修養会朝拝 2006/09/17
『出会いの喜び』

ヨハネ1:35-42

 この朝の礼拝は、今日から明日にかけて行われる秋の修養会の一環として、今回の主題である「出会いの喜び」ということについて、お読みいただいたヨハネ福音書1章の御言葉を開いています。午後からは会場を松原湖バイブルキャンプに移して一泊の交わりの時が持たれますが、そちらに参加されない方々もご一緒にこの朝の御言葉を通して、一人の人が主イエス・キリストと出会って救われる、その救いの喜びがやがて人から人へと伝えられて拡がっていく、そのような喜びの連鎖と拡大という視点で、私たちの証しの生活についてともに教えられていきたいと思っています。

(1)見よ、神の小羊(v.35-36)
 初めての人と出会う時、あるいは新しい人の交わりの輪の中に加わっていくというのは、なかなか勇気の要るものです。入ってしまえば何と言うこともないことが、その前はいろいろと自分の身の処し方に気を遣ったり、その場の空気をつかむことに腐心したり、相手との間にどういう共通の話題があるかと考えたりと、それなりのエネルギーを必要とするでしょう。しかし、そこに誰かすでに相手を知っている人が自分を紹介してくれたり、あるいはその輪の中に一人でもすでに知り合っている人がいると、ずいぶんと心強くなり、その垣根は低く、入口は広く感じられるようになるのではないでしょうか。はじめて教会の門を叩かれる方も、そうやって緊張を覚えてお出でになったのかも知れません。しかし一人でもすでに先にいて自分を導き、間を取り持ってくれる存在があるなら、それは大きな励ましとなるものです。今日の場面もそういった一つの光景から始まっていくのでした。35節、36節。「その翌日、またヨハネは、ふたりの弟子とともに立っていたが、イエスが歩いて行かれるのを見て、『見よ、神の小羊。』と言った」。これは洗礼者ヨハネが二人の弟子とともに主イエス・キリストのお姿を見たときの様子を記す御言葉です。35節の冒頭には「その翌日」とありますが、それがいつかと辿ってみると、29節に「その翌日、ヨハネは自分のほうにイエスが来られるのを見て言った。『見よ、世の罪を取り除く神の小羊』」と、この日の前日に、洗礼者ヨハネが主イエス・キリストとはじめて出会い、そこで「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」という大変重要な信仰告白をした日であったことが分かります。しかもこの29節の冒頭にも「その翌日」とあり、さらにさかのぼりますとそれはまたその前日にあった19節から28節の出来事を指していたことが分かります。つまり順序を確かめると、まず最初に間接的に主イエスについての証言を聞き、「私はその方のくつのひもを解く値うちもありません」と語ったヨハネが、その翌日、主イエス・キリストとの出会いを経験し、この方こそ、私たちの罪を取り除くために来て下さったただ一人の救い主であることを告白し、そしてその翌日、自分の二人の弟子とともにいた時に主イエスとの二度目の出会いを経験した彼が、今度は自分の弟子たちを主イエスと出会わせているということになるのです。
 洗礼者ヨハネの役割ということを私たちはすでに2004年の待降節の時に集中的に学びました。その時にも申し上げたことですが、要するに洗礼者ヨハネとはいかなる存在であったかを一言で言い表すならば、それは真の救い主イエス・キリストを「指さす人」であったということでした。そのことが今日の「見よ、神の小羊」という短い御言葉の中によく現れています。いまだ主イエスを知らない人々に、先に主イエスに出会った彼が主イエスを指さし、ほら、あの方が救い主だよ、と指し示してあげる人、そうやって人々に主イエスを紹介し、その人のもとへと促す人。それが洗礼者ヨハネの姿なのです。

(2)来なさい、そうすればわかります(v.37-40)
 このように洗礼者ヨハネを通して主イエス・キリストを紹介された二人の弟子は、その促しの声に従います。37節から39節。「ふたりの弟子は、彼がそう言うのを聞いて、イエスについて行った。イエスは振り向いて、彼らがついて来るのを見て、言われた。『あなたがたは何を求めているのですか。』彼らは言った。『ラビ(訳して言えば、先生。)今どこにお泊まりですか。』イエスは彼らに言われた。『来なさい。そうすればわかります。』そこで、彼らはついて行って、イエスの泊まっておられる所を知った。そして、その日彼らはイエスといっしょにいた。時は十時ごろであった。ヨハネから聞いて、イエスについて行ったふたりのうちのひとりは、シモン・ペテロの兄弟アンデレであった」。ここで二人の弟子のうち、一人は40節で明らかにされるようにシモン・ペテロの兄弟アンデレだったことがわかります。もう一人の名は明かされていませんが、この福音書のあちらこちらの書き方からして、彼はおそらくこの福音書の記者であるヨハネであっただろうと考えられています。
 さて主イエスについていった二人の弟子に対して、主イエスは「あなたがたは何を求めているのですか」とお尋ねになります。実に率直な単刀直入な問いかけです。回りくどいことを言わず、その人の心の中心を突く問いかけです。こういきなり直球の問いを投げかけられて一瞬彼らはひるんだかも知れません。もう少し一般的なあいさつぐらいから始まっていくやりとりかと思いきや、いきなり核心を突いた問いを向けられたのですから。しかし考えてみればそれは幸いなことと言えるかも知れません。当たり障りのない話題でいたずらに時を過ごすよりも、すっと一番問われなければならない本質的な問いを向けられて、彼らは主イエスとの出会いの場に真剣に立たされることになるのです。これに対して彼らはこう応じます。「今どこにお泊まりですか」。この答えを聞いて拍子抜けする思いを抱くかも知れません。なんだ結局二人はただの好奇心や物珍しさで、時の人イエスについていっただけの野次馬に過ぎないのではないかと思われてしまうような言葉です。しかし彼らの語ったこの言葉の真意はそうではないでしょう。むしろ、ラビ、イエス先生よ。通り一遍の挨拶でこの場をやり過ごすことなく、「何を求めているのか」とよくぞ聞いてくださった。ではぜひお時間をいただいて私たちの話を聞いていただきたい。私が抱えている求めを知っていただきたい。それはほんの一言二言の立ち話で済むような簡単なものではない。むしろじっくりと膝詰めで語り合いたい、そんな彼らの思いの表れであったことでしょう。そう考えますと続く主イエスの「来なさい。そうすればわかります」という言葉も文字通り主イエスの宿泊場所が分かります、などという言葉ではないことも明かです。つまりあなたがたの求めていることの答えはわたしについて来ればわかります。そういう主イエスの救いへの招きの御言葉であったのです。
 ここで、この「来なさい。そうすればわかります」という主イエスの御言葉の順序にも注目したいと思います。わたしについてきなさい。わたしに従ってきなさい。そうすれば救いがわかるのだ。その救いにあずかれるのだ。ここには人はいかにして救われるのかということについて大切な原則が教えられています。私たちは普通、わかったらついていきます。理解したら従います。こういう順序で考えるものです。しかし主イエスは、いやまずわたしについてきなさい。そうすればわかるのだ、と仰る。主イエスとの出会いはいつも主イエスの側からの招きから始まるのであり、その招きに応じてついていくところから救いへの道は開かれ、信仰への歩みが始まっていくのです。15章16節で主イエスが「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです」と言われた通りです。

(3)私たちはメシヤに会った(v.40-42)
 こうして二人の弟子は主イエスのまねきに従っていき、そこで主イエスとの出会いを経験し、主イエスのもとで時を過ごす中でその救いにあずかっていきました。そしてそのように主イエスとの出会いを果たした彼らが、今度は彼らも洗礼者ヨハネによって主イエスとの出会いに導かれたように、今度はまた他の人々を主イエスとの出会いにあずからせる役割を果たしていくようになるのです。41節、42節。「彼はまず自分の兄弟シモンを見つけて、『私たちはメシヤ(訳して言えば、キリスト)に会った。』と言った。彼はシモンをイエスのもとに連れて来た。イエスはシモンに目を留めて言われた。『あなたはヨハネの子シモンです。あなたをケパ(訳すとペテロ)と呼ぶことにします』」。夕暮れ時に主イエスに出会い、そのままイエスのもとで語り合いながら夜を過ごした二人の弟子のうち、ヨハネは自分とともにいたもう一人の弟子アンデレの姿を描きます。それはまさに出会いの喜びに満ちた姿でありました。アンデレはおそらく一時も早く、そして一人でも多く、この出会いの喜びを伝えたかったのでしょう。まず自分の兄弟シモンを見つけて息せき切って語ります。「私たちはメシヤに会った」。聞いている方が圧倒されるような喜びに溢れて彼は語ったことでしょう。メシヤにあったぞ、あの待ち望んでいたメシヤにあったぞ。そう叫んだのではないでしょうか。ほんの数時間前までは「ラビ、先生」と呼んでいた彼らが、主イエスとの出会いを経験した今は「メシア、キリストに会った」と叫ぶほどに、それは全く新しく、そして確かな救いとの出会いの光景であったのでしょう。
 しかもアンデレはただその喜びを語るだけでは我慢できない。とにかく俺と一緒に来てくれと、おそらく呆気にとられるシモンの腕をつかんで主イエスのところに連れて行ったというのです。そしてこのことをきっかけにしてシモンも主イエスとの出会いを果たし、主イエスによって目を留められ、「あなたはヨハネの子シモンです。あなたをケパ(訳すとペテロ)と呼ぶことにします」と新しい名を与えられて、主イエスの弟子としての歩みを始めるに至るのでした。洗礼者ヨハネの主イエスとの出会いが、やがてアンデレとヨハネの主イエスとの出会いへと広がり、それが今度はペテロと主イエスとの出会いへと繋がっていく。救い主イエス・キリストとの出会いの喜びの連鎖、その広がりというものを目の当たりにさせられる思いです。一人の人の主イエスとの出会いがそのような祝福と喜びの繋がりと広がりの端緒とされていく。そこで大切なことは「わたしは救い主に出会った」という証しと、イエスのもとに連れてきたというたった二つのことでした。私たちもまた先に主イエスに出会い、この救いをいただいたものとして、その救いを喜び、一人のアンデレとなってここから遣わされていきたいと願います。救いの喜びは広くあまねく伝えられていく。その出会いの喜びの器として、私たちの日々を主にささげてまいりましょう。

 



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