朝拝(主の祈り講解3) 2005/07/17
『聖なる御名を崇めて』

ヨハネ黙示録3:7-13

この朝は、主の祈りの第一の願いである「御名を崇めさせたまえ」から、主の御名の聖さと、その栄光を表す私たちのあり方について学んでおきたいと思います。

(1)神の名
主の祈りは、「天にいます私たちの父よ」との呼びかけに続いて、その本論部分はマタイ福音書では六つの、ルカ福音書では五つの願い求めから成り立っています。そしてこの祈りの全体は前半と後半の大きく二つの部分に分けることが出来るのです。祈りの前半の三つ、ルカでは二つですが、すなわち「御名が崇められますように」、「御国が来ますように」、そしてマタイだけにありルカにはない「みこころが天で行われるように地でも行われますように」という祈願は、祈りの対象である神様ご自身についてのものであり、後半の三つ、すなわち「私たちの日ごとの糧を今日もお与えください」、「私たちの負い目をお赦しください」、「私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください」という祈願は、私たちのためのに祈りということができます。つまりこの祈りは、ちょうど十戒が前半と後半で神との関わりにおける戒めと人との関わりにおける戒めを定めているのと同様に、神様に向かって神様ご自身のことを願う祈りと、神様に向かって私たち自身のことを願う祈りとが一つになった祈りです。そして今日取り上げる第一の祈願は、この神についての祈りと人についての祈りを一つに結び合わせる、いわば主の祈り全体の背骨のような祈りであると言えるのです。
 「御名が崇められますように」という祈り。この言葉は直訳すると「あなたの名が聖なるものとされるように」となります。そもそも神様が名前を持つということは、私たちにご自身の存在を明らかにしていて下さることを意味しています。出エジプト3章1節から22節にはホレブの山でモーセが燃える柴の中に現れた神様との会見の出来事が記されていますが、そこで次のようなやりとりがなされます。13節から15節。「モーセは神に申し上げた。『今、私はイスラエル人のところに行きます。私が彼らに「あなたがたの父祖の神が、私をあなたがたのところに遣わされました。」と言えば、彼らは、「その名は何ですか」と私に聞くでしょう。私は何と答えたらよいのでしょうか。』神はモーセに仰せられた。「わたしは、『わたしはある』という者である。」また仰せられた。「あなたはイスラエル人にこう告げなければならない。『わたしはあるという方が、私をあなたがたのところに遣わされた。」と。』神はさらにモーセに仰せられた。『イスラエル人に言え。あなたがたの父祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、主が、私をあなたがたのところに遣わされた、と言え。これが永遠にわたしの名、これが代々にわたってわたしの呼び名である』」。このように神の名は「わたしはある」と呼ばれ、その名前自身が神の御存在の有り様、すなわち何ものにも依存せず、何ものをも介在させず、ただご自身として存在なさるということを表しているのであり、しかも旧約聖書は一貫して神の名がこの神ご自身の存在の有り様を表しているのです。

(2)神の名の聖さ
 さらにまたこの御名が「聖」であると言われることも、旧約聖書の主張につながっています。旧約聖書イザヤ書6章3節で、イザヤの召命の折にセラフィムが「聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主。その栄光は全地に満つ」と歌い交わしている姿がそれをよく表していると言えるでしょう。ですから神は私たちの祈りによって聖となったり、ならなかったり、というものではありません。このことについて宗教改革者ルターの語るところに聞きたいと思います。ルターは大教理問答書の中で次のように言っています。「御名はすでに前から聖いのではないか。しかり。御名はその本質においては終始神聖である。けれども、私たちの用い方で神聖でなくなるのである」。つまり私たちが神の民として生きながら、その言葉や行いにおいて神の名に相応しくない生き方をする時に、それはちょうどあの十戒で「主の名をみだりにとなえてはならない」と戒められていた御名の濫用の罪の中に陥ってしまうのです。
 しかし、主なる神はご自身の聖であられることを、ご自身の民に対しても求められるお方です。「わたしが聖であるので、あなたがたも聖でなければならない」と記される通りです。もちろん私たちは自らの力で神の聖さに近づくことや、自分自身を聖なる者とすることはできません。むしろ神の聖さに触れた時には、私たちの罪はあらわにされ、私たちは神の御前に立ち得ることができなくなるはずです。しかしその私たちをして神の御名を聖とするようにとの祈りを主イエスは教えてくださいました。そのことが可能となるのはただ主イエス・キリストによる贖いと罪の赦しによることです。「キリストは、私たちにとって、神の知恵となり、また、義と聖めと、贖いとになられました」とパウロが語った通りです。このキリストの義と聖さが、今、聖霊によって私たちのものとされているがゆえに、私たちはこの口をもって御名が聖とされるように、と祈ることができるのです。

(3)神の名の栄光
さらにこの祈りは、やがてこのキリストにあって私たちもまた聖なる者とされていくという終末的な約束をも含んだ祈りです。黙示録の七つの教会へメッセージの中で、フィラデルフィア教会への言葉を読みました。特に12節では「勝利を得る者を、わたしの聖所の柱としよう。彼はもはや決して外に出て行くことはない。わたしは彼の上にわたしの神の御名と、わたしの神の都、すなわち、わたしの神のもとを出て天から下ってくる新しいエルサレムの名と、わたしの新しい名とを書き記す」とあります。やがて新しい新天新地が成就する時、私たちは神の御名をこの身に帯びる者として、また新しいエルサレムと、その終わりの時に明らかにされるであろう新しい名とをこの身に帯びることができるというのです。聖書が語る神の「聖さ」には、神の「栄光」がそこに満ち溢れています。御名を崇めさせたまえと祈る時、私たちは神の名が聖とされることによって神の栄光が表されるようにと祈っているのであり、そしてやがて終わりの日に、私たちもその聖にあずかり、そしてついにはその聖の完成として、神の栄光の中に入れられることを待ち望みつつ祈っているのです。
 この第一の祈りは、父なる神についての願い求めと、私たち人についての願い求めとを一つに結ぶ祈りであると言いました。神の名が聖とされるように、と祈りながら、しかしより正確には「私たちをして、あなたの御名が聖とされるように」との祈りです。この汚れた私たちの祈りによって神の名が聖とされる。その神の聖なる事に相応しく私たちもまた神の聖さに与って聖なる者とされていくことが出来る。この驚くべきことがらを成し遂げてくださるのは、キリストの贖いの御業によることです。ペテロの手紙第一2章9節、10節に次のように記されている通りです。「あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです。あなたがたは、以前は神の民ではなかったのに、今は神の民であり、以前はあわれみを受けない者であったのに、今はあわれみを受けた者です」。このように主イエス・キリストの贖いによって私たちは今、神の国の聖なる国民とされ、キリストの義と聖が、今、キリストを信じる私たちの内に宿っているので、私たちはこの口をもって「御名を崇めさせたまえ」と祈ることがゆるされており、また命じられてもいるのです。その背後にある大祭司キリストの取りなしの祈りを聞きつつ、なお私たちをして聖なる主の御名が広く、あまねくこの地において崇められるために、御国の福音を宣べ伝えつつ祈る私たちでありたいと願います。




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