修養会朝拝  2008/09/20
『神のみこころにかなう願い』

ヨナ1:1-3,Iヨハネ5:14-15

 この朝の礼拝は、今日から明日にかけて行われる秋の修養会の一環として、今回の主題である「『私たちのこころざし』を考える」に関連して、神の御心との一致ということについて、お読みいただいた二つの御言葉、一つは旧約聖書ヨナ書1章、今一つはヨハネの手紙一5章の御言葉からご一緒に教えられたいと思います。

(1)神の御心と私たちのこころざしの一致
この年、私たちの教会ではピリピ書2章13節の「神はみこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださるのです」との御言葉を主題に掲げて歩んでいます。すでに1月の新年聖会でも教えられたことですが、ここでの「あなたがたのうち」とは、1章4節にある「あなたがたのうちに良い働きを始められた方は、キリスト・イエスの日が来るまでにそれを完成させてくださることを私は堅く信じているのです」との御言葉にも通じるもので、そこでは「あなたがたの間に働いて」という共同体的な意味とともに、「あなたがたの内側に働いて」という内面的な意味をも持っていました。
そこで私は新年聖会の午後の部の締めくくりにおいて次のように申し上げました。「私のうちに与えられた願いが、果たして人の思いからわき上がってきたものか、それとも神の喜びの御意志からもたらされたものか、人からのものであれば退け、神からのものであれば従う。聖霊論的な視点はこのような絶えざる二分法から私たちを解き放ち、むしろ私たちのうちにこころざしを立てさせる、という神のお働きに対する柔らかで従順な信仰を養います」。つまり私たちはともすると、自分の心の内にいだく願いと外からもたらされる神の御心とを対立的に捕らえてしまい、いつも自分の思いを否定的に捉えようとするあまり、時にそれが限界に達するとすっかり価値観が逆転して、かえって神の御心を徹底的に排除して自分の思うがままに振る舞おうとするような極端な考え方に陥ってしまいがちです。私はつねづねそのようなキリスト者のうちに見られる二元論的な考え方から自由にされるために、神の御心の中に自分自身の意志、思いや願いといった心の有り様が正しく位置づけられる聖霊論的な考え方が必要であると痛感してきました。すなわち、神の御心と私たちの志が一致する道筋を見出したいと願っているのです。
 そこでこのテーマについて考えるに当たり、大切な原則を教えてくれている御言葉にこの朝、耳を傾けておきたいと思っています。ヨハネの手紙一5章14節をお読みします。「何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださるということ、これこそ神に対する私たちの確信です」。神に向かって「こうしたい、ああしたい」と願う祈りは私たちに許されている祈りであるばかりでなく、むしろそのように祈れと勧められている祈りでもあります。「求めなさい、そうすれば与えられます」と主イエス・キリストご自身も福音書の中で教えていてくださるとおりです。祈りは私たち神の子どもたちに与えられている特権であり、とりわけ願い求めは、神を父なるお方として持つ神の子どもたちの祈りの中心であるとさえいってよいものです。

(2)御心にかなう願い
 しかしそこで私たちが見落としてはならない大切な一つの言葉があることに目を留めたいと思います。それが「神の御心にかなう願いをするなら」という一句です。これを祈りの条件とみるか、祈りの保証とみるかでずいぶんと私たちの祈りの世界は違って見えてくるように思うのです。ある人はこの一句を祈りの条件とみて、「なんだ、何でも願えと言っても結局は神様の制限の中のことであるなら、そこには自由がないではないか」と祈りの世界をずいぶん狭い窮屈な世界のように見るかも知れません。その一方である人はこの一句を祈りの保証とみて、「ああ神が私のこんな願いでさえも御心の中において時に、その祈りは必ず応えられるのだなあ」と祈りの確かさを見出し、祈りの世界の広がりを喜ぶことができるのです。
このことは、神と私たちの関係が御子イエス・キリストの贖いのゆえに結ばれた父と子の関係であることを知る時には、よく分かってくることではないかと思います。父は子を愛するゆえにその愛の方向性の中で愛する子の願いを聞き入れますし、時にはその同じ愛の方向性の中で祈りのとおりに応えられないという仕方で祈りに応えられるのです。私たちは時に自分の願いをそのまま何の条件も付けずに聞き入れてくれる神を欲しますが、もし神が何の条件もつけずに祈りを聞くお方であるならば、そのお方は私たちの祈りを聞くという保証もされずに、ただ私たちの勝手気ままな祈りを無責任に聞き流すだけのお方ということになってしまうでしょう。その願いの結果が神の御心から大きく逸れるものとなったとしても、それについては私たちをただ見放すだけのお方ということになってしまうのです。しかし神は私たちを愛し、慈しみ、守り、導く父なるお方として、私たちの歩みをご自身の御心の中に導かれるお方です。だからこそ私たちは神に願う祈りそのものを深く吟味し、祈りが聞かれるか否かというただその一点だけで神と繋がる関係ではなく、むしろ祈りの交わりの中で、父なる神の神の約束の確かさと保証の中に愛されている神の子どもとしての立場を見出し、そこに安心と平安を見出す者でありたいと願うのです。

(3)神の御顔を避けて
私たちが自分自身のうちに抱く願い、こころざしが神の御心と一致したものであるか否かを確かめる手段として、しばしば教会が教えられてきたのが私の心のうちに御言葉の約束を伴って与えられる内的な確信ということと、周りからの助言や客観的な状況によって示される外的な確信ということです。内的確信だけではしばしば独善的になりますし、外的確信だけでは神の御前に責任を引き受けていく姿勢が揺らぐことになりがちです。もちろん時には周囲の反対を押し切ってでも従わなければならない御心がありますし、周囲から押し出されるようにして進み出す御心の道があることも確かです。しかし信仰の世界の原則としては、この両者が一致していく中で私たちは神の御心と私の内なる願い、こころざしの一致を見出していくことになるのです。しかし時に私たちは信仰の歩みの中でこの一致のずれの中に陥ります。またある時には神の御心に敢えて反した歩みをしていこうとします。そしてその時にもどこかで、そのようなあり方を神の御前に正当化しようとして内的確信、外的確信を使い分けたくなるような心が生まれてくることがあるのです。
 この朝、旧約聖書ヨナ書の1章1節から3節を読んでいただきました。旧約聖書の中でも非常に印象的なヨナのストーリー、子どもたちも大好きなあの魚に飲み込まれて三日三晩を過ごしたヨナさんのストーリーの冒頭部分です。細かな説明は省きますが、ヨナは主なる神から、当時イスラエルの敵国であったアッシリアの首都ニネベに赴いて、彼らに悔い改めのメッセージを語るようにと促されたにもかかわらず、その神の御心に従うことを嫌い、敢えてその道と反対の道に進もうとしたのでした。このヨナ書については、先に召された遠藤嘉信先生が非常に深い洞察に満ちた味わい深い説教集を残しておられますのでぜひ手に取っていただきたいと思いますが、そのヨナ書の冒頭にある意味でこの書の主題が明確に現れていると言えるのです。1節から3節をお読みします。「アミタイの子ヨナに次のような主のことばがあった。『立って、あの大きな町ニネベに行き、これに向かって叫べ。彼らの悪がわたしの前に上って来たからだ。』しかしヨナは、主の御顔を避けてタルシシュへのばれようとし、立って、ヨッパに下った。彼は、タルシシュ行きの船を見つけ、船賃を払ってそれに乗り、主の御顔を避けて、みなといっしょにタルシシュへ行こうとした」。ニネベに向かえと言われたヨナが向かった地、それはニネベとは正反対の海を向こう、今のスペイン南部に位置するタルシシュでした。ニネベに行きたくない、むしろそこからなるべく遠くに逃れたい。それは紛れもなくヨナの心の内の願いです。そしてその願いに従って港町ヨッパに向かうと、ちょうどタイミング良く、地中海を渡っていくタルシシュ行きの遠洋客船を見つけ出す。一体タルシシュ行きの船にどれだけの船賃がかかるのか分かりませんが、彼の手持ちをかき集めてみるとちょうど船賃も足りる。自分一人が皆と違う道を進むのかと思いきや、タルシシュ行きの船に乗り込む人は大勢いる。みなと一緒だという安心感もある。こうして一つ一つ道が開かれていく。願いが適っていく。首尾良く事が運んでいく。外的な状況だけを見れば、彼の道を阻むものはなく、むしろ道は開かれて行っている。神様の御心でなければ閉ざされるはず、しかし道が開かれるということは進んでいって良いというサインに違いない。ヨナの心には神の御心に必ずしも一致した振る舞いになっていないことの後ろめたさはあったことでしょう。しかし状況が開かれていく中で、開かれていると言うことは許されているということだ。そのように少しずつ自分の行動を正当化する理由付けが増えていったのではないかと思います。
 しかしこの短い御言葉の中に二度も繰り返される言葉が、ヨナの振る舞いの決定的な問題点をはっきりと指摘しています。それが「主の御顔を避けて」という言葉でした。彼はタルシシュ行きが神の御心に適う願いであるかどうかで迷ったのではありません。むしろ彼に対する神の御心ははっきりしていました。それはニネベに行けということです。しかし彼はそれを拒んだ。そしてその神の御顔を避けるようにしてタルシシュ行きを選ぶ。その結果はどうなっていくかはぜひヨナ書の続きを読んでいただきたいと思いますが、ここで私たちは大切なことを学び取らなければなりません。私たちがあることを選び取って行かなければならないとき、神の御前に御心を尋ね求めて祈るとき、それが神の御心に適うか否かを判断することは、ある意味で与えられている信仰を総動員して祈り求めていく難しい作業であることは間違いありません。しかし、その一方でそれが神の御心に背くか否かを判断することはさほど難しい判断ではないように思いますがいかがでしょうか。その時には実は私たちは気付いているのではないか。どこかで分かっているのではないか。それが主の御顔を避けようとする判断であり行動であり、ニネベでなくタルシシュに向かう道を進もうとしているのではないか。そしてそれが分かっているからこそ、何とかそれに正当な理由付けをして自分を納得させ、結果的にますます神の御前から逸れていくことになってしまっているのではないか。しかし、道が開かれていくことが、状況が許されていくことが、そのままその振る舞いが神の御心に一致していることを保証するものとはなりえない。むしろそこで私自身が主なる神の御前にきちんと顔を向けているか、それとも主なる神の御前に顔をまっすぐに向けることができず、御顔を避けようとしているか。そこにおいて私たちのこころざし、願いと神の御心との一致が測られ、試されるのです。神の御顔を避ける。これは創世記3章に記された人間の堕落以来の習性です。創世記3章8節にこうあるとおりです。「そよ風の吹くころ、彼らは園を歩き回られる神である主の声を聞いた。それで人とその妻は、神である主の御顔を避けて園の木の間に身を隠した」。つまり神の御心にかなう願い、こころざしのしるしというのは、むしろこの神の御顔の前、神の面前においてまっすぐに注がれる神の眼差しのもとに立ち、その神の前にまっすぐに立つことのできる心において示されるということができるのではないでしょうか。

(4)神の御意志への一致としての祈り
ヨナの振る舞いに欠けていたもの、それは神の御心を知り、それに自らの心を重ね合わせていく作業でした。神の願いが私の願いとなるまでに祈ることをせず、むしろ神の願いと対立する自分の願いの赴くままに進むことで、結果的に神の御顔を避けて、御心から遠くへ遠くへと進んでいこうとしたのです。もちろん神の御心と私の願い、こころざしとはいつもいつもピッタリと一致するとは限りません。むしろそこにはずれがあることのほうが多いのです。しかし問題はそのずれをどう扱うかということです。ずれがあることを無理矢理自分の中にねじ込んで、神の御心に従うといって自分の心をねじ曲げて無理矢理納得させるのか。それではその時は従順に従っているかに見えても、後々になってねじ曲がった心が反発し始めることがあります。ずれに気付かないまま突き進んでいけばいつまでもその両者は交わることがなく、御心を求める祈りすら生まれては来ないでしょう。神の御心に背を向けて自分の願いだけを正当化して進むならば、あるところまでは進むことはできるとしても、最終的には神の御顔を避けて神から遠く距たったところに行き着いてしまいます。
 そこで私たちには「祈り」が与えられているのです。祈りなしに神のみこころと私の願い、こころざしが一致していくことはあり得ません。祈りなしに一致しているか距たっているかを正しく知ることすら私たちにはできないのです。では一言二言祈ればよいかといえば、そう簡単なことばかりではないでしょう。忍耐をもって、望みをもって祈り続けていくことが必要であると聖書は繰り返し繰り返し教えています。そうやって父なる神の御心と私たちの願い、こころざしの一致を祈り続けていく中で、私たちは自分の願いに神の御心を引き寄せる祈りではなく、むしろ自分自身の願いが神の御心に近づけられていくという信仰の経験をさせられていくことになるのです。今、水曜の祈祷会で学び続けているウェストミンスター小教理問答の学びがいよいよ大詰めを迎えているのですが、次回から祈りのついて学ぼうとしています。この小教理問答の第98問に次のように記されています。「問:祈祷とは、何ですか。答:祈祷とは、神の御意志に一致する事のために、キリストの御名によって、私たちの罪の告白と神のあわれみへの感謝に満ちたお礼を添えて、神に私たちの願いをささげることです」。これは極めて重要な教えです。祈りは神への願いだというのですが、その願いはどういう方向性でささげられる願いかが大切なポイントであり、それについて小教理問答は「神の御意志に一致することのために」と教えるのです。祈りは神の御心の一致のための手段なのです。そうであれば祈らずして御心を知ることが不可能であることが明らかですし、またかえって、御心との一致の確信に至ったならば、すでにその祈りがかなえられたとの確信を得ることができるのです。今日のIヨハネ5章15節に次のように記されるとおりです。「私たちの願う事を神が聞いてくださると知れば、神に願ったその事は、すでにかなえられたと知るのです」。私たちを愛してやまない主なる神、私たちに喜ばしいよき御心を備えたもう父なる神のよき御心に、私の願いが、私たちのこころざしが重なりあり、溶け混み合い、一致するまでに、忍耐強く、望みを持って祈り続けていく、時には神にすがりつくように、時には神を揺り動かすほどに、主イエス・キリストがその祈りをとりなしてくださり、聖霊が祈る言葉をも与えてくださることに信頼して、御子イエス・キリストの父なる神を、このキリストの贖いのゆえに親しく我が父よとお呼びして、神の御心にかなう祈り、願いをささげ続けていく私たちでありたいと願います。

 



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