夕拝(主の祈り講解4) 2003/06/08
『御名を崇めさせたまえ』

マタイ6:9,ヨハネ
黙示録3:7-13

今晩は、主の祈りの第一の願いである「御名を崇めさせたまえ」から、主の御名の聖さと、その栄光を表す私たちのあり方について学んでおきたいと思います。

(1)神の名の聖さ
主の祈りは、「天にいます私たちの父よ」との呼びかけに続いて、その本論部分はマタイ福音書では六つの、ルカ福音書では五つの願い求めから成り立っています。そしてその祈りの前半の三つ、ルカでは二つですが、すなわち「御名が崇められますように」、「御国が来ますように」、そしてマタイだけにありルカにはない「みこころが天で行われるように地でも行われますように」という祈願は、祈りの対象である父なる神についてのものであり、後半の三つ、すなわち「私たちの日ごとの糧を今日もお与えください」、「私たちの負い目をお赦しください」、「私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください」という祈願は、父なる神に向かって祈っている私たちについてのものということができます。つまりこの祈りは、あの先に学んだ十戒が前半と後半で神との関わりにおける戒めと、人との関わりにおける戒めであったのと同様に、神に対する祈りと私たち人に対する祈りとが一つになった祈りであるのです。
 そして今日取り上げる第一の祈願は、この神についての祈りと人についての祈りを一つに結び合わせる、いわば主の祈り全体の背骨のような祈りであると言えるのです。「御名があがめられるように」とは直訳すると「あなたの名が聖とされるように」という言葉です。「あなたの名が聖とされる」とはいかなることを指しているのでしょうか。あの出エジプト3章で神がご自身の名を「ありてある者」と紹介なさったように、旧約聖書は一貫して神の名が神ご自身を表していることを主張しています。そして、イザヤの召命の折、セラフィムが「聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主。その栄光は全地に満つ」と歌い交わしたように、その神ご自身が聖なるお方であることもまた同じく旧約聖書が繰り返し主張することです。ですから神は私たちの祈りによって聖となったり、ならなかったり、というものではありません。このことについて宗教改革者ルターの語るところに聞きたいと思います。ルターは大教理問答書の中で次のように言っています。「御名はすでに前から聖いのではないか。しかり。御名はその本質においては終始神聖である。けれども、私たちの用い方で神聖でなくなるのである」。つまり私たちが神の民として生きながら、その言葉や行いにおいて神の名に相応しくない生き方をする時に、それはちょうどあの十戒で「主の名をみだりにとなえてはならない」と戒められていた御名の濫用の罪の中に陥ってしまうのです。
 しかし、主なる神はご自身の聖であられることを、ご自身の民に対しても求められるお方です。「わたしが聖であるので、あなたがたも聖でなければならない」と記される通りです。もちろん私たちは自らの力で神の聖さに近づくことや、自分自身を聖なる者とすることはできません。むしろ神の聖さに触れた時には、私たちの罪はあらわにされ、私たちは神の御前に立ち得ることができなくなるはずです。しかしその私たちをして神の御名を聖とするようにとの祈りを主イエスは教えてくださいました。そのことが可能となるのはただ主イエス・キリストによる贖いと罪の赦しによることです。「キリストは、私たちにとって、神の知恵となり、また、義と聖めと、贖いとになられました」とパウロが語った通りです。このキリストの義と聖さが、今、聖霊によって私たちのものとされているがゆえに、私たちはこの口をもって御名が聖とされるように、と祈ることができるのです。

(2)神の名の栄光
さらにこの祈りは、やがてこのキリストにあって私たちもまた聖なる者とされていくという終末的な約束をも含んだ祈りです。黙示録の七つの教会へメッセージの中で、フィラデルフィア教会への言葉を読みました。特に12節では「勝利を得る者を、わたしの聖所の柱としよう。彼はもはや決して外に出て行くことはない。わたしは彼の上にわたしの神の御名と、わたしの神の都、すなわち、わたしの神のもとを出て天から下ってくる新しいエルサレムの名と、わたしの新しい名とを書き記す」とあります。やがて新しい新天新地が成就する時、私たちは神の御名をこの身に帯びる者として、また新しいエルサレムと、その終わりの時に明らかにされるであろう新しい名とをこの身に帯びることができるというのです。聖書が語る神の「聖さ」には、神の「栄光」がそこに満ち溢れています。御名を崇めさせた前と祈る時、私たちは神の名が聖とされることによって神の栄光が表されるようにと祈っているのであり、そしてやがて終わりの日に、私たちもその聖にあずかり、そしてついにはその聖の完成として、神の栄光の中に入れられることを待ち望みつつ祈っているのです。
 この第一の祈りは、父なる神についての願い求めと、私たち人についての願い求めとを一つに結ぶ祈りであると言いました。神の名が聖とされるように、と祈りながら、しかしより正確には「私たちをして、あなたの御名が聖とされるように」との祈りです。この汚れた私たちの祈りによって神の名が聖とされる。この驚くべきことがらを成し遂げてくださるのは、キリストの贖いの御業によることです。キリストの義と聖が、今、キリストを信じる私たちの内に宿っているので、私たちはこのように祈ることがゆるされており、また命じられてもいるのです。その背後にある大祭司キリストの取りなしの祈りを聞きつつ、「御名を崇めさせたまえ」と祈る私たちでありたいと願います。
「聖なる父。あなたがわたしにくださっているあなたの御名の中に、彼らを保ってください。をれはわたしたちと同様に、彼らが一つとなるためです」


 




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