秋の修養会朝拝 2010/09/19
『信じること、祈ること』

Iヨハネ5:14-15

 ようやく暑さが過ぎ去って、爽やかな秋の気配を感じる頃となりました。この朝は秋の修養会ということで、まずご一緒に主を礼拝して御言葉をいただき、午後からは31名の方々で松原湖バイブルキャンプに場所を移して明日までのプログラムが計画されています。送り出してくださる皆さんにも恵みをご一緒に分かち合いたいと思います。
 この朝波与えられているヨハネの手紙一5章から、「信じること、祈ること」を主題に主の語りかけにご一緒に聞いてまいりたいと思います。

(1)祈りを聞いてくださる神
 私たちが主イエス・キリストと出会い、このお方とともに生きる歩みを始めて行く中で、新しく私たちの生活の中にもたらされるものの一つ、それが「祈る」ということではないでしょうか。もちろんキリストと出会い前にもそれぞれの仕方で「祈る」ということはあったかもしれない。しかし祈りが生ける真の神との語り合い、人格的な交わりであるゆえに、私たちにとっての真の祈りは、祈りを聞いてくださる神との出会いがあってはじめて始まるものなのです。そういう祈りの交わりの祝福が今日の私たちに与えられている。祈りがむなしい独り言でなく、単なる心の浄化作用のための所作でなく、自己満足と現実逃避の営みでなく、まさに祈りが祈りとして成立する最も大切な用件、それが、祈りを聞いてくださる神がおられるという恵みの事実なのです。
 今日与えられているヨハネの手紙一5章14節には次にように記されています。「何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださるということ、これこそ神に対する私たちの確信です」。私たちの神は私たちの願いを聞いてくださる神である。それは父なる神が御子イエス・キリストによって私たちを愛し、私たちをもご自身の子どもとしていてくださるからであって、祈りは神を父なるお方として持つ私たち、神の子どもたちに与えられている大きな特権なのです。父が愛する子にはもっともよいものを与えてくださる、その父の愛を信じて疑わずに祈るようにと、御言葉は進め励ましてくださいます。「求めなさい、そうすれば与えられます」と主イエス・キリストご自身も福音書の中で教えていてくださるとおりです。
 しかしながら、同時に私たちが覚えなければならないのは、この父なる神への願いはどういう方向性でささげられるかということでしょう。独りよがりな一方的な願いを機関銃のように放ち続けるということでは交わりは成り立ちませんし、御心に叶わない願いが聞き届けられることもありません。大切なことは祈りの中で「神の御意志に一致する」方向に向けられていくことです。先の14節が「何事でも神のみこころにかなう願いをするなら」と語るように、祈りは神の御心の一致のための手段なのです。そうであれば祈らずして御心を知ることが不可能であることが明らかですし、さらには祈りの中で御心との一致を確信するに至ったならば、すでにその祈りがかなえられたとの確信を得ることができるのです。15節に次のように記されるとおりです。「私たちの願う事を神が聞いてくださると知れば、神に願ったその事は、すでにかなえられたと知るのです」。私たちを愛してやまない主なる神、私たちに喜ばしいよき御心を備えたもう父なる神のよき御心に、私の願いが重なりあり、溶け混み合い、一致するまでに、忍耐強く、望みを持って祈り続けていく時に、主イエス・キリストが聖霊によってその祈りを父なる神の御前にとりなしてくださり、御父はその祈りを聞き届けてくださるのです。

(2)へりくだりと忍耐と確信と 
 このように私たちの願いを聞いてくださるお方に対して、では私たちはどのように祈るのか。三つのことを教えられたいと思います。まず第一に神の御前にへりくだって祈るということです。祈りは一方通行のものではありません。自分の願いを一方的に主張するのでなく、主が私にどのように語りかけ、どのような道を示してくださるのかを聞く心が必要でしょう。主の御心を請い求める祈りには主の御前での謙遜さが欠かせないものなのです。へりくだりは主の御前で自らの罪を見つめる中で自覚させられるものです。私たちは自らの罪の姿を見るときに、深く頭を垂れて主の御前に身を低くせざるを得ません。しかし主は低くするものを高く挙げてくださり、うつむく私たちの顔を御自身へと向けさせてくださるお方なのです。
 第二のことは神の時を待つということです。私たちの願いはどれをとっても切なるものであり、緊急のものです。悠長に構えて聞かれても聞かれなくてもどちらでもよいといううような祈りはありませんし、祈っていたことを自分で忘れてしまうような祈りもありません。しかし私たちは祈りの切実さが籠もるあまりに、神の時を待てずに、神への祈りに見切りを付けて御前にある祈りの座から離れてしまうことがあってはなりません。「いつでも祈るべきであり、失望してはならない」ことを主イエスは教えてくださっています。この主に希望を置いて、私たちは忍耐を持って祈り続け、捜し続け、たたき続けるのです。
 さらに第三のことは、祈りは聞かれるという揺るがない確信を持つことです。祈りが聞かれることの確信を、私たちはどこに求めるのでしょうか。熱心にたゆまず祈ることの大切さを聖書は教えますが、しかし祈り手の熱心さが祈りの答えの確かさと直結するわけではありません。祈りの確信の根拠はただ一つ、祈りを聞いておられるお方が真実なお方であるという信頼です。ヨハネ14章13節、14節で主イエスはこう言われました。「わたしは、あなたがたがわたしの名によって求めることは何でも、それをしましょう。父が子によって栄光をお受けになるためです。あなたがたが、わたしの名によって何かをわたしに求めるなら、わたしはそれをしましょう」。キリストが私たちの祈りを聞き、それを担い、それに答えてくださる。これ以上の確かな祈りの根拠はありません。私たちはしばしば「願ったことが答えられるか」ということだけに思いが向きがちですが、この祈りを聞いていてくださるのは誰か、ということがより重要なことなのです。

(3)祈りと聞き届け
 ここであらためて、祈りが聞き届けられるということについて考えておきたいと思います。もう一度、14節、15節をお読みします。「何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださるということ、これこそ神に対する私たちの確信です。私たちの願う事を神が聞いてくださると知れば、神に願ったその事は、すでにかなえられたと知るのです」。父なる神はご自身に向かって願い求める私たちの祈りを聞いてくださると信じるとき、私たちにはその祈りの答えの先取りが許されています。マタイ福音書7章11節で主イエスが「天におられるあなたがたの父が、どうして、求める者たちに良いものを下さらないことがありましょう。」と言われたように、神が私たちの父なるお方であり、父が子に対して注いでくださる愛のゆえに、すでに答えを得ていると言えるのです。
 しかし私たちが祈りの生活の中でしばしば直面する問題は、自分の捧げている祈りが聴き届けられていないのではないかということではないでしょうか。一生懸命祈っているのに、なかなかその答えが与えられない。祈ってもいっこうに道が開かれず、神は沈黙を続けておられるように思われる。次第に主は私の祈りを聞き逃しておられるのではないか。私の祈りに答えてくださらないのではないか。そうやって私たちの祈る気力が萎えていくようなことが起こってまいります。はたして聞き届けられない祈りはあるのか。これは私たちの祈りの生活における大きな問いと言えるでしょう。
 この問いを考える上で大切な御言葉がIIコリント12章7節から10節の箇所です。「私は、高ぶることのないようにと、肉体に一つのとげを与えられました。それは私が高ぶることのないように、私を打つための、サタンの使いです。このことについては、これを私から去らせてくださるようにと、三度も主に願いました。しかし、主は、『わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである。』と言われたのです。ですから私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう」。
 ここでパウロは自分自身の「肉体のとげ」を取り去ってくださるように三度も祈ったにも拘わらず、それが取り去られなかったという経験をします。パウロに与えられた「肉体のとげ」が何を指したのかは定かではありませんが、一つには彼の目の疾患のことではないかと言われています。それは伝道者パウロにとっては受け入れがたい経験であったに違いない。主のための働きを思う存分したいのに、そうすることできない肉体のとげ。それを取り去ってほしいと彼は何度も祈りました。しかし祈っても祈ってもその願いが聞き届けられないと言う経験をする。なぜ主はこれを私から取り去ってくださらないのか。三度も祈ったとは、何度も何度もということでしょう。しかしその祈りの中でパウロは気づかされる。神が自分に肉体のとげを与えられたのは「私がたかぶることのないように」という神の配慮であり、それによって「主は、『わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである。』と言われたのです」と確信するに至り、ついには「ですから私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう」とまでに言うことができるように変えられていった。こうしてパウロの祈りは確かに神に聞き届けられたのです。肉体のとげをのぞいてほしいというパウロの願いは果たされなかったけれども、しかしパウロはそれ以上の答えを神から受け取りました。神はパウロの祈りを聴き届けてくださらなかったのはなく、彼の願い以上の答えを与えてくださったのです。
 もちろん私たちが気をつけておきたいのは、そういえるのは祈ったパウロ自身だけだということです。第三者がこの祈りの交わりの中に踏み込んで、パウロに向かって「それはあなたの願いとは違う答えです」ということはできない。祈りの交わりの中で、祈る張本人に、主はご自身の御心を明らかにされるのです。

(4)信じること、祈ること
  この朝、「信じること、祈ること」を巡って御言葉から教えられてきました。私たちはしばしば自分自身の願った通りの答えが与えられないと祈りが聴き届けられていないのではないかと考えがちですが、真の祈りが主の御心への一致であることを思い起こす時、聴き届けられない祈りはない。それが私の願った祈りとは違った答えであっても、それが神の答えなのであり、神が答えられない祈り、聴き届けられない祈りはないのです。こうして祈りの交わりの中で「信じる」ということの輪郭がはっきりとしてくるのであり、「信じる」ことを通して「祈り」が具体的な言葉として発せられていく。そのような祈りの交わりを表すのが祈りの結びの言葉。神の「然り」としての「アーメン」です。
 私たちの祈りを聞いてくださるお方は、天地万物の創造主にして全知全能の神、そして今もあわれみ深い御手をもって御心を成し遂げてくださる生けるまことの神であられ、しかもそのような偉大なる神が、私たちの父として、私たちに愛と恵みを注いで下さるお方です。祈りつつも確信が持てず不安になる時にも、祈りながらも答えが出ずに行き詰まる時にも、祈ること自体がとぎれそうになる時にも、にもかかわらず、希望を持って祈り続けることができる。この幸いを覚えながら、信じつつ祈り、祈りつつ信じ続ける歩みを今週もここからはじめてまいりましょう。

 



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