朝拝(主の祈り講解1) 2005/07/03
『主が教えられた祈り』

ルカ11:1-4

 この朝から二ヶ月にわたり、使徒の働きを一時中断して、主の祈りについての学びを始めていきたいと願っています。すでに二年前のちょうど今頃の時期、夕の礼拝で主の祈りを学んだことがありますが、私達の信仰の基本である祈りについて繰り返し学ぶことは大いに益のあることだと思います。そこでこれからしばらくの間、主の祈りを通して祈りの世界の広さ、豊かさをご一緒に味わっていきたいと思います。

(1)主が教えられた祈り
 教会が歩んできた長い歴史の中で、いつの時代にも教会を建て上げ、養い、導いてきた大切な言葉が、使徒信条、十戒、主の祈りの三つの言葉です。私達も使徒信条と主の祈りは毎週の礼拝の中でこれらの言葉を唱え、祈っていますし、またいずれは十戒もそのように皆で唱和することが出来ればと願っていますが、これらの信仰の言葉、戒めの言葉、祈りの言葉を指して「三要文」と言ったりするとも教えられます。主なる神とともに生きる信仰の旅路の中で、何を信じ、何に従い、何を祈るのか。これらを一つ一つ身につけながら、私達の歩みは続いていくのです。中でも今日から取り上げる「主の祈り」は、主イエス・キリストご自身が教えて下さった祈りの言葉として、また私達が心と言葉を合わせて祈ることのできる祈りの言葉として大切なものです。そればかりでなく、古代の教父テルトリアヌスは主の祈りを「福音全体の要約」であると言いましたが、私達の信じるお方がどのようなお方であり、またそのお方に私達はどれほどのことを信じ、期待し、希望することができるかを示す大切な祈りの言葉なのです。そこでこの朝はこの祈りの言葉に向かうに当たって、まず私たち自身の姿勢を整えるために、「祈りを学ぶ」ということを考えておきたいと思います。
 主の祈りについて学ぶ、と申し上げました。しかしここにすでに一つの問いが浮かんで来ます。祈りを学ぶとはいったいどのようなことであり、またそもそも祈りを学ぶということはいかにして可能なことなのでしょうか。主の祈りは四つの福音書の中で、マタイ福音書6章と今日開いているルカ福音書11章に記されています。この二つのテキストについての詳しい分析は次回以降に行いたいと思いますが、一つのことだけを今日は申し上げておきたいと思います。それはこの祈りが「主が教えられた祈りである」ということですが、マタイ福音書では5章から7章にかけて語られる山上の説教の、次のような文脈で主の祈りが登場しています。マタイ6章5節から。「また、祈るときには、偽善者たちのようであってはいけません。彼らは、人に見られたくて会堂や通りの四つ角に立って祈るのが好きだからです。まことに、あなたがたに告げます。彼らはすでに自分の報いを受け取っているのです。あなたは祈るときには自分の奥まった部屋に入りなさい。そして、戸を閉めて、隠れた所におられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。また祈るとき、異邦人のように、同じ言葉を、ただ繰り返してはいけません。彼らはことば数が多ければ聞かれると思っているのです。だから彼らのまねをしてはいけません。あなたがたの父なる神は、あなたがたがお願いする先に、あなたがたに必要なものを知っておられるからです。だからこう祈りなさい」と、主イエスの命令によって始められます。一方ルカ福音書ではこうです。ルカ11章1節、2節。「さて、イエスはある所で祈っておられた。その祈りが終わると、弟子のひとりが、イエスに言った。『主よ。ヨハネが弟子たちに教えたように、私たちにも祈りを教えて下さい。』そこでイエスは、彼らに言われた。『祈る時にはこう言いなさい』」。
 このように、主イエスの一連の教えの中で語られたか、弟子たちの求めに応じるようにして語られたかによらず、大切なのは、この祈りが私たち人間の内側から自然に出て来た人間生来の言葉でなく、主イエス・キリストが私たちに授けてくださった外からの言葉、上からの言葉、新しい言葉。すなわち神からの賜物として与えて下さった祈りであるということなのです。この祈りを繰り返し祈ることによって、私たちは聖霊の導きにより、信仰を与えられ、救いの恵みにあずかり、主と共に歩む道を進ませていただくことができるのであり、また信仰の道を歩みながら、時に祈れない日を過ごす時にも、主の祈りを祈ることで私たちの心が主へと向けられていくと言うことを経験することができるのです。
 
(2)主が求められる祈り
このように主イエス・キリストが私達に賜物として与えて下さった祈りを、私たちは学ぼうとしています。しかし祈りを学ぶということは、単に主が教えてくださった祈りについて学ぶということだけでなく、実際にその祈りを祈るということが伴わなければなりません。つまり主なる神が上から与えてくださる賜物としての祈りは、それを受け取る私たち人間にとって、その祈りに促されて私達自身が実際に祈る者となっていくという課題、使命となるのです。祈りについて学ぶ人は、祈る人となっていく。ですから私たちは私たちの課題そして使命としてこの祈りを真剣に情熱をもって学んでいきたいと思うのです。そこで忘れてならないのは、主から与えられた課題、使命としての祈りは、先のマタイ福音書で戒められているように、自己満足のための祈り、気休めとしての祈り、自己流の祈りに陥ってはならず、むしろ主が求められる道筋に沿った祈りでなければならないということです。もちろん祈りは本来神様との自由な交わりですから、何を祈ってもよいし、どのように祈ってもよいのですが、しかし基本的な神との交わりの道筋をわきまえておくことは大切なことです。それはいわば祈りの文法を学ぶということです。文法をしっかり身につけてこそ、私たちは自由に豊かな祈りを捧げていくことが出来るのであり、その意味でも私達にとって「祈りを学ぶ」ということは大切な営みなのです。
 実際に教会の歴史を見ても、代々の教会は確かに熱心にこの祈りの言葉を学び続けてきました。宗教改革のカテキズムの伝統はもちろんのこと、その源流となる古代教会において主の祈りは信徒たちの霊的訓練のために用いられ、またこれから洗礼を受ける人々のための洗礼準備においても用いられました。信仰を持ったキリスト者だけが祈るのでなく、信仰を求める人々が、信仰が与えられるようにと祈る祈りであり、祈ることによって信仰を学び、信仰に至る道筋を整えていったのです。このことの持つ意味は重要です。今も教会に集い、聖書を学び、誠実に求道を続けておられる方々があります。一つ一つ聖書の教えを学び、納得してやがては信仰に導かれていくことを願っていますが、しかし何よりもその求道の途上にあって祈り始めていただきたいと思うのです。信じられるようにとの祈りをぜひ祈っていただきたいと思うのです。その祈りの中で、信仰への道筋が整えられ、開かれていくということが起こるのです。祈る時に、聖霊は私たちの内に生きて働かれ、わたしたちのうちに主イエス・キリストの恵みを鮮やかに示し、その救いに私たちをあずからせて下さるのです。ですから「私はまだクリスチャンだから祈れない」ということはない。むしろそう言う時からこそ祈ることが出来るし、また祈らなければならないのです。

(3)祈りを学び、祈りをささげる
 祈りを学ぶと申し上げてきました。祈りをどのようにして学ぶのか。結論的に言えば、その答えは、祈りは祈ることによって学ぶということになるでしょう。祈りについてのあれこれを論ずるにまさって、何よりも大切なことは祈りの世界の中に入り、この口で「天にまします我らの父よ」と呼びかけることです。私たちはこの学びを通して、主の祈りについて学ぶことにとどまらず、ともに「我らの父よ」と祈ることによってこのお方の子とさせられていくことを切に求めたいと思います。そしてますますこのお方との交わりの中に生き、その中でなお、「我らの父よ」と呼びかける者へと整えられていく者でありたいと願うのです。そもそも神のかたちに創造された人間の最も本来的な神のかたちの表れは人間の宗教性にあると言われますが、とりわけその中心にあるのは、人間が祈る存在であるという点にあると言えるでしょう。「祈る人」としての人間こそが、最も人間らしい姿を表しているのです。私たちは祈りというとすぐに「祈願」ということを思います。そこでは祈りは、何か自分の願いを実現させるための道具のような響きがあるかもしれません。そして祈りの答えにばかり思いが向きがちです。しかし確かに祈りの中には願い求めが当然含まれますが、祈りは単なる祈願に終わるものではありません。そこには願いと共に、賛美があり、感謝があり、悔い改めがあり、嘆きがあり、とりなしがあり、呻きがあり、沈黙があり、呼びかけがあり、待望があります。つまり祈りとは私達を愛してやまない生ける神ご自身が私達と交わりを持つために開いてくださった語らいの場、交わりの時であって、その交わりの中にあって神を呼ぶ時に、私達はその祈りに答えてくださる神と出会い、この神とともに生きる者へとかえられていくことができるのです。そしてその時には、祈りの答え云々以上に、祈りを聴いてくださる神御自身との交わりがより大きな意味を持つことになるのです。
 古代のアレキサンドリア教父オリゲネスは『祈りについて』という書物の中で次のように言いました。「祈りについて考察するということは、そのために御父が照らして下さり、御子であるお方が教え導いて下さり、聖霊が力を発揮して下さることが是非とも必要であるというほど大変なことですので、これほど大変な問題をそれにふさわしく認識し、語るために、溢れんばかりに豊かで、霊的な理解が私どもに与えられ、福音書に書き記された祈りを解明することができますよう、この祈りについての論述に着手する前に、一人の人間として聖霊を与えられるよう祈りたいと思います」。
 私たちもこの朝、「主よ、私たちにも祈りを教えて下さい」との主の弟子たちの願いとともに、祈りをささげることによって祈りを学ぶ者としての歩みを始めさせていただきたいと願います。

 




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