秋の修養会朝拝  2011/09/18
『そこにある助け』
詩篇46:1-11

 今朝は秋の修養会ということで、まずご一緒に主を礼拝して御言葉をいただき、午後からは28名の兄弟姉妹たちで信州は八ヶ岳の麓の松原湖バイブルキャンプに場所を移して明日までのプログラムが計画されています。まずこの朝は、与えられている詩篇の御言葉を通して、生ける主の御声に聞いてまいりたいと思います。

(1)3.11と私たち
 今年の修養会のテーマに、あらためて今年の教会の主題である「いのちの水の流れ出る教会」とし、そこに「3.11と私たち」と加えました。ぜひ皆さんには1月の新年聖会でお話しした今年の主題聖句についての説き明かしと午後の講演を読み返していただきたいと思っています。毎年、私は10月の役員会に新年度の主題聖句と基本方針とお示しするために祈りと静まりの時を持つようにしています。今年はスケジュールの関係でなかなか時間を取ることが難しいのですが、しかしこれだけはどうしても必要な時間と思い、できれば今週そのような時を得たいと願っています。例年そこでは一年の教会の歩みを振り返り、また新しい歩みを祈りの中で思い巡らしながら主が示してくださる御言葉を祈り求めていくのですが、昨年の秋以来、今年の御言葉を与えられて準備を重ねて行った日々を思い起こすと、この2011年がこのような年になるとはまったく予想もしないことでした。しかしあらためて3月11日を経験してからの日々を思うと、この年に「いのちの泉はあなたにあり、私たちはあなたの光のうちに光を見るからです」との詩篇36篇の御言葉をいただいて、「いのちの水の流れ出る教会」を目指して歩み出したこと、伝道する教会として、人を生かすまことのいのちの水の源となっていくことを祈り願いつつ歩み出したことには、主の深いご計画があったのではないかと思っています。
 この町の中にこの教会が建っているということの意味の深さと責任の重さ、ということをあらためて考えさせられています。地域の中に教会があることで、人々が安心を得、具体的な助けを得、そして希望を得ていく、そのような役割を教会は求められているのではないか。単に魂の救い、心の問題だけでなく、体の救い、生活の問題を含めてトータルな人間の生そのものに対する大切な奉仕の務めを、教会は主から委ねられているのではないか。もちろんそれらは今の私たちにすぐに取り組めるものではないとの思いを抱くことがあるかもしれませんが、3月以来幾度となく東北の地を訪れ、小さな地方教会が今回の出来事を通して地域の中でまさしくいのちの水の源となって生きている姿を目の当たりにするとき、あらためて私たちが為すべき務めとは何であるかを主の御前に静まり、深く問われながら、主の御心に従っていきたいと思うのです。

(2)詩篇の経験
 さて、そのような思いを抱きながら、この朝はいつものヨハネ福音書から離れて、詩篇の御言葉にご一緒に聞いていきたいと思います。与えられておりますのは詩篇46篇の御言葉です。1節から3節。「神はわれらの避け所、また力。苦しむとき、そこにある助け。それゆえ、われらは恐れない。たとい地は変わり山々が海のまなかに移ろうとも。たとい、その水が立ち騒ぎ、あわだっても、その水かさが増して山々が揺れ動いても」。この詩篇の背景にあるのは、ヒゼキヤ王の時代の南ユダ王国が大国アッシリヤのセナケリブ率いる軍団に攻め入られ、都エルサレムが包囲されるという南ユダ王国存亡の危機の出来事でした。詩人はそのような強大なアッシリヤの軍隊に取り囲まれた危機的な状況のもとにあっても、主なる神への信頼を揺るがすことなく、「万軍の主はわれらとともにおられる」と主への信仰を繰り返し告白しているのです。
 教会は長い歴史の中で繰り返し詩篇に親しんできました。詩篇はイスラエルの民の礼拝から生み出された詩であり、賛美であり、祈りです。しかも「私」という一人称単数で歌われる個人的、内面的な詩であっても、あるいは今日の詩篇のように「われら」と一人称複数で歌われる共同体としての詩であっても、それらは一時に発せられた言葉というに留まらず、長い時間をかけて多くの人々の中で歌い継がれ、語り継がれて紡がれてきた祈りの言葉なのです。ですから後の時代に詩篇を口ずさんできた教会、信仰者たちはたとえ自分が今直面している経験が、そのまま詩篇の詩人の経験と全く重なり合うことがなかったとしても、もちろん全く重なり合う経験というのはあり得ないことですが、それでもそのような詩篇の伝統といったものの中に、ある普遍的な信仰の響きを聞き取って、そこに自らの祈り心を重ね合わせ、祈りの言葉を重ね合わせて来たのです。そのようにして詩篇には、時を越えて、場所を越えて、神の民たちの経験を結び合わせる働き、ある経験を共有させる働きがあると言えるのではないかと思うのです。そしてさらに詩篇を丁寧に読んで行きますと、そういう神の民の経験の共有というものが多くの場合「苦難の経験」において起こっていると言うことができるのではないかとさえ思うのです。苦しみの中で、祈りの言葉も失われるような、祈りの心もくずおれるような、そんな時に人の言葉の慰めも力とはならず、どんなに親切な言葉、親身な言葉も自分の上を通り過ぎていくような感覚にとらわれる時、私たちは自分自身の祈りの言葉に替えて詩篇で祈る。その時に、詩人たちが、あるいは民たちが味わった苦難の経験、孤独の経験、恐怖の経験、痛みの経験、悲しみの経験、怒りの経験、それらの経験と自分自身の経験とがある共鳴をはじめて、そこで詩人たちの祈り、うめき、叫びがやがて神への信頼、確信、そして賛美へと導かれていく道筋を一緒に辿るということが起こってくるのです。
 そうしてみると、例えば2節後半から3節に次のような言葉があります。「たとい地は変わり山々が海のまなかに移ろうとも。たとい、その水が立ち騒ぎ、あわだっても、その水かさが増して山々が揺れ動いても」。ここには地が揺れ動き、水が地を覆い尽くす様が描かれます。パレスチナの地形から考えればこの言葉は事実に即した表現というよりも、「たとい」と繰り返されるように、詩人の用いた一つの比喩的な表現であるということが分かるでしょう。けれども私たちがこの詩篇を今、こうして読むときに、単にこれらの表現を比喩として読むということだけでは終わらない現実があることに気づかされます。むしろ事実として地が揺れ動き、水が立ち騒ぎ、あわだち、水かさが増して、山々が揺れ動く。まさにそのような現実の前に立たせられている。ではそのような現実を前にした私たちにとっては、この詩篇はその現実を本当には知らない、隔たった言葉でしかないのでしょうか。詰まるところ彼らは「比喩」としてそれらの状況を歌っているだけであって、現実問題として地が揺れ動き、水が立ち騒ぐというような恐怖を味わったことがない、これらは所詮文学に過ぎない、詩に過ぎない、リアリティの伴わない言葉なのでしょうか。

(3)そこにある助け
 もし私たちが聖書というものをその時代と今との間を直結させるだけの書物として読むならば、確かにそのような点と点の結びつきの間に共有できる経験を見つけ出すことは殆ど不可能なことでしょう。けれども詩篇には、その信仰を受け継ぎながら幾多の経験を重ねてきた信仰者たちの祈りの蓄積の中で、その祈りを受け取り、また受け渡していくような伝承の力、私はそれを聖霊による働きと信じますが、そのような働きの力が備わっていて、私たちもまたこの詩篇を遠い時代の言葉としてでなく、単なる比喩の言葉としてでなく、そこに幾多の苦難の経験と、しかしその中で揺らぐことなく告白され続けてきた信仰の経験に重なるようにして、「神はわれらの避け所、また力。苦しむとき、そこにある助け」と告白する言葉が与えられるのです。
 聖霊の神は、神の言葉を私たちに対する今日の言葉として新しく受け取らせてくださるお方です。父なる神は、この礼拝において御子イエス・キリストによって私たちに語っていてくださいますが、この御自身こそがまことのことばであられる御子イエス・キリストの語りかける言葉は、聖霊において今日の私たちの現実となるのであって、私たちはここで過去の言葉を振り返って読んでいるわけではないし、遠い国のかつての時代の人々の経験談から普遍的な原則を導き出しているわけでもない。まさに三位一体の生ける神御自身が、今日、私たちに新しくこの言葉をもって語っていてくださる。私たちの信仰はここにこそ結びつけられなければなりません。そうであるならば、「神はわれらの避け所、また力。苦しむとき、そこにある助け」は、まさに私たち、この時代、この苦難の中に生き、この地が揺れ動く現実の中に生かされている私たちへの、今日、神が語っていてくださる言葉、神が与えていてくださる現実なのです。古い文語訳聖書では「神はわれらの避け所また力なり。なやめるときのいと近き助けなり」とあります。この「いとちかき」の「いと」がよく分からなかったのですが、聖書では「最」という字に「いと」とふりがなが振ってありました。あなたが苦しむとき、あなたが悩むとき、わたしが一番近い助けだよ、と言ってくださる神がおられる。父なる神は、私たちから遠く隔たったお方ではない。助けるのに遅れる神ではない。助けたくても手が届かない神ではない。一番近い助け。そこにある助け。そのような神がともにおられることの確かさを覚えたいのです。

(4)いのちの水の流れを辿って
 私たちはこのお方とどこで出会うのでしょうか。4節、5節にこうあります。「川がある。その流れは、いと高き方の聖なる住まい、神の都を喜ばせる。神はそのまなかにいまし、その都は揺るがない」。私たちは今朝、この川の流れに目を留めたいと思います。そのまなかに神がおられる神の都に流れる川。神の臨在の都から流れ出る水の流れを辿るとき、私たちはそこで神との出会いを果たし、この神を崇め、賛美し、祈り、礼拝する。まさにいのちの水の流れ出る教会の建つ場所がここにあるのです。しかもそればかりではない。この水の流れをずっと辿っていく先には、やがて約束されている天の御国での礼拝があるのです。ヨハネ黙示録7章9節から17節。「その後、私は見た。見よ。あらゆる国民、部族、民族、国語のうちから、だれにも数えきれぬほどの大ぜいの群衆が、白い衣を着、しゅろの枝を手に持って、御座と小羊との前に立っていた。彼らは、大声で叫んで言った。『救いは、御座にある私たちの神にあり、小羊にある。』御使いたちはみな、御座と長老たちと四つの生き物との回りに立っていたが、彼らも御座の前にひれ伏し、神を拝して、言った。『アーメン。賛美と栄光と知恵と感謝と誉れと力と勢いが、永遠に私たちの神にあるように。アーメン。』長老のひとりが私に話しかけて、『白い衣を着ているこの人たちは、いったいだれですか。どこから来たのですか。』と言った。そこで、私は、『主よ。あなたこそ、ご存じです。』と言った。すると、彼は私にこう言った。『彼らは、大きな患難から抜け出て来た者たちで、その衣を小羊の血で洗って、白くしたのです。だから彼らは神の御座の前にいて、聖所で昼も夜も、神に仕えているのです。そして、御座に着いておられる方も、彼らの上に幕屋を張られるのです。彼らはもはや、飢えることもなく、渇くこともなく、太陽もどんな炎熱も彼らを打つことはありません。なぜなら、御座の正面におられる小羊が、彼らの牧者となり、いのちの水の泉に導いてくださるからです。また、神は彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださるのです』」。
 多くの人々が言葉にできないような多くの悲しみ、痛み、怒り、苦しみを抱えて生きているこの時、どんな人間の言葉も振る舞いも本当の慰めを与えることができない。そんな人間の力の限界、言葉の限界を思い知らされる一方で、しかし本当の慰めを与えてくださるお方は、ただお一人であることの確信を私たちはいよいよ確かにしたいと願います。「御座の正面におられる小羊が、彼らの牧者となり、いのちの水の泉に導いてくださるからです。また、神は彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる」。この小羊なるイエス・キリストこそが私たちにとっての最も近い助け主でいてくださるのです。

 



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