朝拝(主の祈り講解5) 2005/08/07
『天と地を結ぶ祈り』

マタイ26:36-39

 今朝は、主の祈りの第三の願いである「御心が天で行われるように、地でも行われますよう」との祈りから、天の御心をこの地上においても成し遂げてくださる主の恵みに満ちた御手と、それに従って歩んでいく私たちのあり方について、ともに教えられて行きたいと思います。

(1)神の御国と御心
 主の祈りの第三の願いである「御心が天で行われるように、地でも行われますように」という祈りは、マタイ福音書6章のテキストにはありますが、ルカ福音書11章のテキストにはない言葉です。このことを巡ってはルカのテキストがオリジナルで、マタイのテキストは後の教会がこの言葉を付け加えたと言う説明や、あるいはマタイがオリジナルで、ルカがこれを省略したと言う説明など、様々な可能性が言われています。しかしこの祈りは先の第二の祈願である「御国が来ますように」という祈りと密接に結びついた祈りであることは確かなことで、ルカの福音書にこの祈りの言葉が記されていないとしても、「御国が来ますように」という祈りとのつながりにおいて理解されるべき言葉であるということができるのです。
 主イエス・キリストはマタイ福音書の、この主の祈りも含まれている一連の山上の説教の終わり近く、マタイ7章21節で次のように言われました。「わたしに向かって『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです」。神の御心を知り、これを行い、これに従うということ。それが天の御国に入る者の姿であるというのです。御国を来たらせたまえと祈る私たちは、その祈りを祈る者であるがゆえに、天の父なる神の御心を熱心に祈り求めなければならないのであり、そしてその御心が私たちを通してこの地上においても実現するように祈りつつ労し、励む者でなければならないのです。そのような意味で、この主の祈りの第三の祈願は私たちの信仰の歩みの中でも大変重要なテーマであると言えるでしょう。

(2)神の御心を求める
 神の御心を求めることは私たちの信仰の歩みにおいて大変大きな意味を持つものです。神の御心を知るということだけでも一大事であり、さらにその示された御心に従うということもまた大きな信仰の決断を求めるものでもあるからです。神の御心、それは「天で行われるように、地でも」と言われるように、父なる神が創造し、支配し、治められるこの被造世界の全体に対する神のご計画であり、同時にまたそこに行かされている私たち一人一人の人生に対する摂理でもあります。全体的な摂理と個別的な摂理と言っても良いでしょう。しかもそれは父なる神の、子としての私たちに対する愛と慈しみに基づいた良き御心、救いの御意志でもあるのです。旧約聖書エレミヤ書29章11節で次のように言われている通りです。「わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。主の御告げ。それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ」。
 この神の良き計画、救いの御意志としての御心が天でなるごとくに、地にも、と祈られる時、それはその明らかにされた御心への服従を私たちに求めるのです。ハイデルベルク信仰問答の第124問を見ましょう。「問:第三の願いは何ですか。答:みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえです。すなわち、私たちやすべての人々が、自分自身の思いを捨て去り、唯一正しいあなたの御心に、何一つ言い逆らうことなく、聞き従えるようにしてください」ということです。神の御心はいつも確かであり、完全です。私たちがそこに何かを付け加えたり、修正を施したりする必要はありません。しかし同時にそれは私たちに奴隷のような、あるいは機械的な服従を強いるものではなく、私たちもこの御心が地上に実現するようにと祈りつつこれに従うことによって主の御心に主体的に参与していくことが求められているのです。

(3)神の御心に従って
 しかし、私たちにとって父なる神の御心に従うこと、キリストに服従することは実にしばしば困難なことでもあるでしょう。ある説教者がこう言っています。「今日我々にとって危険なことは、我々が心配の余り、神の意志のすべてというよりは、むしろ不遜にも神を半分しか問題にしないことである。それはいつも、我々は確かに理性と感情の中に神を受け入れてはいるが、しかし神にわれわれの意志を委ねる気持ちはないという態度になって表れてくる。我々はやはり自分の意志を自分自身のためにとって置きたいのである。だからキリスト教は、われわれも十分承知しているように、なかば強情で中庸な、神を半分あるいは三分の二しか信じないものになっている」。つまり私たちはこの世界や私自身の人生をいつも二つの部分に切り分けて、神の御心に服従すべき領域と、その必要のない領域とに分けてしまいやすいのです。しかしそれでは「天の御心」という言葉の持つ広がりを失っていることになるでしょう。父なる神が求めておられること、主イエス・キリストが教えておられることは、そのような限定された領域における御心を求める祈りではなく、被造世界全体とそこに生きる私たちの人生全体を巻き込んだ服従の祈りなのです。
 私たちはそのような神の御心に従う祈りの模範を、ゲッセマネでの主イエスの祈りの姿に見ることができます(マタイ26:39,42)。私の願うようにでなく、あなたのみこころのように、ここにこの主の祈りを祈る姿勢が教えられているといえるでしょう。この主イエス・キリストの父なる神の御心に対する決断的で自由な服従の姿から教えられたいと思うのです。ハイデルベルクは先ほどの第124問の後半で次のように言います。「この祈りは、どうか、一人一人が自分の務めと召命とを、天の御使いのように喜んで忠実に果たせるようにしてください、ということです」。この祈りを捧げつつ、神の御心に生きるためには信仰がなければなりません。そしてその信仰は御言葉から来るものでなければなりません。そしてそのためには何よりも私たちは聖霊の神を求めなければなりません。聖霊の助けを求めつつ、天における神の御心が、この地上で、この暴力があり、争いがあり、憎しみがはびこる暗黒の地上に、サタンの力の支配下におかれているかのようなこの地上に行われるようにと祈り求めたいと願います。その時に神の勝利が約束され、その成就としての神の国の支配が全うされるのです。この祈りをこの地に生きる私たちがまことに御使いの如き忠実さをもって生き、それによって神の国が前進するための祈りとしてともに捧げたいと願います。




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