朝拝(主の祈り講解8) 2005/09/04
『試練と誘惑』

Iコリント10:13

今朝は、主の祈りの第六の願いである「私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください」の祈りを通して、試みに打ち勝つ信仰者の姿について学んでおきたいと思います。

(1) 試練と誘惑
主の祈りの最後の願いであるこの祈りについて、宗教改革者ルターが次のような言葉を残しています。「私は第五の祈りとともに眠りにつき、第六の祈りとともに起きあがる」。彼は一日の終わりには罪の赦しを祈り求め、そして一日の始まりを試みと悪からの守りを求める祈りによってスタートするというのでした。これは試練の問題をいつも身近に考えていたルターらしい言葉であると言えますし、私たちの信仰の歩みにおける一つの真理を言い当てた言葉であるとも言えるでしょう。
 さて、今日の箇所で「試み」と訳される言葉は、新約聖書のもとの言葉で「ペイラスモス」という言葉ですが、これは新約聖書において大きく二通りに訳されています。一つは「試み」、「試練」、いま一つは「誘惑」と言う言葉です。試練と誘惑。この二つを厳密に使い分けることは困難ですが、日本語の語感について辞書を引いてみると、試練は「相手の実力や信仰の程度を厳しく試すこと」と肯定的なニュアンスであるのに対して、誘惑は「人の心を迷わせて、悪いことに誘い込むこと」として否定的な意味合いを持っています。確かにギリシャ語のペイラスモスにも、この肯定、否定の両方の意味が込められているのであって、それぞれをその文脈に沿って訳し分けていると言えるのです。そこで、聖書が教えているペイラスモスの意味について四つにまとめておきたいと思います。第一には「人が神を試みる」という形です。これは人が神の実力をテストするという点で、肯定的な意味とは言えませんが、出エジプトにおけるイスラエルの民の振る舞いはこの形に当てはまるでしょう。第二には「神が人を試みる」という形です。これは私たちにとっては時に意外なことであり、また時に大変な経験を伴うことがあるのですが、しかし確かに神からの試みはあるのです。主なる神は私たちを試練に会わせることによってご自身との交わりを固くするため、時に私たちをサタンの試みの勢力下に置くことを許容されるのです。今日開いたIコリント10章13節に「あなたがたのあった試練はみな人の知らないようなものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることのできないような試練に会わせるようなことはなさいません。むしろ、耐えることのできるように、試練とともに、脱出の道も備えてくださいます」とあり、またIペテロ1章7節に「信仰の試練は、火を通して精練されてもなお朽ちて行く金よりも尊いのであって、イエス・キリストの現われのときに称賛と光栄と栄誉に至るものであることがわかります」と記されている通りです。旧約聖書で信仰の父アブラハムが息子イサクを捧げよという命令を受け取ったことも、義人ヨブが大いなる苦難の中に投げ込まれたことも、それは神の人に対する試練という側面で理解されるべき事柄なのです。第三のパターンは「人あるいはモノが人を」という面です。私たちが日常に於いて経験するものはほぼこの範疇に入るでしょう。お金、名誉、地位、性的な誘惑です。そして第四は「サタンが人を」という面です。これはいわば第三のパターンの背後に潜むその誘惑の正体です。このように考えてみると、ペイラスモスと訳される言葉の意味するところは、それが神と人との関わりである場合には試練の側面が強く、人と人、そしてその背後にある人とサタンとの関わりである場合には誘惑となって現れているということが出来るのです。

(2)勝利を願う祈り
 以上のような考察を踏まえて、今日の第六の祈りを考えてみたいのです。「試みに会わせないでください」という祈り。それは試練や誘惑と直面せず、それを避けて通らせてくださいという祈りではないのです。この祈りは試練や誘惑に会うことは避けられないこととした上で、試練に屈してしまうことがないように、誘惑に陥ってしまうことがないように、その深みに引き入れないで下さいと願う祈りなのです。古代の教父オリゲネスは言います。「私たちは、試みを受けることのないように祈るべきではなく、それによって捕らえられ、打ち負かされてしまうことがないように、試みによって取り囲まれることのないように祈らなければならない」。またハイデルベルク信仰問答第127問は言います。「問:第六の願いは何ですか。答:『われらを試みにあわせず、悪より救い出したまえ』です。すなわち、わたしたちは自分白身あまりに弱く、ほんの一時立っていることさえできません。その上わたしたちの恐ろしい敵である悪魔やこの世、また自分自身の肉が、絶え間なく攻撃をしかけてまいります。ですから、どうかあなたの聖霊の力によって、わたしたちを保ち、強めてくださり、わたしたちがそれらに激しく抵抗し、この霊の戦いに敗れることなく、ついには完全な勝利を収められるようにしてください、ということです」。つまりこの祈りは誘惑や試練を避けて通るための祈りではなく、誘惑に打ち勝ち、試練に打ち勝ち、そして聖霊に力によって完全な勝利を得させてくださいと祈る戦いの祈り、勝利を求める祈りなのです。人々は悪の力の満ち溢れるこの世界のただ中で、頭を垂れ、手を合わせて祈る信仰者たちの姿を単なる自己満足や自己憐憫の行為、責任転嫁の行為、負け犬の遠吠えのように言うかも知れません。しかし私たちは祈ることをそのような消極的な事柄とは言わない。むしろ祈りこそが悪の力に打ち勝つための私たちの抵抗と戦いと勝利のための手段であり、神からの試練には甘んじてこれを堪え忍び、悪魔からの誘惑には断固としてこれを退け、そのようにして成熟したキリストの証し人としてこの世界に派遣されていくのです。

(3)悪より救い出したまえ
次に後半の「悪からお救い下さい」という祈りについて考えたいと思います。ここで「悪」と訳される言葉は、新改訳聖書も欄外注に「あるいは『悪い者』」とコメントしているように、「悪から」とも「悪い者から」とも訳すことができるのです。この場合、どちらかが正しくて、どちらかが誤っているということではありません。悪の背後には悪しき者の存在があり、また悪しき者の働きは私たちに対して様々な悪の力となって及んで来るからです。そしてさらに大切なこととは、あらゆる悪の力の背後に悪しき者の存在、すなわち神に敵対するサタンの存在があることをリアルに覚えることであり、このことをないがしろにして、悪の力との対決における霊的な戦いの側面を決して見くびってはならないということです。使徒パウロはエペソ6章12節で次のように言います。「私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです」。個人のレベルにおける悪、社会のレベルにおける悪、道徳的、倫理的、あるいは経済的、政治的、社会的、性的、あらゆる領域における悪の問題にも、その背後にうごめく悪しき者の力があり、私たちの戦いはそのような悪しき者との戦いであることを、この朝しっかりと肝に銘じておきたいと思うのです。
しかしその上でなお私たちがこの朝、確信しておきたいことがあります。それはすでに私たちが新約聖書を通して福音の言葉から聞いているように、そのような悪しき者の力に対する戦いにはすでに最終的な決着はついているという事実です。すなわち私たちの贖い主イエス・キリストの十字架と復活、昇天と着座の御業を通して、すでにサタンとの戦いには勝利がもたらされているのです。パウロはコロサイ2章15節で次のように言います。「神は、キリストにおいて、すべての支配と権威の武装を解除してさらしものとし、彼らを捕虜として凱旋の行列に加えられました」さらに、今日の祈りで「悪からお救いください」という時の「救う」という言葉は、新約聖書が通常用いる言葉ではなく、比較的希な言葉が用いられており、その意味するところは「敵からの救い、その危険や危機、迫害からの救い、死の恐れからの救い、試練や裁きからの救い」であり、しかもそれらはすでにイエス・キリストにおいて解決されるであろうことが先取りされている、いわば今の悪の状態から未来の救いの希望を約束として受け取っている祈りなのです。
そうであるならば、この「悪からお救いください」という祈りは、助けを求める悲痛な祈りではなく、希望としての祈りということになるでしょう。そしてその希望は神の国の到来と完成によって現実となり、その初穂となってくださったのが他ならぬ主イエス・キリストご自身であるということになるのです。このキリストの御業の確かさの故に、「私たちは、四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。途方にくれていますが、行きづまることはありません」と語ることが許されるのであり、そればかりか、その希望に立ってなお「御名が崇められるように、御国が来ますように」と祈り続けることができるのです。
 ヴァルター・リュティというスイスの牧師が記す言葉を紹介して終わりたいと思います。「そもそもキリスト者は、この世の悲惨、戦争、飢餓、疫病、地震などにもはや甘んずることができない。キリスト者は、これらすべてのものが宿命であって、従って変更不可能であると言うことはできない。キリスト者は今や、われわれはこの世の悲惨に対してどんな事情があっても何かが出来ることを知っている。沈黙するのではなく、叫ばなければならない。そこからわれわれを救い出し、解放してくださいと叫ぶのである。つまりキリストの救いに一度あずかった者は、よりよい世界、未来の世界に対する飢え渇きを、もはやそう簡単に捨てることはないだろう」。このように私たちはこの祈りを未来に開かれた祈りとして、イエス・キリストにある未来に開かれた祈りとして祈り続け、この悪のはびこる時代のただ中で、主の御国の到来のために奉仕する者でありたいと願います。

 




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