夕拝(主の祈り講解9) 2003/08/31
『試みに会わせず』

マタイ6:13

いよいよ主の祈りの学びも大詰めに近づいて来ました。今晩は、主の祈りの第六の願いである「私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください」の祈りの特に前半部分を通して、試みに打ち勝つ信仰者の姿について学んでおきたいと思います。

(1)試みと誘惑
宗教改革者ルターは、次のような言葉を残しています。「私は第五の祈りとともに眠りにつき、第六の祈りとともに起きあがる」。彼は一日の終わりには罪の赦しを祈り求め、そして一日の始まりを試みと悪からの守りを求める祈りによってスタートするというのでした。これは試練の問題をいつも身近に考えていたルターらしい言葉であると言えますし、私たちの信仰の歩みにおける一つの真理を言い当てた言葉であるとも言えるでしょう。
 さて、今日の箇所で「試み」と訳される「ペイラスモス」という言葉ですが、これは新約聖書において大きく二通りに訳されています。一つは「試み」、「試練」、いま一つは「誘惑」と言う言葉です。試練と誘惑。この二つを厳密に使い分けることは困難ですが、日本語の語感について辞書を引いてみると、試練は「相手の実力や信仰の程度を厳しく試すこと」と肯定的なニュアンスであるのに対して、誘惑は「人の心を迷わせて、悪いことに誘い込むこと」として否定的な意味合いを持っています。確かにギリシャ語のペイラスモスにも、この肯定、否定の両方の意味が込められているのであって、それぞれをその文脈に沿って訳し分けていると言えるのです。そこで、聖書が理解しているペイラスモスの意味についてそれを四つのパターンにまとめておきたいと思います。第一には「人が神を試みる」というパターンです。これは人が神の実力をテストするという点で、肯定的な意味とは言えませんが、出エジプトにおけるイスラエルの民の振る舞いは、いわばこのパターンに当てはまるでしょう。第二には「神が人を試みる」というパターンです。しかしここで問題となるのは、ヤコブ1章13節の御言葉です。「だれでも誘惑に会ったとき、神によって誘惑された、と言ってはいけません。神は悪に誘惑されることのない方であり、ご自分でだれを誘惑なさることもありません」。つまりここでは神は試みる方ではないと主張されているのです。確かに誘惑という側面で言えば、神が誘惑されることはありません。しかし試練という側面で考えるならば、確かに神からの試みはあるのです。主なる神は私たちを試練に会わせることによってご自身との交わりを固くするため、時に私たちをサタンの試みの勢力下に置くことを許容されるのです。「あなたがたのあった試練はみな人の知らないようなものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることのできないような試練に会わせるようなことはなさいません。むしろ、耐えることのできるように、試練とともに、脱出の道も備えてくださいます」(Iコリント10:13)。「信仰の試練は、火を通して精練されてもなお朽ちて行く金よりも尊いのであって、イエス・キリストの現われのときに称賛と光栄と栄誉に至るものであることがわかります」(Iペテロ1:7)
と記されている通りです。旧約聖書で信仰の父アブラハムが息子イサクを捧げよという命令を受け取ったことも、義人ヨブが大いなる苦難の中に投げ込まれたことも、それは神の人に対する試練という側面で理解されるべき事柄なのです。第三のパターンは「人が人を」という面です。私たちが日常に於いて経験するものはほぼこの範疇に入るでしょう。お金、名誉、地位、性的な誘惑です。そして第四は「サタンが人を」という面です。これはいわば第三のパターンの背後に潜むその誘惑の正体です。このように考えてみると、ペイラスモスと訳される言葉の意味するところは、それが神と人との関わりである場合には試練の側面が強く、人と人、そしてその背後にある人とサタン都の関わりである場合には誘惑となって現れているということが出来るのです。

(2)勝利を願う祈り
 以上のような考察を踏まえて、今日の第六の祈りを考えてみたいのです。「試みに会わせないでください」という祈り。それは試練や誘惑と直面せず、それを避けて通らせてくださいという祈りではないのです。相ではなく、この祈りは試練や誘惑に会うことは避けられないこととした上で、試練に屈してしまうことがないように、誘惑に陥ってしまうことがないように、その深みに引き入れないで下さいと願う祈りなのです。古代の教父オリゲネスは言います。「私たちは、試みを受けることのないように祈るべきではなく、それによって捕らえられ、打ち負かされてしまうことがないように、試みによって取り囲まれることのないように祈らなければならない」。
 またハイデルベルク信仰問答第127問は言います。「問:第六の願いは何ですか。答:『われらを試みにあわせず、悪より救い出したまえ』です。すなわち、わたしたちは自分白身あまりに弱く、ほんの一時立っていることさえできません。その上わたしたちの恐ろしい敵である悪魔やこの世、また自分自身の肉が、絶え間なく攻撃をしかけてまいります。ですから、どうかあなたの聖霊の力によって、わたしたちを保ち、強めてくださり、わたしたちがそれらに激しく抵抗し、この霊の戦いに敗れることなく、ついには完全な勝利を収められるようにしてください、ということです」。つまりこの祈りは誘惑や試練を避けて通るための祈りではなく、誘惑に打ち勝ち、試練に打ち勝ち、そして聖霊に力によって完全な勝利を得させてくださいと祈る戦いの祈り、勝利を求める祈りなのです。
 人々は悪の力の満ち溢れるこの世界のただ中で、頭を垂れ、手を合わせて祈る信仰者たちの姿を単なる自己満足や自己憐憫の行為、責任転嫁の行為、負け犬の遠吠えのように言うかも知れません。しかし私たちは祈ることをそのような消極的な事柄とは言わない。むしろ祈りこそが悪の力に打ち勝つための私たちの抵抗と戦いと勝利のための手段であり、神からの試練には甘んじてこれを堪え忍び、悪魔からの誘惑には断固としてこれを退け、そのようにして成熟したキリストの証し人としてこの世界に派遣されていくのです。今晩私たちはあの主イエスがゲッセマネの園で弟子たちに言われた命令の言葉をしっかりと聞き取りながら、ここから戦いへと遣わされていきたいと願います。「誘惑に陥らないように、目を覚まして祈っていなさい」と。

 




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