秋の修養会朝拝  2012/09/16
『出て行く交わり、迎える交わり』

IIIヨハネ1-15

 今年も秋の一泊修養会を迎えました。朝の礼拝でご一緒に主からの御言葉をいただき、午後からは28名の兄弟姉妹たちで奥多摩バイブルシャレーに場所を移し、明日までのプログラムが計画されています。この朝はヨハネの手紙第三を通して、今年の教会の主題である「交わりに生きる教会」の姿を教えられてまいりたいと思います。この朝も、御前に招かれたお一人ひとりの上に主の祝福がありますように。

(1)教会の喜び
 この朝に与えられているヨハネの手紙第三は、多くの方にとってあまり馴染みのない書物かもしれません。新約聖書には「ヨハネ」と名の付く書物が五つ収められています。今礼拝で読み続けているヨハネの福音書、以前に学びましたヨハネ黙示録、そしてヨハネの手紙一、二、三の五つです。順番が前後しますが、礼拝でもヨハネ福音書の後にはこのヨハネの手紙を取り上げていこうかと考えてもおります。さてそこで今日はこの第三の手紙ですが、書き出しの1節にはこうあります。「長老から、愛するガイオへ。私はあなたをほんとうに愛しています」。この書き出しからこの手紙がパウロの手によるピレモンへの手紙と同様に、長老ヨハネからガイオという人物に送られた個人的な手紙であることが分かります。ある聖書学者はこの手紙が当時の親書の雰囲気を良く伝えているとし、長さもちょうど同時の手紙に使われたパピルス一枚分の分量だったのではないかと推測しています。
 さてそこで長老ヨハネがガイオについて、次のように言っている言葉が目に留まります。3節。「兄弟たちがやって来ては、あなたが真理に歩んでいるその真実を証言してくれるので、私は非常に喜んでいます」。ガイオがどういう人物であるのか、その詳細はわかりません。ただヨハネの教会において熱心に仕える忠実なメンバーであったことは間違いないことでしょう。そのガイオとこの手紙を書き送っているヨハネとの間には、今は少なからぬ距離があるようですが、ヨハネのもとを訪れた兄弟たちが、ガイオの主にあるものとしての真実な生き様を証ししてくれて、それがヨハネにとっての大きな喜びとなっているというのでした。それでこうも言うのです。4節。「私の子どもたちが真理に歩んでいることを聞くことほど、私にとって大きな喜びはありません」。
 教会の交わりの豊かさを考えるとき、こんなところにその本質が表れているように思います。いつも一緒に顔を合わせているとなかなか気がつかないものですが、しかしお一人一人の兄弟姉妹たちが主イエス・キリストによって救われ、主の真理に歩み始めて、その生き方が変えられていく姿は確かに私たち互いにとっての大きな喜びです。洗礼を受けて日々を重ねながら、あらためてあの方が今このように主に喜んで従っている、そんな姿を見るときに私たちは大きな喜びを感じます。小さな子どもたちがやがて成長し、主のために喜んで仕える姿を見ると、頼もしくまた嬉しくなります。先週もお二人の姉妹をお訪ねして来ましたが、それぞれ目に見える教会の交わりからは距離が離れていても、そのところで御言葉に親しみ、熱心に祈り、教会のことを心にかけておられる姿を見ることは大きな喜びです。ヨハネにとってのガイオについての喜び、それはまさしく教会の交わりの中で生み出され、味わうことのゆるされる交わりなのです。

(2)旅人をもてなすこと
 さて、長老ヨハネに喜びをもたらしたガイオの「真理に歩んでいるその真実」とは、具体的にはどのようなものであったのでしょうか。5節から8節に次のように記されています。「愛する者よ。あなたが、旅をしているあの兄弟たちのために行っているいろいろなことは、真実な行いです。彼らは教会の集まりであなたの愛についてあかししました。あなたが神にふさわしいしかたで彼らを次の旅に送り出してくれるなら、それはりっぱなことです。彼らは御名のために出て行きました。異邦人からは何も受けていません。ですから、私たちはこのような人々をもてなすべきです。そうすれば、私たちは真理のために彼らの同労者となれるのです」。
 ここにあるのは「旅人を迎え、もてなす」ということでした。直接的にはここでの旅人とは、当時、主イエスの福音を携えてあちらこちらと旅を続けては、行く先々で伝道していた巡回伝道者たちのことを指していたようです。彼らは何か決まった生活の糧が保証されていたわけではなかったので、行った先の信徒の家々で迎えられ、そこでもてなしを受けることでまた新しいところへと遣わされていくことが出来たのでしょう。実際に初代教会の時代には、地中海沿岸の小アジアのあちらこちらにキリスト者たちの群れが点在していて、兄弟姉妹たちが信徒の家々に集まり、使徒たちが語り伝えた主イエスの教えを分かち合い、あるいは回状のようなかたちで送られてくる説教の朗読を聴き、パンを裂いて聖餐を守り、心を合わせて熱心に祈りながら、小さな集まりが保たれていったのです。しかし時にはそこに巡回伝道者がやって来て、直接その口から説教を聴く機会があった。それは人々にとって大きな喜び、祝福の機会であったに違いないのです。集会が終われば愛餐のテーブルを囲み、伝道者からあちこちの教会の様子を聴いたり、信仰についてのあれこれの疑問を尋ねたり、豊かな語り合いがなされたことでしょう。そして迎えられた家で心を尽くしたもてなしを受け、十分な休息を与えられ、また新しい力を得て、次なる伝道の場所へと赴いていくという日々が繰り返されていたのだと思います。
 教会とは、このような経験を繰り返すことによって教会は一つの場所に生きながらも、大きな公同の教会の交わりの中で、その豊かな広がりを経験していくことができるのです。先週の夕拝には新たにブラジルに遣わされる浜田献宣教師をお迎えしました。私たちから見ると地球の反対側にあるブラジルに、実に140万人もの日本人、日系人がおられること、すでに日系五世、六世という世代にまで及んでいること、140万人のうち100万人の方々がカトリック信徒であること、日本語を話す日系の方々の高齢化が進み、彼らに日本語で御国の希望を伝える必要があること、そのような新しいことを知ることができました。私たちはこの場所に生きながら、同時に浜田先生をお迎えし、また先生を遣わすことで私たちもブラジル宣教に一緒に出て行くことになるのです。今朝の礼拝では布山真理子先生が貴重なお証しをしてくださいました。震災を経験した福島がどんな現状であるのか、そこで小さいお子さんを抱えるお母さんたちがどんな不安と闘いながら日々を過ごしているのか。そこで主の教会はどのような働きをなそうとしているのか。あらためて布山先生をお迎えして知ることがあり、またそれによって私たちもその新しい働きに参与していくことになる。これが教会の交わりの姿です。

(3)真理とともに働く者として
 長老ヨハネはガイオに向けて、彼のように旅人を迎えもてなすことによって「私たちは真理のために彼らの同労者となれるのです」と語りました。巡回伝道者を迎え、もてなすことでガイオもまた彼らの同労者になるのだ、というのです。一つの町でひたすら忠実に生きながら、そこで主に仕えていくガイオ。あちらこちらを訪ね歩くこともなく、他の教会と行き来するでもなく、ただ自分が置かれた持ち場でひたすら主に仕え、教会に仕えるガイオ。教会にはそういう柱が必要です。どこの教会にいっても必ずそういう存在があるのです。しかしそういう柱のようなガイオに向かって長老ヨハネは、あなたもまた伝道者だ、私たちと一緒に福音のために汗水流す同労者だというのです。
 私たちは今年、「交わりに生きる教会」という主題を掲げて半年以上を歩んで来ましたが、年の初めから繰り返し学び続けているように、そこでの交わりとは、ここにいる私たちだけの、内側を向いた閉じた交わりを意味してはいません。むしろそれは互いに仕え合うしもべ仲間として、そこに人々を迎え入れ、また送り出していく大きな開かれた交わりです。そうやって私たちは旅人を迎え、もてなし、送り出すことを通して、私たちもまた遣わされる者となっていくのであり、この一つの場所に置かれながら、天地万物を統べ治め、摂理の中にすべてを導き、歴史の中に生きて働き、やがて終わりの時にはすべてのすべてとなってくださる主イエス・キリストに与る交わりとして、神の国の広がりの中で委ねられた役割を担い続けていくのです。そこに教会の交わりの生きて働く姿があることをこの朝、しっかりと覚えておきたいと思います。
 その上で最後に、「真理のために彼らの同労者となる」という言葉に注目しておきたいと思います。ヨハネはガイオに「あなたは真理のために一緒に働く者だ」と言います。しかしこの文章は次のようにも訳すことができます。「あなたは真理と一緒に働く者だ」と。ここで思い起こしたいのはヨハネが福音書において「真理」を、主イエスご自身を指して用いていたということです。するとここでの「真理」も、主イエスご自身のことを意味していると考えてもよい。そうすると「あなたは真理のために一緒に働く者」とは、「あなたは主イエスのために、他の伝道者たちと一緒に働く者」と言うことができるでしょうし、さらに言えば、「あなたは主イエスと一緒に働く者だ」とさえ言うことができるのです。教会の交わりとは、主イエス・キリストのため、また主イエスの福音のために、私たちがある人々を迎え、またある人々を送り出し、その繰り返しの中でそれらの人々と一緒に働きながら、主イエス・キリストを宣べ伝え、主イエスの愛をあらわす交わりですが、そうすることによって実は、私たちは主イエス・キリストご自身と一緒に働いている、働かせていただいているのです。私たちの伝道、私たちの奉仕、私たちの愛のわざ、それはいつもまことに小さく、ささやかなものにすぎません。私もいつも己れの力のなさ、知恵の足りなさを痛感し、恥じ入ることの繰り返しです。もっと熱心に、もっと忠実に、もっと力強く、もっと賢く、もっと効果的に、もっと幅広く、そんなことを思います。そしてそう思えば思うほど、そうできない自分自身と向き合わされることになる。人はそれでもまあまあよくやっていますね、と言ってくれるかも知れませんが、それでも私たちは主の御前にどうなのか、をやはり考えざるを得ない。けれどもこの朝、そんな私たちに主イエスは長老ヨハネのガイオに向けて語った言葉をもって語っていてくださいます。あなたはわたしと一緒に働く同労者だと。主イエスは私たちの働きの結果だけを見るお方ではない。その成果で判断されるお方でもない。奉仕の量やささげた時間、犠牲にしたあれこれ、それらによって私たちの教会を計られるお方ではありません。主イエスはまことに教会のかしらとして、教会の労苦を一番よくご存じのお方です。あのヨハネ黙示録において七つの教会の間を巡り歩き、あなたがたの労苦を知っている、あなたがたの涙を知っていると言われる主イエスは、私たちの労苦も、お一人一人の人知れずの献身のわざもみんなよくご存じでいてくださる。なぜなら主イエスはそのすべてにおいて私たちひとりひとりと一緒に汗水流して働いていてくださる同労者だからです。このお方に知られていないことは何一つない。そこに私たちは慰めと励ましを受け取って、ここからまた主イエスとともに出て行く教会となり、また主イエスとともにここに迎える教会となっていきたいと願います。そのようにして主にある交わりに生きる教会は生きて働いていくことができるのです。



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