修養会朝拝 2008/09/14
『建て上げる喜び』

 Iテサロニケ5:1-11

 この朝の礼拝は、今日から明日にかけて行われる秋の修養会の一環として、今回の主題である「建て上げる喜び」ということについて、お読みいただいたテサロニケ人への手紙一5章の御言葉からご一緒に教えられたいと思います。午後からは会場を松原湖バイブルキャンプに移して一泊の交わりの時が持たれますが、そちらに参加されない方々もご一緒にこの朝の御言葉を通して、互いを建て上げ、教会を建て上げる私たちの信仰の姿勢について、御言葉から教えられていきたいと思います。

(1)励まし合い、建て上げ合うこと
 この数年、秋の修養会では「出会いの喜び」、「ともに歩む喜び」と主題を掲げて来ました。一人の人が主イエス・キリストとの出会いを果たし、その人生が変えられていく喜びから、実際に信仰生活を歩み出していくなかで救いの喜びを分かち合うことへと導かれて来たわけです。そして今年は「建て上げる喜び」を主題として与えられました。私たちの主にあってともに歩む交わりが、それによって互いを建て上げ、教会を建て上げるものとなっていくことを目指してのことです。そこでこの朝は開かれておりますテサロニケ人への手紙一の5章を順を追って学ぶという仕方ではなく、通常「主題説教」と呼ばれる方法で、11節の御言葉に徳に注目しながら「建て上げる」ということの意味について深く教えられていきたいと願っています。11節をお読みします。「ですから、あなたがたは今しているとおり、互いに励まし合い、互いに徳を高め合いなさい」。ここで特に私たちが目を留めたいのが、後半の「互いに励まし合い、互いに徳を高め合う」というパウロの勧めの言葉です。
 ここで「励ます」と訳されている言葉は、これまでもたびたび新約聖書で用いられている「パラカレオー」という言葉で、他に「慰める」、「助ける」、「勧める」などという意味があります。一番よく知られた用い方としては、春の修養会やペンテコステ礼拝で教えられたように、聖霊の神が私たちの慰め主、助け主であるということでした。本来は「傍らに呼ぶ」というような意味があって、いつも私たちとともにいてくださり、寄り添っていてくださる聖霊の恵みがそこでは教えられたのです。そして今日の御言葉では、この聖霊の神によって結ばれた私たちの交わりにおいて、私たちもまた互いに励まし合いなさい、慰め合いなさい、傍らに寄り添って助け合いなさいと教えられているのでした。これは一つのおさらいとして心に留めておいていただければと思います。
 しかしこの朝の主題にかかわる言葉として、私たちがより大切に覚えておきたいのが、続く「徳を高める」という言葉です。これは「オイコドメオー」という言葉で、元来「家」を意味する「オイコス」という言葉と、「建てる」という意味の「デモー」という言葉が一つになって、文字通り「家を建てる」、「建築する」という意味を持つ言葉となりました。つまりこれが「建て上げる」という言葉です。やがてそこから意味が深められて、今日の第一テサロニケ5章11節の「徳を建てる」あるいは「徳を高める」というような一つの価値観をあらわす意味や、「教育する」というような意味を持つようになっていったのです。まさに日本語で言う「建徳的」ということです。ここでパウロがテサロニケの教会の兄弟姉妹たちに「あなたがたは互いに建て上げ合いなさい」と勧めた、その心はどういうことであったのでしょうか。「オイコドメオー」という言葉の新約聖書における広がりと深まりについてはあらためて学ぶことにいたしますが、ここで考えたいのは「励ます、慰める」と「建て上げる、徳を高める」という言葉が二つセットで語られているということの意味です。実はこの二つの言葉、これは私たち御言葉の務めにあずかる説教者、牧師にとっては極めて重要な、そして決して忘れてはならない大切な言葉です。なぜならばこれらは御言葉の説教がどのようなものであるかを示す言葉だからです。牧師が語る御言葉の説教は、信仰者一人ひとりを、そしてその群れである教会を慰め、励まし、建て上げる言葉でなければならないということなのです。つまり聖書が「建て上げる」ということを勧めるとき、そこではまず何と言っても「言葉による建て上げ」、しかも「神の言葉による建て上げ」が教えられているということなのです。

(2)互いに建て上げる喜び
 しかも、ここで「励まし、建て上げる」ということが、一方的なことでなく「互いに」と言われているところが心に留まります。私たちがどのような御言葉を聞くのかはもちろんのこと、その御言葉をもって互いに語り合うのか、それを聞き合うのかもまた、私たち自身と教会の建て上げのために大切なことなのです。牧師はもっぱら説教によって語りますが、しかしそれだけでなく、教会の兄弟姉妹たちが互いに語り合う言葉もまた、神の言葉によって導かれ、養われる言葉として、互いを建て上げ、教会を建て上げる言葉です。その意味で、私たちが礼拝において聞いている御言葉が、私たち自身の中に深くとどまり続けるとき、やがて私たちが互いに語る言葉もまた、その御言葉の展開、また適用として互いの中に深くとどまりつづけるようになるのです。
 先週の水曜日の祈祷会の後、松原湖で行われている補教師研修会の奉仕のために車でキャンプ場に向かいました。すでに幾人かの兄弟姉妹たちからも感想を聞き、また事前に原稿をいただいて目を通してはいたのですが、なかなか録音テープを聴く機会のなかった8月17日の礼拝説教テープを聴きながらのドライブでした。朝の高木役員による説教、夕の堀江役員による説教を聞きつつハンドルを握りながら、途中幾度となく深くうなずき、また「本当にそうだ」と思わず声が出るようなことがありました。それぞれに御言葉と真摯に向かい合い、そこからそれぞれの言葉で語り出される御言葉の説き明かしを通して、それぞれの兄弟方の信仰がにじみでているのを感じましたが、それと同時に、今回の修養会の主題が心にあったことも関係するのかも知れませんが、ああここに建て上げる言葉がある、という実感を抱きました。どういうことかというと、高木役員が説教の冒頭で、「役員に説教壇を委ねて一番心配しているのは牧師かもしれない」という趣旨のことを仰っておられましたが、実際、他の先生や神学生の方に説教奉仕をお願いするときに、その説教者としての実力云々ということでは全くなく、私たちの教会の、私たちの歩みの流れといいますか、ともに毎週毎週礼拝を捧げ、主にあるいのちの御言葉にともに養われ続けている一つの群れとしての経験の積み重ねというものに、それらが溶け込んだ説教であるか、その教会の文脈に沿った説教であるかということが気になるのは事実です。けれども、今回の朝夕拝の説教を聞きながら、そこに確かに同じ信仰の基礎といいますか、とにかく一緒に礼拝を捧げ続け、この群れを建て上げ続けている主にある同労者の中での一致、あるいは連帯感ともいうべき感覚を非常に深く感じたのです。これはやはり同じ群れの中に生きて、ともにこの群れを建て上げる言葉を尋ね求め続ける者として感じうる感覚であるでしょうし、おそらくそれはその礼拝の場におられたすべての兄弟姉妹たちが同じように受け取ってくださった感覚ではなかろうかと思います。その意味で、「役員さんが代わりに説教してくださるなんてすばらしいですね」と他の牧師たちから言われるのですが、それは本当にそうだ、と感謝に尽きる思いを抱きます。まさにここに互いを建て上げる言葉の一つの確かなしるしを見るのです。

(3)建て上げる言葉
 最後にあらためて、私たちを建て上げる言葉とは何か、ということを考えておきたいと思います。私がいつも心にあり、また繰り返し引用する御言葉ですが、使徒の働き20章32節でパウロはエペソ教会の長老たちにこう語りかけました。「いま私は、あなたがたを神とその恵みの御言葉とにゆだねます。みことばは、あなたがたを育成し、すべての聖なるものとされた人々の中にあって御国を継がせることができるのです」。ここで「みことばは、あなたがたを育成する」と訳されるのもまた「オイコドメオー」です。御言葉はあなたがたを建て上げるというのです。私たちは神の御言葉をいつもどのように聞いているでしょうか。牧師の語る説教をどのように聞いているでしょうか。ある人はいつも自分の罪を指摘され、裁かれているように聞くということがあるかもしれません。ある人は、いつも誰かのことを言っている言葉として、自分の頭の上を通り越していくように聞き過ごしているかもしれません。ある人はその都度その都度、反論したり、反発しながら聞いているかも知れませんし、全く他のことを考えてしまっているということがあるかも知れません。もちろん今挙げたことはいずれも極端なことですが、それでも私たちが神の言葉を、語らられる神の御思いに沿った仕方で聞いているばかりでない現実を思わされます。
 しかし御言葉はあなたがたを建て上げる言葉だ、と聖書は語ります。私たちを打ち倒し、くずおれさせる言葉ではなく、私たちを切り捨てる言葉でもなく、あるいは私たちに何の影響の与えない人畜無害な言葉としてでもなく、私たちを建て上げる言葉だというのです。なぜならば、「愛は人の徳を立てる」と言われるように、それは私たちを建て上げる愛の言葉、恵みの言葉だからです。私たちは日常の生活の中でどんな言葉の中に生きているでしょうか。人を傷つけたり、人を卑しめたり、人を打ち倒すような言葉に取り巻かれ、また実際にそのような言葉を投げかけられたり、時は自ら口にしてしまうようなことはないでしょうか。しかし主が御自身の愛する者たちを慰め、励まし、育み、建て上げるために教会に委ねてくださった恵みの御言葉、それは悲しみの中にある人を慰め、打ちひしがれている人を立たせ、孤独の中に佇んでいる人に寄り添い、望みを失っている人を生かし、倒れかけている人を建て上げる、そのような言葉です。そしてその言葉を実は私たち自身が主イエス・キリストからいただいて、この言葉によってまず私たちが生かされ、建て上げられていくときに、教会は建て上げる喜びに互いに満たされていくことができるのです。「ですから、あなたがたは今しているとおり、互いに励まし合い、互いに徳を高め合いなさい」。この朝、私たち一人ひとりがこの言葉よって主イエス・キリストのいのちの養いをいただき、主イエス・キリストの恵みによって建て上げられてまいりたいと思います。

 



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