朝拝(主の祈り講解6) 2005/08/21
『日ごとの糧を』

マタイ6:31-34

今朝は、主の祈りの第四の願いである「私たちの日ごとの糧を今日もお与え下さい」との祈りから、主に信頼しつつ日常を生きる信仰者の姿について学んでおきたいと思います。

(1)日ごとの糧を
これまで学んでまいりました主の祈りの前半三つの祈願は、私たちと父なる神との関わりにおける祈り、父なる神ご自身についての願い求めの祈りでしたが、今日から取り上げる後半の三つの祈願は、「私たち」という言葉に表れているように、この祈りを祈る私たち自身についての願い求めです。そしてその「私たち」についての最初の祈りとして主イエス・キリストが祈るようにと促しておられるのが「私たちに日ごとの糧を今日もお与えください」という祈りなのです。
日ごとの「糧」、これは直訳すると日ごとの「パン」ですが、しかしこれは単に食物のことに限られません。宗教改革者ルターは次のように言っています。「毎日のパンというのは、身体の栄養や必要のためになるすべてのものです。たとえば食べ物や飲み物、服や靴、家や住むところ、畑や家畜、お金や財産、正直な夫婦、正直な子ども、正直な働き手、正直で誠実な支配者、よい政治、よい気候、平和、健康、養育、名誉、よい友達や誠実な隣人のことです」。また「日ごとの」糧はその意味する所から言えば「必要な糧」とも言ってよい言葉です。つまり主イエスが、私たちが生きるに当たって必要なものを父なる神に求めよ、と教えてくださっていると言うことは、何よりも主イエスご自身が私たちの必要を知っていて下さるということに他ならないのです。私たちの信仰の営みは、この世を嫌う厭世主義や禁欲主義ではありません。むしろ神がよきものとして造って下さった創造の世界を喜び、そこに生きる私たちに与えられた被造世界を神からの賜物として味わい、それによって生きることが肯定される世界です。そこに生きる私たちは、毎日この生を生きるにあたって必要な糧を求めることはしてもよいことであり、またしなければならないことなのです。

(2)聖なる日常を求めて
 しかも日ごとの糧を求めるという、まさしく私たちの日常の最も現実的な営みについて、天地の創造者なる神から見れば実に瑣末なことどもについて祈ることを教えて下さっていることを驚きとともに受け取りたいと思うのです。ヘルムート・ティーリケという神学者がこのように言っています。「我々の生活の恐らく九割までは瑣事から成っているのではないだろうか。目覚まし時計が鳴ると同時に、しばしば、我々の古いアダムとの戦いで一日が始まるのではないだろうか。そしてその一日を左右するのは、空腹や疲労であったり、めちゃくちゃに壊された窓ガラスや屋根瓦や石炭入れなどをどう処置しようかという思い煩いであったりするのではないだろうか。電車の中で不快な通路に立っていなければならないか。あるいは快適な隅の席に座れるとか、厄介な手紙を書かなければならないとか、受け取った手紙がすばらしい内容のものであったとか、そうしたまさに小さいことが、大きく高尚な問題や世界史的展望をもったものなどよりもずっと我々を左右しているのではあるまいか。恥ずかしいことかもしれないが、そのことを認めざるを得ない。しかし、恥ずかしいことであろうとなかろうと、どっちにせよ、事実はそうである。そして恐らくそれは恥ずかしいことではないのである。ところでこのようなことは我々にとっては非常に重大なことであっても、神にとってはあまりに些細なことなので、こうしたことを天にいますわれらの父に関係させて口にしたりすることをイエスが禁じ給うたとしたらどうであろうか。イエスはただ大いなることのみを、神の国とか、キリストの世界支配とか、死人の復活とか、おそらくは現在の状況全体を評価するに必要な世界史的展望をもったものについてのみ神に申し上げることを命じ給うたとしたらどうであろうか。もしそうであったとしたら、我々は恐れに取り巻かれたまま一人孤独に取り残されていることにならないだろうか。もしそうであったとしたら神は我々の悩み多き日常の生からは締め出されて、この生のほんのわずかな部分だけが神の関わり給うに価するということになるであろう。我々はタコだらけになった手や心配事によってできた小じわで一杯の顔を隠して、日曜日だけ晴れ着を着、うれしそうな顔をして、ときどき継父を訪問することができるに過ぎないということになるであろう。・・・継父の応接室の外に出ると、とたんにまたすべてのことがもう一度激しく、我々に襲いかかってくることになるだろう。しかし、感謝すべきかな。事実はそのようではない。神は「日曜日の継父」ではなく、我らの主にして兄弟なるイエス・キリストの父である。感謝すべきかな、この父は我々の生のいと小さきことを、それが我々の生に対して持っているのと同じ重さで評価し給うほどに、まことに憐れみ深く、かつ現実的であり給う。感謝すべくも、神は我々をそのあるがままに受け入れ給う。恐らく大きな夢を持って、ある時は大きな理想と業績を持って生きる人間として、そしてまた、たくさんの小さい願いや思い煩いを持った人間、空腹で疲労し、この地上のどんな偉大な人の人生をも満たしている無数の小さい喜びと悲しみを持った人間として、そのあるがままを受け入れ給うのである」。
主の祈りの心をこのように教えられる時、私たちはまた「必要以上を求めない」ことをも教えられます。箴言30章8節、9節で「不信実と偽りとを私から遠ざけてください。貧しさも富も私に与えず、ただ、私に定められた分の食物で私を養ってください。私が食べ飽きて、あなたを否み、『主とはだれだ』と言わないために。また、私が貧しくて、盗みをし、私の神の御名を汚すことのないために」と語られているように、日ごとの糧を求める祈りは、私たちに貪欲への道を戒め、生きることへの慎ましさ、謙虚さについても教えているのです。

(3)「今日」そして「毎日」
 次に日ごとの糧を求める「時」について考えておきたいと思います。マタイ福音書6章11節では「私たちの日ごとの糧を今日もお与えください」と祈られますが、ルカ福音書11章3節では「日ごとの糧を毎日お与えください」という祈りの言葉になっています。ここにはそれぞれの福音書を記したマタイとルカの時の捉え方、あるいは歴史の見方の特徴がよく現れていると思うのです。マタイにとっての「今日」とは、終末の光の下に照らされたかけがえのない一回的な時です。その時、その時を終わりの光の下で見つめながら、時の価値を知り、その意味をわきまえて生きる、そのような人生態度が表されていると言えるのです。マタイ福音書はこの主の祈りも含まれる主イエスの山上の説教の、この後に続く部分で次のように言われました。今日開かれている御言葉ですが、6章31節から34節。「そういうわけだから、何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配するのはやめなさい。こういうものはみな、異邦人が切に求めているものなのです。しかし、あなたがたの天の父は、それがみなあなたがたに必要であることを知っておられます。だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります」。マタイ福音書において主イエスは主は私たちに、今日の糧を求める祈りを教え、明日を思い煩うなとお命じになるのです。このことを通して私たちが思い起こすのは、あの出エジプトの時代にイスラエルが経験したマナの出来事です。主がその日ごと、一日ごとに天からのパンであるマナを降らせ、それによってご自身の民を荒野の生活の中にあっても養い続けてくださったというあの経験です。イスラエルの民はこの経験を通して、まことの養い主なる父なる神への信頼を学んだのでした。主の祈りの背景に私たちはこの出エジプトにおけるマナの経験をしっかりと見つめておきたいと思うのです。そして一日ごとに主にのみ信頼すると言う信仰の決断を繰り返しながら、今日、主の養いを待ち望む者でありたいと思います。
 さらにまたもう一つ、ルカ福音書が記す「毎日」ということ。それは終末的な「今日」の連続の中に導かれていく主の民の歴史形成ということが表されていると言えるでしょう。マタイの記す終末的な「今日」という日が一日一日と積み重ねられていく中で形成されていく「毎日」ということです。それは単に時間の連続としての、当たり前のように、当然のように続いていく毎日ということでなく、その日ごとに新しく主が恵みと祝福をもって賜る一日であり、またその日を一生のようにして終わりの時を意識しつつ、悔いなく誠実に生きていくかけがえのない一日の積み重ねとしての「毎日」ということです。そこでは絶えず主に対する信頼と決断とが繰り返されていくことになるでしょう。それはちょうどルカ福音書にあるレプタ二つを捧げた貧しいやもめの姿を思い起こさせるものです。持てる財産すべてを主にささげることのできる潔さはどこから来るのか、それは日ごとの糧を毎日、私たちに与えて下さる父なる神への信頼なしには到底説明できないことなのです。
 このように日ごとの糧を父なる神に求めながら毎日を生きることのできる人生態度、それは神の国の到来の「時」を知る故の終末論的な人生態度であると言えるでしょう。そしてこの祈りは父なる神に自らの人生を丸ごと捧げ、献身した者たちに教えられた祈りであり、それゆえに毎日毎日、その日その日を主の御前に捧げて生きる主の弟子の祈りなのです。それゆえに、後の教会に生きるルカは「私たちの日ごとの糧を毎日お与え下さい」と語るのです。そのような主への信頼と決断を繰り返しながら、主の民は毎日を生きて行き、歴史を形成し、終わりの時を待ち望んでいく。この神の御前に今日を生き、そして明日も新しく「日ごとの糧を今日も与えたまえ」と祈りつつこの一週間をともに歩んでいく私たちでありたいと願います。

 

 




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