修養会朝拝  2007/09/16
『ともに歩む喜び』

ヘブル10:19-25

 この朝の礼拝は、今日から明日にかけて行われる秋の修養会の一環として、今回の主題である「ともに歩む喜び」ということについて、お読みいただいたヘブル人への手紙10章の御言葉からご一緒に教えられたいと思います。午後からは会場を松原湖バイブルキャンプに移して一泊の交わりの時が持たれますが、そちらに参加されない方々もご一緒にこの朝の御言葉を通して、私たちの信仰の生涯における「ともに歩む」という在り方、すなわち神とともに歩み、神にあって隣人や主にある兄弟姉妹たちとともに歩む信仰の幸いについて御言葉に聞いてまいりましょう。

(1)ともに歩む信仰
昨年の修養会では「出会いの喜び」を主題に、一人の人が主イエス・キリストとの出会いを果たし、その人生が変えられていく姿をヨハネ福音書のペテロとアンデレの姿から学び、また松原湖での交わりを通して、互いに救いの証しを分かち合うとても幸いな時を持つことができました。今年も修養会委員の方々が準備の話し合いをしてくださり、昨年の主題から一歩進んで「ともに歩む喜び」としてくださいました。イエス・キリストを信じてから実際に信仰生活を歩み出していくなかでの喜びを分かち合うという趣旨です。そこでこの朝ヘブル書10章の御言葉に聞こうとしているのですが、その中心に据えたいのが25節です。「ある人々のように、いっしょに集まることをやめたりしないで、かえって励まし合い、かの日が近づいているのを見て、ますますそうしようではありませんか」。
私たちの信仰は「ともに歩む信仰」と言い表すことができるように思います。私たち人間は本来、造り主なる唯一まことの神とともに生き、またこの神にあって隣人とともに生きるようにと造られました。しかし私たちの中に神を背を向け、神から離れて生きようとする罪が入った時から、私たちは神の前に失われた存在となってしまったと聖書は記します。また罪の中に堕落して神の前に失われた人間は自己中心、自己防衛と責任転嫁を繰り返し、隣人との関わりをも失ってしまっているとも言われます。つまり罪ある人間の姿は神と隣人との間での「孤独」と言うことになるでしょう。しかし主イエス・キリストは私たちをそのような神と隣人から切り離されて孤独の中にあったところから救い出し、神とともに生き、隣人とともに歩む人生へと取り戻し、回復させてくださるお方です。私たちはもはや孤独の中を生きるのではなく、神とともに生き、隣人とともに生きる歩みへと導かれているのです。このことは特に信仰の歩みを考える上で大切なことです。私たちの信仰はともすると「私の救い」ということに終始してしまいやすく、また信仰を個人の内面の事柄に限定してしまいやすいものです。ですから一人で自分の信仰を極めていくようなものとして受け取りがちです。しかし聖書は「私の救い」から始まる信仰の歩みを絶えず「私たちの歩み」すなわち信仰者の交わり、信仰者の群れである教会と結びつけています。私たちはともに主のみからだなる教会の交わりに結びつけられ、教会の中で信仰を育まれ、養われて成長していくのであって、そこから切り離されて一人歩むのではありません。今朝のヘブル10章25節の御言葉は、まさにそのようにして私たちが一緒に集まり、励まし合って歩むことの幸いを教えているのです。

(2)ともに歩む道を
 では私たちが主イエス・キリストにあってともに歩む道とはどのような道なのでしょうか。少し前後しますが20節を見てみましょう。「イエスはご自分の肉体という垂れ幕を通して、私たちのためにこの新しい生ける道を設けてくださったのです」。主イエス・キリストが御自身のいのちを十字架につけ、私たちの罪の身代わりとなって、私たちの前に開いてくださった道。それは「新しい生ける道」だと聖書は語ります。それまでの孤独に歩む道、虚しくさまよい、やがては滅びに向かう道ではなく、いのちへの道、新しい生ける道を主は設けてくださったのです。主イエスはヨハネ福音書11章6節でこう言われました。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通ってでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません」。主が御自身のいのちをかけて開いてくださった道。この道を通ってでなければだれも父のみもとに行くことのできない道を、私たちは今こうして礼拝の歩みを通してともに歩んでいるのです。
では、この新しい生ける道ということをさらに踏み込んで考えておきたいと思います。このことを22節から24節を通して三つにまとめておきましょう。第一の点は「神に近づく道」ということです。22節。「そのようなわけで、私たちは、心に血の注ぎを受けて邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われたのですから、全き信仰をもって、真心から神に近づこうではありませんか」。私たちの信仰の道、礼拝の道のゴールは終わりの時に迎えられる神の御国です。そこで私たちは生ける神と顔と顔を合わせてお会いすることができるのであり、そこに至る道、神に近づく道を私たちは進むのです。私たちはかつては罪の中にあって神に背を向け、神から遠ざかる生活を送っていました。しかし今や私たちは主イエス・キリストのよって罪赦された者として大胆に神に近づく道を進むことができるのです。日毎に祈りの生活を通して、またこの主の日の礼拝を通して、大胆に神に近づくことを神はゆるしてくださり、またそのように私たちを待っていてくださるのです。ヘブル書4章16節にこうある通りです。「ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか」。
 第二の点は「希望を告白する道」ということです。23節。「約束された方は真実な方ですから、私たちは動揺しないで、しっかりと希望を告白しようではありませんか」。信仰の道をともに歩む中で、いつもいつもが順風満帆な道のりとは言えないことがあります。試練の中を通され、信仰が揺さぶられる時があるのです。目当てになる神のお姿を見失い、自分が今どこに立っているのかも分からなくなり、ともに歩んでいるはずの兄弟姉妹たちの姿さえ隠れてしまって、自分は神に見捨てられているのではないかと、そんな信仰の動揺を来たし、絶望の淵に立たせられるようなことがあるかもしれません。しかしそんな時にも私たちは希望を告白し続けようではないかと御言葉は私たちを励まし、奮い立たせます。そのように希望を告白することができるのはなぜか。それは「約束された方は真実な方」であられるからです。ヘブル書13章5節でこう言われる通りです。「金銭を愛する生活をしてはいけません。いま持っているもので満足しなさい。主御自身がこう言われるのです。『わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない』」。
 第三の点は「愛と善行の道」ということです。24節。「また、互いに勧め合って、愛と善行を促すように注意し合おうではありませんか」。私たちは新しい生ける道をともに旅する旅仲間たちです。まさに教会は地上を旅する神の民の集いであり、礼拝はその旅の道すがらなのです。礼拝には実にさまざまな方々が集っています。私はいつもこの礼拝の民のバラエティー、多様性ということが本当にすばらしいことだと思うのです。働き盛りの人もいれば、お年を召した方もいる。若い人もいれば小さい子どもたちもいる。健康な人もいれば、さまざまな病いや弱さを担っている人もある。社会的な立場も様々な、いろいろな個性をもった人々が、主が招いてくださらなければ出会うことの無かったであろう人々が、すでに主を信じている人も、今求めている人も、ともにこうしてひとつところに集められ、主の御名を賛美しながら新しい生ける道を歩み続けることができる。この道ではだれも置いてけぼりにされることはありません。急かせられることもありません。それぞれがそれぞれのペースで、それでも一つのゴールを目指して歩む道です。小気味よいペースで歩んでもいいし、ゆっくりゆっくり進んでもよい。力のある人は弱い人の荷物を負ってあげる。子どもたちとは手を繋ぎ、年老いた人とは歩みを合わせ、疲れた時には労り合い、苦難の道では励まし合い、いつでも賛美の声を上げながら、互いへの愛と善行を示し合いつつ進んで行くのがともに歩む道です。この本当に幸いな事実を改めてこの朝、互いに覚えあい、感謝し合いたいと思うのです。

(3)ともに歩む喜び
 最後に私たちはもう一度、「ともに歩む喜び」ということを深く思い巡らしておきたいと思います。25節。「ある人々のように、いっしょに集まることをやめたりしないで、かえって励まし合い、かの日が近づいているのを見て、ますますそうしようではありませんか」。ここでいっしょに集まることをやめてしまった「ある人々」とは誰のことでしょうか。実はヘブル書の背景には迫害の時代を生きていたユダヤ人キリスト者たちの現実があります。主イエスを信じてともに歩み始めた彼らの中に、やがて迫害の時代が来るとともに、主イエスのゆえに苦しみに会うことを恐れ、迫害を避けて交わりから離れていく人々が起こっていたのです。そういう現実のある中でヘブル書の著者は呼びかけています。「いっしょに集まることをやめてはいけない。むしろ励まし合い、神に近づくために、終わりの日の希望をしっかりと告白し、互いに愛を示し合いながら進もうではないか」と。
 もし私たちがキリストにある幸いだけを受け取って、キリストにある苦難を避けて歩もうとするならば、私たちはこの道を最後まで歩み通すことはできません。キリストの苦しみに与る道を歩む者として召されているからこそ、私たちは一人で歩むのではなく、ともに励まし合い、慰め合いながら歩む旅仲間たちが必要なのです。私たちはこの朝、ともに歩む喜びを、キリストの従う道を歩む中でこそ味わう喜びとして受け取っておきたいと思います。ヘブル書13章12節から14節。「イエスも、ご自分の血によって民を聖なる者とするために、門の外で苦しみを受けられました。ですから、私たちは、キリストのはずかしめを身に負って、宿営の外に出て、みもとに行こうではありませんか。私たちはこの地上に永遠の都を持っているのではなく、むしろ後に来ようとしている都を求めているのです」。かの日が近づいているのを見てますます励まし合いながら歩み道。それは地上の都、やがて朽ちていく虚しい地上の都ではなく、永遠に輝く天の都を故郷として持つことが約束されている主の民こそが歩む道です。そのためには、私たちはキリストの辱めをも身に負って歩んでいきたいと願います。その道をともに歩んでくださるのは主イエス・キリスト御自身です。主イエスとともに歩む喜びの中で、主イエスにあってともに歩む喜びの道をますます互いに励まし合い、仕え合いながら歩んでまいりましょう。

 



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