朝拝(主の祈り講解7) 2005/08/28
『赦されて生きる』

マタイ18:21-35

今朝は、主の祈りの第五の願いである「私たちの負い目をお赦しください」との祈りを通して、主イエスの赦しの中に生きる信仰者の姿について学んでおきたいと思います。

(1)日ごとの赦しを
「日ごとの糧をお与えください」という祈りに続いて、「私たちの負い目をお赦しください」と祈られます。最初にこの祈りの順序に注目したいと思います。毎日のパンを求める祈りが、罪の赦しを求める祈りへと繋がっていく。それは言い換えれば私たちの肉体的な命の必要から、さらに進んでより根源的ないのちの必要へと深められていくことを表していると言えるでしょう。私たちはしばしば私たちが必要と感じているものが、私たちの必要の全てであると考えがちですが、実際はそうではありません。私たちが本当は必要としていながら、その必要に気づかずにいるものがあるのです。そしてその私たちが必要としているものの中心にある事柄が、人間の本質に結びついた罪の赦しであると主イエスは教えておられます。私たちに人間は、自分が気づくと気づかざるとに関わらず、そして肉体の糧以上に、根本的に、そして決定的に罪の赦しを必要とする存在なのだということを覚えたいと思うのです。
 主イエスはしばしば人々の病いを癒されましたが、例えばマタイ福音書9章の中風の男の癒しの記事を読んですぐに分かることは、主イエスが与えられたのは病いの癒し以上に「罪の赦し」であったということです。主イエスは中風の男に対して「子よ。しっかりしなさい。あなたの罪は赦された」と宣言され、彼を病いの床から立ち上がらせました。彼自身が必要としていたのは中風に冒された身体の癒しでしたが、主イエスが与えられたのは彼の中に自分自身気づかれない仕方で密やかに存在していた罪の赦しであったのです。人はパンを求めて生き、それが満たされれば幸せになれると思っているかも知れません。しかしその深い所にある本当の必要は、私たち自身の罪が赦されることにあるのです。罪の赦しに生きることの慰めなくして、私たちは真の平安を得ることができないのです。

(2)負い目、負債としての罪
では、聖書はこの私たち人間の罪をどのように教えているのでしょうか。聖書の教える罪とは、神との関係が破綻してしまっている姿のことです。本来あるべき神との関係を捨てて自己中心に走る人間の姿こそが罪の本質なのです。そして神との関係を失った人間は、自分自身の姿をも正しく見つめることができなくなってしまいました。このような罪の中にある人間の罪について、主の祈りは「負い目」「負債」であると言うのです。神との本来あるべき関係を捨てた人間は、それゆえに神に対して負債を負った存在であるというのです。このテーマに関連して主イエスが語られたたとえ話を思い起こすことが出来るでしょう。マタイ福音書18章23節以下の「地上の王のたとえ」です。ここで王に一万タラントの負債のあるしもべが登場しますが、主人はこのしもべの約六千億円にもなる負債を免除したというのです。27節。「しもべの主人は、かわいそうに思って、彼を赦し、借金を免除してやった」。まさしくこれが神の私たちに対する罪の赦しの姿であるというのです。
 罪の赦しの動機は、赦される側の私たちにあるのではなく、ただ私たちを「かわいそうに思う」神の自由で主権的なあわれみと恵みのゆえなのであり、しかもここではその借金はただ免除されますが、神の赦しにおいてはその借金は免除されたのではなく、主イエスが私の借金を肩代わりして下さり、父なる神に対して返済して下さったのでした。そこで払われた代償こそが、主イエス・キリストがあの十字架の上で祈ってくださった「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです」との祈りにおいて示され、そして何よりも主イエス・キリストが十字架の上で肉を裂き、血を流すという仕方で差し出して下さったご自身の命であったのです。この主イエス・キリストの尊い十字架の贖いによって、私の償い尽くせないほどの罪、負い切れないほどの負債はすべて弁済され、その罪は赦されたのでした。

(3)赦された人が赦す人へ
 最後に、主の祈りの第五の祈願において問題となるのは、前半の「私たちの負い目をお赦しください」と後半の「私たちも、私たちに負い目のある人たちを赦しました」とがどのように関係しているのかという点です。読み方によっては、私も隣人の負い目を赦したから、私の負い目も赦して下さい、となるのです。そこから、主に罪を赦して頂くことの条件として、私が赦していただくためには、まず私が赦さなければならないと、これを律法のようにしてしまったり、あるい主に罪を赦して頂くことに先んじて、私が他の人を赦すことができるかのような錯覚に陥ってしまうことがあります。しかしはっきりとさせておかなければならないことは、私たちが隣人の罪を赦すことができるから、私も主によって赦されるのではなく、また私が隣人の罪を赦すことができなければ、私も主によって赦されることはない、ということでもないということです。そうではなく、私が主によって罪赦された、負債を免除していただいたという赦しの体験、恵みの経験が、私を隣人を赦す愛へと突き動かして行くのです。
 そもそもこのたとえ話が語られる前段に次のようなやりとりがありました。21節、22節。「そのとき、ペテロがみもとに来て言った。『主よ。兄弟が私に対して罪を犯したばあい、何度まで赦すべきでしょうか。七度まででしょうか。』イエスは言われた。『七度まで、などとはわたしは言いません。七度を七十倍するまでと言います』」。赦しということを一般的に、抽象的に論じてもあまり意味のないことです。実際には自分に対して何かの過ちを犯した人を前にして、赦しの心が問われるのでしょう。そこできっと私たちは「いったい何度まで赦せばよいのですか」と主イエスに詰め寄るように言うのではないでしょうか。しかしそうやって「いったい何度まで」と言っている時の心は、実はまだ赦しの中にはないのだと思います。そういう心の狭い私たち。赦すことのできない私たちの心を主イエスは見つめ、そこに主イエスご自身の十字架を示し、その心を丸ごと包み込むような赦しの恵みを注いでくださるのです。
 私たちは礼拝の度毎に罪の告白を御前に為し、赦しの宣言をいただきます。その悔い改めと告白の祈りの中で、主の御前に罪赦されていることを確信する時に、私たちは隣人の罪を赦すことへと心動かされていくのです。赦された喜びを知る人は、赦すことへと促されて行きます。そのような幸いな道を私たちも歩みたく願います。





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