朝拝(主の祈り講解2) 2005/07/10
『父なる神を呼ぼう』

ヨハネ17:1-11

この朝は、主の祈りの冒頭にある「天にまします、我らの父よ」との呼び掛けの言葉から、私たちが神をいかなるお方として知り、この方を呼ぶことができるのか、神様と私たちとの間に与えられている交わりの豊かさについてご一緒に学んでおきたいと思います。

(1)父よ、との祈り
 先週、後藤姉の洗礼試問会を行いました。その席の締め括りにご本人に祈っていただいたのですが、大変感動的な時でした。信仰を持って歩み始めた時に、私たちが新しく始めることの一つは「祈ること」でした。祈りについて教えられ、実際の祈り方を教えられ、そして一言一言口移しのように祈りの言葉を教えられながら、初めて自分の言葉で祈った時のことを思い起こすことが出来るでしょうか。恐る恐る、恥ずかしいような、しかし深いところからわき上がる喜びの中で、私たちは祈ったのだと思います。はじめは「神様」と呼びかけるのだと教わります。次第に教会の交わりの中でその呼びかけの言葉が様々であることにも気づかされます。そしてそれを自分の祈りにも取り入れてみる。そうやって次第に私たちの祈りの言葉は豊かにされ、整えられていくのです。
 主イエスが弟子たちに教えて下さった祈りも、よびかけの言葉から始まっていました。マタイ福音書では「天にいます私たちの父よ」、ルカ福音書では単に「父よ」との呼びかけでした。神を「父よ」と呼ぶ。このことの驚きを改めて新鮮に受け取っておきたいと思うのです。私たちが神を「父」と呼ぶ。ここには祈りにおける神と私たちとの近さが表されています。ここでルカ11章で主の祈りに続いて語られている祈りの教えの御言葉を見ておきましょう。9節から13節。「わたしは、あなたがたに言います。求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。だれであっても、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。あなたがたの中で、子どもが魚を下さいと言うときに、魚の代わりに蛇を与えるような父親が、いったいいるでしょうか。卵を下さいと言うのに、だれが、さそりを与えるでしょう。してみると、あなたがたも、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天の父が、求める人たちに、どうして聖霊を下さらないことがありましょう」。私たちと神様との祈りの交わりは、このように愛するわが子に良き物を賜る父親との関係のようなものだと主イエスは言われるのです。 神を「父よ」と呼ぶこと。これは決して当たり前のことではありません。確かに旧約聖書においても主なる神が「父」と呼ばれることはあり、またユダヤ教伝統においてもそのような習慣があったと言われるのですが、しかしそれでもイエス・キリストが神を父よ、と呼ぶことは画期的であり実に独自なものでした。イエス・キリストが神を父と呼ぶ。これはマルコ福音書14章36節にゲッセマネの園で祈られる主イエスが出てきます。「アバ、父よ。あなたにおできにならないことはありません」。ここに出て来る「アバ」という言葉が重要です。しばしば説明されるように、この「アバ」と言う言葉はアラム語で「お父さん」と子どもが父親を呼ぶ時のの言葉ですが、このような「アバ」という日常語、しかも幼い子どもが呼びかける親しい言葉で神を呼ぶことはあり得ませんでした。すなわち、ここで主イエスが「父よ」と呼ぶ祈りは、そのような神との新しい関係、神を「お父さん」と呼ぶことの出来るような親密で愛に満ちた交わりの関係を作り上げる言葉であったのです。この父としての神の私たちに対する姿は権威の象徴としての「父」ではなく、むしろ愛と慈しみに満ちた「お父さん」としての姿であり、そのことも最も良く表しているのは、あのルカ福音書15章に記される放蕩息子のたとえ話に出て来る父親の姿です。父のもとから離れ去って自分勝手な生き方を繰り返し、放蕩の果てに人生に敗れ去った息子が「お父さん、私はもうあなたの息子と呼ばれる資格はない。雇い人の一人にして下さい」との言葉を携えて父の元に帰って来た時、彼はその息子の言葉を聞くより先に彼を抱きしめ、受け入れ、自らの子であると宣言したのでした。そこに示されたのはまさしく慈愛に満ちた父なる神の姿です。主イエスは私たちにこのような愛に満ちた父なる神を指し示して下さったのです。

(2)天におられるわれらの父
 このように私たちは神を「アバ、父」と近く、親しく呼ぶことの出来る神の子としての幸いを与えられていますが、それと同時にルカ福音書のテキストでは単純に「父よ」と呼びかけられるのに対して、マタイのテキストでは「天におられる、私たちの」という言葉が加えられます。「天」という言葉は新約聖書の中で数多く用いられていますが、特に集中して用いられるのがマタイ福音書です。マタイが表現する天とは神の御住まい、また神の領域であり、その主権や力の満ち溢れるところであり、神の支配の全体を表す表現でもあります。父なる神は、この天におられると言う時、そこでは神のいと高きこと、その力ある権能と把握し得ない偉大さとが言い表されていると言えるでしょう。私たちが神を「天にまします父」と呼ぶ。ここには祈りにおける神と私たちとの遠さが表されているのです。
私たちの信じる神は、私たちをしてご自身を「アバ、父」と親しく呼ぶことをゆるして下さるお方でありますが、しかしそのことは、私たちが神を自分のわがままに振り回し、自分の利益のために手の中に収めることのできるような存在ではないことを教えています。もし私たちが神を自分の自己実現の手段のように考えたり、万能で便利な道具のような存在として考えているとしたら、そしてそのようにして自分の都合の良い存在として神を呼んでいるとしたら、それは偶像礼拝への落とし穴であることを思い起こすべきです。神はどこまでも神であり、人はどこまでも人である。その隔たりを人間の側から踏み越えていくことは決してできません。このことを私たちは「天にまします」と祈ることをもって繰り返し繰り返し確認させられる必要があるのです。
 しかし神を神として崇める時、その天におられる神は、真の意味で私の父、そして私たちの父としてのお姿を鮮やかに示して下さいます。いと高く、力ある、そして私たちには把握し得ない全能の神が、同時にその地点において私たちの父としての慈しみと恵みの御手をもって臨んでくださる。この神の謙りの極みとして与えられたのが人となられた神の御子イエス・キリストなのです。ヨハネ福音書において、天から下ったただお一人の御子が神を証ししたと語られている通りです。このように父なる神は私たちを愛して、ご自身の子にしようと御子を遣わしてくださったのです。そして御子イエス・キリストはご自身の父である方を私たちに示し、このイエス・キリストの父なる神を「我らの父よ」と呼ぶことのできる驚くべき恵みの身分、すなわち神の子としての身分を与えてくださいました。

(3)神の子としての祈り
 主の祈りの新しさは、神を父と呼ぶことにとどまらず、この主イエス・キリストの父なる神を、私たちの父、我らの父よと呼ぶことが出来るという驚くべき事実にこそあります。それはただ神の救いのご計画により、御子イエス・キリストの贖いのゆえに、子として下さる聖霊が与えて下さった恵みです。この救いの御業によって主イエス・キリストの父は、我らの父となりたもうのです。この消息を使徒パウロは次のように言っています。ガラテヤ4章6節。「あなたがたは子であるゆえに、神は『アバ、父。』と呼ぶ、御子の御霊を、私たちの心に遣わして下さいました」、ローマ8章15節。「あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子として下さる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって『アバ、父』と呼びます」。このようにかつては罪と滅びの中にあった私たちが父なる神の選びに基づき、御子イエス・キリストの贖いにより、聖霊の働きの中で神の子とされた。それゆえに私たちは今大胆にも主イエス・キリストの父なる神を「我らの父よ」と呼ぶことの出来る子としての身分を与えられているのです。父なる神は私たちが「お父さん」と呼びかけることを待っていて下さるお方です。「父よ」との呼びかけは、そこに応答を求める呼びかけであり、父であられる神は、その呼びかけに答えて下さり、私たちの祈りを聞き届けてくださる生けるお方なのです。
 私たちがイエス・キリストの父なる神を、我らの父よと呼ぶことが出来る。この幸いと特権はただ御子イエス・キリストの贖いにより、とりなしによることです。今日読まれた
ヨハネ福音書17章の大祭司の祈りにおいて、主イエスは父なる神に向かって私たちのために執り成し祈っていてくださるのです。9節から11節に次のように記されている通りです。「わたしは彼らのためにお願いします。世のためにではなく、あなたがわたしに下さった者たちのためにです。なぜなら彼らはあなたのものだからです。わたしのものはみなあなたのもの、あなたのものはわたしのものです。そして、わたしは彼らによって栄光を受けました。わたしはもう世にいなくなります。彼らは世におりますが、わたしはあなたのみもとにまいります。聖なる父。あなたがわたしに下さっているあなたの御名の中に、彼らを保ってください。それはわたしたちと同様に、彼らが一つとなるためです」。
 天におられる父を親しく呼びまつる時、そこでは実はその背後にあって私たちを神の子とするためにご自分のいのちを捨てて十字架につき、三日目によみがえられて天に挙げられ、今、父なる神の右の座に着いておられる御子イエス・キリストが絶えざるとりなしを続けていて下さる。そのことの持つ大きな幸いを心に刻みつつ、なお親しく父なる神を呼び、子としての祈りを捧げ続ける私たちでありたいと願います。

 

 




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