修養会朝拝 2005/09/18
『御言葉に導かれる群れ』

Iテサロニケ2:1-13

 この朝の礼拝は、今日から明日にかけて行われる秋の修養会の一環として、今回の主題である「御言葉に導かれる群れ」ということについて、お読みいただいたテサロニケ人への手紙第一2章から学ぶことにいたします。午後からは会場を越生に移して一泊の学びと交わりの時が持たれますが、そちらに参加されない方々もともに、この朝の御言葉を通して、私たちの教会の「これまで」と「これから」を神のことばに聞き従うという一点に集中して考えておきたいと思うのです。
 現在、10月9日の発行を目指して四十周年記念誌の準備が大詰めを迎えていますが、これまでの作業を通し、この教会の40年を振り返ってみて実感することは、この教会が神の御言葉に導かれて来たという確信です。教会が様々なところを通らされていくという経験の中で、その時々に必要な説教者、しかもそれは牧師たちばかりでなく時には信徒たちも含めた御言葉の取り次ぎ手が立てられて、神のことばが語られ続け、それに聞き続けて来たということ。もちろん主イエス・キリストの教会にとっては、このことは当然のことと言えるかも知れません。しかし、改めてそのことの恵みを確認することを通して、これから先の教会の歩みを展望するに当たっての確かな視座を固めたいと願っています。

(1)パウロとテサロニケ教会
 今日はテサロニケ人への手紙第一2章の1節から13節が開かれていますが、特に注目したいのは13節の御言葉です。「こういうわけで、私たちとしてもまた、絶えず神に感謝しています。あなたがたは、私たちから神の使信の言葉を受けたとき、それを人間のことばとしてではなく、事実通り、神のことばとして受け入れてくれたからです。この神のことばは、信じているあなたがたのうちに働いているのです」。この御言葉を理解するには、そもそもこの手紙が書かれたいきさつ、これまでの文脈やパウロとテサロニケ教会との関係について少しおさらいしておくことが必要でしょう。テサロニケ教会誕生の経緯は、私たちがこの秋以降に学ぼうとしています使徒の働き17章1節から15節に記されています。パウロの第二次伝道旅行の最中、16章のピリピ伝道で占いの霊に憑かれた女性をいやしたことをきっかけに逮捕され、主の不思議な救出劇によって解放された後、パウロとシラスはテサロニケにやって来ます。そしてそこでの数週間の伝道の結果、ヤソンの兄弟や家族、ユダヤ教に改宗したギリシャ人や社会的に身分の高い婦人たちなど、主イエスを信じる者たちが起こされ、ヤソンの家を拠点としてこの町に教会が誕生していったのでした。しかしそれへの激しい反発が起こります。使徒17章5節。「ところが、ねたみにかられたユダヤ人は、町のならず者をかり集め、暴動を起こして町を騒がせ、またヤソンの家を襲い、ふたりを人々の前に引き出そうとして捜した」。この結果、ヤソンや数名の教会のメンバーが町の役人に逮捕されるに至ります。そして10節。「兄弟たちは、すぐさま夜のうちにパウロとシラスをベレヤに送り出した」。
 このようにパウロにとってのテサロニケ教会とは、伝道の実りが結び始めた矢先にユダヤ人たちの迫害によって思いを残しつつも急遽その町を去らなければならなかった無念の場所、そして自分たちは脱出しても後に残されていく信徒たちは間もなく迫害に直面するであろうことを知った上で去っていかなければならなかった、そういう場所なのです。それゆえパウロはそのような苦難の中で信仰の踏みとどまるテサロニケの兄弟姉妹たちを思い、励ましを与え、御言葉が教える福音にしっかり結びつくようにと、この手紙を書き送ったのでした。

(2)語られ、聞かれる神のことば
迫害にさらされているテサロニケの信徒たち。しかしパウロは彼らとともにいることは出来ませんし、また具体的に彼らのそばで力になることもできない。そんな中で彼がこの手紙に託して一生懸命に語りかけるのは、彼らを支えている神のことばの確かさと、それによって苦難の中にあっても喜びに満たされ、他の教会の模範となっている彼らの信仰への賞賛でした。つまりパウロはここで、自分自身とテサロニケ教会の人々との関係を、ほかでもない「神のことば」を中心にとらえ、彼らのもとで語られた御言葉が、彼らによってどのように聞かれてきたのか、そこの目を注いで、その確信に立ち続けるようにと彼らを励ましているのです。そのような視点でこの手紙を1章から読み返してみますと、パウロがこの「神のことば」、あるいは今日の13節で言う「神の使信のことば」について様々な表現で繰り返し繰り返し語っていることに気づかされます。少しそれらを拾い出してみましょう。まず1章5節では「私たちの福音」、続く6節では「みことば」、8節では「主のことば」と言われます。また、2章2節では「神の福音」、この表現は8節、9節にも見られます。それから3節では「私たちの勧め」、さらにその内容にもつながるものですが、12節では「勧めをし、慰めを与え、おごそかに命じ」るとも言われています。
 以上の中から二つの御言葉に目をとめたいと思います。一つは1章4節から6節。「神に愛されている兄弟たち。あなたがた神に選ばれた者であることは私たちが知っています。なぜなら、私たちの福音があなたがたに伝えられたのは、ことばだけによったのではなく、力と聖霊と強い確信とによったからです。また、私たちがあなたがたのところで、あなたがたのために、どのようにふるまったかは、あなたがたが知っています。あなたがたも、多くの苦難の中で、聖霊による喜びをもってみことばを受け入れ、私たちと主にならう者になりました」。ここでパウロは、テサロニケ教会の兄弟姉妹たちが激しい迫害の中で御言葉に聞き続け、しかも聖霊による喜びをもってその御言葉を受け入れたという事実を語ります。そして今一つは2章2節。「ご承知のように、私たちはまずピリピで苦しみに会い、はずかしめを受けたのですが、私たちの神によって、激しい苦闘の中でも大胆に神の福音をあなたがたに語りました」。ここでは一方のパウロ、つまり説教者の側もまた激しい苦闘の中でも大胆に神の福音の御言葉を語ってきたという事実を示すのです。
 このように、テサロニケにおいて、御言葉を語る者は激しい苦闘の中でも御言葉を語り、御言葉を聞く者たちは多くの苦難の中でも喜びをもって御言葉を聞き、受け入れてきたというのです。語られ、聞かれる神のことば。語られ続け、聞かれ続ける神のことば。それを取り巻く状況がどのように揺れ動き、変化しようとも、それがどのような苦闘の経験、苦難の経験を伴うものであろうとも、神のことばを中心にして、それを語り、聞くという共同体が存在するという事実。ここに私たちはこの朝、御言葉に導かれる群れの一つの祝福された姿を見ることができるのではないでしょうか。
(3)御言葉に導かれる群れ
 そして最後に13節。「こういうわけで、私たちとしてもまた、絶えず神に感謝しています。あなたがたは、私たちから神の使信の言葉を受けたとき、それを人間のことばとしてではなく、事実通り、神のことばとして受け入れてくれたからです。この神のことばは、信じているあなたがたのうちに働いているのです」。ここには御言葉の説教が語られ、聞かれるということについて極めて重要なことが教えられています。すなわち、神の使信のことばが人間のことばとしてでなく、神のことばとして語られ、聞かれること。そして受け入れられるということです。この点は、とりわけ宗教改革の教会が重んじた確信でもありました。チューリヒの改革者ハインリヒ・ブリンガーが記した第二スイス信仰告白の第1章には次のようにあります。「神のことばの説教は、すなわち神のことばである」。
 説教者は自分の個人的な願いだけで説教者として立つことはできません。そこには説教者が主なる神ご自身からの召命を確信しているということがなければなりませんし、またその召命が教会によって確かめられ、教会によってその職務に任ぜられるということがなければなりません。また説教者自身がそのようにして立てられた自らの仕える群れの中で本当に生きていなければなりませんし、その中で、群れとともに生きつつ、歩みつつ、説教者自身が深く御言葉によって取り扱われ、聖霊によって導かれて御言葉を与えられなければ何も語ることができないのです。また一方で、会衆もそのようにして立てられた説教者を通して神のことばを聞き取るという信仰が必要ですし、何よりもその説教者自身が教会に主が立てられた御言葉の奉仕者であることを喜び、尊び、その奉仕のために祈るということがなければなりません。そうでなければ私たちもまた、神のことばとして何も聞くことができないのです。しかしその場合、これは牧師の言うことばを何でも無批判に受け入れるということを意味しません。ここで「神のことばとして受け入れた」というのは、単なる同意や受容ということでなく、パウロがIコリント15章3節で福音の教えを「私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたこと」と語る時の「受け」ということ、すなわち福音の教えの全体としてそれをしっかりと聞き取り、受け入れ、そして信じたということを意味する言葉なのです。
 私たちの教会が御言葉に導かれる群れとして進んでいく歩み。そこには教会において神がお立てになった説教者を通して、神のことばは語られ、聞かれるという確信がますます深められていくことが伴うでしょう。これまで多くの説教者の変遷を経験してきた教会が人に結びつくことなく、御言葉に結びついてきたこと、神のことばを語る説教者への信頼以上に、説教者が語る神のことばへの信頼を土台に据えてきたこと。これは私たちの教会に与えられ、そして受け継いでいくべき大切な遺産です。そしてそのようにして語られた神のことばは紛れもなく「私たちのうちに働く神のことば」です。私たちによって聞かれ、受け入れられ、導かれ、そのようにして御言葉が私たちの中で生きられていく。そこに私たちの希望があります。御言葉があれば大丈夫。どんなに暗い時代の中にあっても、御言葉に聴き従って行くならばそこに希望があるのです。今朝の週報にも記したアウグスティヌスの言葉。「悪い時代、困難な時代、このように人々は語り続けています。しかし、よく生きましょう。そうすれば時代もよくなるでしょう。私たちが時代なのです。私たちの有り様が、時代の有り様なのです」。神の御言葉に導かれていく群れとして、この悪い時代、困難な時代の中で、よく生きる歩みをいつもここから始めていきたいと願います。

 



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