夕拝(主の祈り講解11) 2003/09/21
『御国、力、栄光』

マタイ6:13

今晩でいよいよ5月から学び始めた主の祈りの学びを終えることになります。そこで今晩は主の祈りの締めくくりとして、最後の神をほめたたえる頌栄の祈りから学んでおきたいと思います。

(1)祈りの方向付け
私たちが礼拝の度毎に祈る主の祈りは、「国と、力と、栄えとは、限りなく、汝のものなればなり。アーメン」という賛美頌栄の言葉で締め括られますが、マタイの福音書の本文を読むと分かるように、実はこの一文は新約聖書の古く信頼できる複数の写本には含まれていません。つまりオリジナルのテキストにはない、後の時代の加筆ということになります。またルカ11章のテキストにもこの一文はありません。ですから、古くから、主の祈りの中にこの結びの祈りを加えるべきか否かについては多くの議論がなされてきました。今日の新約聖書学の常識では、これを本文には含まないというのが一般的ですので、ほとんどの日本語訳聖書もこれを記しておらず、新改訳聖書の扱いは括弧付きとはいえ異例のことと言えるでしょう。しかし一方で、後の時代の教会がこの祈りを加えた事の意義が十分に顧みられる必要があるでしょう。主の祈りが祈られてきた教会の長い歴史を顧みるならば、この結びの祈りはほぼ本文と一体のように祈られて来たからです。また新約聖書に記されていないことが、すなわちこの言葉が元来祈りの中に含まれていなかったことには直結しないと言う立場もあります。主の祈りをユダヤ教の祈りの形式と比較する研究者たちは、保存されてはいないが、この加筆部分に近い何かしらの結びの祈りがあったことを示唆しています。また新約聖書時代とほぼ重なり合う時代に記された『十二使徒の教え』(ディダケー)に収められている主の祈りには、「力と栄光とは永遠にあなたのものだからです」とあります。つまり教会の歴史のかなり早い段階から主の祈りの結びにおいて力、栄光、そして御国を父なる神に帰する祈りが祈られていたのであり、そのことは仮に主イエスの口にまで遡り得なかったとしても、それを合わせて祈ることの意義をいささかも減ずるものではないと言えるのです。
 そもそもこのような神への賛美、頌栄の祈りは、旧約以来、神の民の中で捧げられてきたものであり、何よりも私たちの祈りの全体、信仰の全体を方向付ける重要な役割を果たしているのではないでしょうか。歴代誌の中には次のような祈りがあります。「主よ。偉大さと力と栄えと栄光と尊厳とはあなたのものです。天にあるもの地にあるものはみなそうです。主よ。王国もあなたのものです。あなたはすべてのものの上に、かしらとしてあがむべき方です」(I歴代29:11)。神を私たちの全ての全てとする信仰。そこへと私たちを方向付ける祈り、それがこの祈りの意義なのです。

(2)御国、力、栄光
 ここで、国、力、栄えを神に帰することの意味について考えておきたいと思います。国についてはすでに第二の祈願である「御国が来ますように」のところで触れられたように、御子イエス・キリストによって到来し、やがて全うされる神の国と支配への賛美であり、力とは御子イエス・キリストを死者の中から甦らされ、この復活を初穂としてやがては万物を新たにさせ、更新させたもう神の力への賛美であり、そして栄光とは、やがて再び来たりたもう再臨の主によって完成される神の栄光への賛美なのです。そしてこの終わりの時の希望とそのヴィジョンを仰ぎ見つつ祈る私たちを通して、この賛美は具体的に形を取って実現していくのです。その意味でパウロがコリント書で語った次の言葉を思い起こしておきたいと思います。「私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです」(IIコリント3:18)。

(3)祈願の祈り、賛美の祈り
最後に主の祈りはアーメンと力強く結ばれます。ハイデルベルク信仰問答の最後の第129問は次にように語ります。「問:『アーメン』という言葉は、何を意味していますか。答:『アーメン』とは、それが真実であり確実である、ということです。なぜなら、これらのことを神に願い求めていると、わたしが心の中で感じているよりもはるかに確実に、わたしの祈りはこの方に聞かれているからです」。祈りはしばしば単なる自己満足や気休めに過ぎず、結局の所どんなに祈っても世界は変わらないと言われることがあります。しかし祈りは祈る私たちの思いよりも遙かに確かに、この祈りを聞かれる生ける神によって確かに聞き届けられ、そして御業がなされる。それゆえに私たちは「アーメン」と言い切ることができるのであり、また言い切らなければならないのです。それはこの神が私たちの父なるお方として、私たちに愛と恵みを注いで下さるという確信があるからであり、それゆえにこそ、私たちは再「天におられる私たちの父よ」と祈り始めることが出来るのです。パウロもこの確信に立って次のように語ります。「神の約束はことごとく、この方において『しかり』となりました。それで私たちは、この方によって『アーメン』と言い、神に栄光を帰するのです」(IIコリント1:20)。
 この神の大いなる肯定の中にある時に、私たちは祈りつつも確信が持てず不安になる時にも、祈りながらも答えが出ずに行き詰まる時にも、祈ること自体がとぎれそうになる時にも、にもかかわらず、希望を持って祈り続けることが出来るのです。カルヴァンは言います。「もしわれわれの祈りが、われわれの価値によって神に捧げられるとすれば、ただ低く口ごもって言うだけで、誰が敢えて神の前に祈りうるだろうか。しかし今やわれわれはどんな悲惨の極みにあり、全ての者の中で最も無価値であり、何ら誇ることができるものも持たないとしても、われわれから祈る理由が取り去られることも、信頼がなくなることもない。なぜなら誰も、われわれの父から、その口と力と栄えとを奪い取ることは出来ないからである」。この約束に基づいた希望にしっかりと立って、日ごとに新しく、再び主が来たりたもうその時まで、この祈りを御前に捧げ続けこの祈りによって生かされ続けている私たちでありたいと切に願います。
「また私は天と地と、地の下と、海の上のあらゆる造られたもの、およびその中にある生き物がこう言うのを聞いた。『御座に座る方と、小羊とに、賛美と誉れと栄光と力が永遠にあるように。』また、四つの生き物はアーメンと言い、長老たちはひれふして拝んだ」。

 




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