彼は言った。『その人にあわれみをかけてやった人です。』するとイエスは言われた。『あなたも行って同じようにしなさい。』」
 「私の隣人とは、だれのことですか」という律法学者の問いに答える形で始まったたとえの終わりに、イエス様は「だれが隣人になったと思うか」と問い返されました。問いの内容が変化しているのがわかると思います。自分の隣人は誰かと言って、隣人とそうでない人に境界線を引くのではなく、むしろ、既存の境界線では敵と思われる人であっても、そして、大きな犠牲を払うことが予想される人であっても、目の前の人の隣人になろうとすること。そこに、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」という命令の本質がある。隣人とは探すのではなく、自分自身がなるもの。イエス様は、このような視点の変化を律法学者に、そして、私たちにもたらすためにこのたとえを話されたのです。そして、「あなたも行って同じようにしなさい」と言って、彼にみことばを自分の現実に引き寄せる生き方から、自分自身がみことばによって変えられる生き方をするように促されたのです。
 イエス様は、律法の専門家に対して語られたように、今朝、私たちに問いかけておられます。みことばを自分の現実に合うように歪めながら、自分の正しさを守ろうとしていないか。みことばによって、イエス様によって自分自身が変えられることを拒んでいないか。誰かの隣人になるのではなく、いろいろな関係に線を引くことで、愛さなくてよい理由を探してはいないか。「あなたも行って同じようにしなさい。」この言葉が、あなたのうちでどのように響いているでしょうか。
 サマリヤ人の愛の実践、「危険な愛他主義」を見るとき、私たちは自分自身が本当に人を愛することができているかと強烈に問われます。自分が自分の中にあると思っていた愛とは何だったのかと、その根本を問い直される。こんな風にはできない。ここまですべてを与え尽くすような愛は自分にはないと思う。「あなたも行って同じようにしなさい」というイエス様の言葉に二の足を踏みたくなる思いが湧いてくるのではないでしょうか。自分自身をこのたとえの前で真剣に問うなら、このたとえは決して感動的だなどと言っていられない物語になります。
 しかし、私たちは、そこで立ち止まらないようにしたいと思います。不十分な自分、愛のない自分、それをどうしようもない自分を認めて、イエス様の元にすがりつく心をもちたいと思うのです。
 33節に記される「かわいそうに思い」という言葉は、「かわいそうに思う」と訳される以外には、「あわれむ」と訳されることばです。聖書中に12回出てきますが、このようなたとえ話で3回使われる以外は、すべてイエス様の心の動きを表わす言葉として登場します。この激しい心の動き、「危険な愛他主義」、あわれみの心を現実に持っているのは、イエス様だけだと聖書は記しているのです。イエス様は、その心を長い年月、病に苦しんでいた人に、ひとり息子を亡くして嘆き悲しむやもめの女に、そして、羊飼いのいない羊のように弱り果てていた群衆に向けられました。そして、同じように苦しみや病の中で助けを必要とし、大切な人を愛することができず、本当の意味で誰の隣人にもなれず、さまよい歩いていたような私たちに向けられた。そして、御自身の持っていた神としての栄光を捨てて、この世に来られ、ことばも心も行いもすべてを注いで生きるべき道を教え、御自身のいのちさえ捨てて十字架にかかり、復活して栄光の御座に着かれてからも、御霊を通してずっと私たちとともにいてくださっている。私たちがこの善きサマリヤ人と同じ道を歩めるとしたなら、まず私たち自身がこの方にによってあわれみを受け、あらゆる危険を省みずに愛していただいているという事実から始める以外ありません。この方が愛してくださっているから、「死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできない」、その確かな希望があるから、私たちも自分自身ではなく目の前にいる一人ひとりのために心動く者とされていく。聖霊の助けによって隣人となり、愛する者とされていく。いや、そうせずにはいられない者に変えられていくのです。
 「あなたも行って同じようにしなさい」と語られたイエス様は、律法の専門家に自分の力で愛する者となるようにとは求めていなかったのではないかと思います。弟子たちがご自分と出会い、ご自分を知り、ご自分に従って生きていることを何よりも喜ばれたイエス様です。律法の専門家が、みことばの前で自分自身の正しさを捨て、イエス様によって変えられる以外に道はないのだと知って、もう一度戻ってくるのなら、今度はイエス様は「わたしについてきなさい」と彼の手を引いてくださったのではないかと思います。イエス様とともに歩む道にこそ、真の隣人愛に生き、永遠のいのちをいただいて生きる道があります。私たちも、また、自分の愛の限界を知るからこそ、イエス様の元でイエス様とともに歩み続け、愛する者へと変えられ続けたいと思います。お祈りします。

 



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