宗教改革記念主日合同朝拝   2019/10/27
『黙って神を待ち望む』

詩篇62:1-8

 今年の宗教改革記念の主の日を迎えました。私たちが聴き従うべき神の言葉である「聖書のみ」、私たちが救われるために必要な手段である「信仰のみ」、そして私たちを罪の中から救い出し、神の子どもとし、神のすべての祝福にあずからせてくださる「恵みのみ」というプロテスタント信仰の原点を確認しながら、この日、精一杯、生ける神さまを賛美し、その御声に聞いてまいりたいと思います。
 この朝も、主なる神さまの御許に呼び集められた、愛するお一人一人の上に、豊かな祝福がありますように祈ります。

(1)宗教改革と賛美
 毎年、私たちの教会では宗教改革記念日の午後に教会セミナーを開き、宗教改革にちなんだ学びを続けています。今年はすでにご案内しているように、17世紀のルター派の牧師で讃美歌詩人であったパウル・ゲルハルトの生涯に学び、また彼の作詞による讃美歌をご一緒に歌うというプログラムが準備されています。ぜひ午後にも期待して多くの方々にお集いいただきたいと願っています。
 宗教改革というのは実に多様な広がりを持った、大きな世界史的出来事です。しかしその中心にあったのは御言葉による教会の改革という運動でした。様々な言い伝えや儀式、迷信的な教えや人物崇拝、そして何よりも魂の救いをお金で買わせようとする中世ローマ・カトリック教会に対して、聖書に忠実に従った教会を取り戻すために起こされた運動が宗教改革でした。このために用いられた最も重要な手段は御言葉の説教でした。ウィッテンベルクの改革者ルターはそのために自ら聖書をドイツ語に翻訳し、詳細な解説を伴う説教を語りました。チューリヒの改革者ツウィングリは、マタイ福音書をギリシャ語原典から一節ずつ説き明かす講解説教を行いました。多くの改革者たちが日曜日には聖書を説教し、平日は聖書の講義と解説を続け、聖書によって教会を建てようと励んでいきました。
 宗教改革運動が進められていくにあたって、説教とともに用いられた大切な手段が讃美歌です。宗教改革に転じた教会の礼拝では、カトリックの典礼のように司祭たちがラテン語で歌うのでなく、信徒たち一人一人が自分たちで歌うことのできる、母国語による会衆賛美が積極的に取り入れられていきました。そこでは子どもたちが大事な歌い手としての役割を担い、みんなで声を合わせ、心を合わせ、信仰を一つに歌う讃美歌が次々と作られ、また誰もが知っているメロディーに福音的な歌詞をのせた讃美や、詩篇そのものを歌う詩篇歌が数多く生み出されていったのです。そこで特に大切にされたのが歌われる歌詞の言葉です。聖書に基づく福音とそれを信じる信仰の真髄とが、できる限りやさしく、わかりやすく、そして人々の心を揺り動かし、天へと高められていく歌詞が記されていきました。

(2)沈黙の祈り
 宗教改革者の中でも比較的、自由かつ大胆に讃美歌を自ら作ったのはルターです。これに対して、できる限り聖書そのものを歌うことを大切にしたのが、ルターとほぼ同時代に生きたストラスブールの改革派のマルティン・ブツァー、そしてその次の世代に属するカルヴァンです。特にカルヴァンはブツァーの影響のもとで、詩篇を歌うことを重んじ、詩篇150篇すべてに旋律を付けたジュネーヴ詩篇歌が作られていったのです。カルヴァンは詩篇こそが神にささげられる最高の賛美であるとして、次のように言います。「詩篇は、私たちを励まして、この心を神に高め、讃美をもって、神の御名の栄光があがめられるようにと祈る熱意へと私たちを駆り立てることができる」、「私たちが周囲をあちらこちらと丹念に探し回りましても、ダビデの詩より優れ、それよりも適切なものは見当たらないでありましょう。これらの詩こそは、聖霊が彼に語らせ、作らせたところのものであります」。確かに詩篇は私たちの信仰、教会と礼拝の生活においてとても大切なものです。詩篇の中には私たちの信仰の営みのすべてがあると言っても言い過ぎではないほどです。詩篇の中には主への賛美があり、感謝があり、喜びの歌がありますが、またそこには祈りがあり、悔い改めがあり、嘆きがあり、呻くような叫びがあります。喜びの大合唱もあれば、一人孤独な祈りや静かな沈黙があります。そのような中で今朝私たちが心に留めたいのが、静かに黙して主の御前に身を置くという姿勢です。
 今日はこの詩篇全体を細かく見ることはせず、特に1節、2節と、続く5節から8節に集中したいと思うのですが、まず1節、2節をお読みします。「私のたましいは黙って、ただ神を待ち望む。私の救いは神から来る。神こそ、わが岩、わが救い、わがやぐら。私は決して揺るがされない」。続いて5節から7節をお読みします。「私のたましいよ。黙って、ただ神を待ち望め。私の望みは神から来るからだ。神こそ、わが岩、わが救い、わがやぐら。私は揺るがされることがない。私の救いと栄光は、ただ神にある。私の力の岩と避け所は、神のうちにある」。ここで詩人が言い表している信仰の姿勢を短く言い換えると「沈黙、確信、集中、反復」と言えるでしょう。5節、6節は1節、2節のほぼ繰り返しとなっています。詩人は今、敵対する者にいのちを狙われている。相手は色々と策を練り、陰謀を働かせ、多くの言葉をもって揺さぶりを掛けている。そんな中にあって詩人の姿勢はまったく対象的です。恐れ、狼狽え、饒舌になり、反撃に出たり、取り乱したり、というのではない。1節で「私のたましいは黙って、ただ神を待ち望む」というのです。
 
(3)反復の祈り、確信の中身
 この敵の前での静かな姿、落ち着いた姿はどこから来るのか。そこに確信の拠り所があります。1節後半。「私の救いは神から来る」。神の救いへの揺るがない確信が、彼の沈黙を生み出しているのであり、それらはここ一番の時に彼が誰を頼みとしているかをあらわす信仰の「集中」を表していると言えるでしょう。主の御前に集中するとき、そこに沈黙が生まれてくる。敢えて口を閉ざすことによって、主への確信が明確になってくる。そういう信仰の境地があることを今日の詩篇は教えてくれています。
 その上で、1節と5節の微妙な違いにも目を留めておきたいと思います。もう一度1節。「私のたましいは黙って、ただ神を待ち望む。私の救いは神から来る」。そして5節。「私のたましいよ。黙って、ただ神を待ち望め。私の望みは神から来るからだ」。ここで詩人は1節の確信を5節でもう一度反復しているのですが、しかしそれは単なる繰り返しではないことに気づきます。1節で「私のたましいは、ただ黙って神を待ち望む」と、自分自身のうちにある、沈黙の中での揺るぎない確信を告白した詩人は、5節では「私のたましいよ。黙って、ただ神を待ち望め」と自分自身に向かって呼びかけています。この小さな変化を伴う反復の中に、沈黙の中での詩人の信仰の動きをとらえることができるでしょう。一度、確信を握ったら、それは二度と揺さぶられない、心騒ぐことがない。そういう不動の信仰の姿勢を歌っているのではないのです。そうではなく、不安になる自分、疑いたくなる自分、揺さぶられる自分、ぐらついてしまう自分の心に向かって、「私のたましいよ。黙って、ただ神を待ち望め」と何度も何度も、繰り返し語りかけているのです。沈黙の祈りは、強い祈りではない。一度祈って、それでもう後は黙っているというのでもない。沈黙の中で詩人は祈りを反復しています。その反復の中で神に向かって待ち望む姿勢をいっそう確かなものとしていっているのです。それが「私の救いは神から来る」とう確信であり、「私の望みは神から来るからだ」という待望に繋がっているのです。
 さらに続く6節、7節には詩人の確信の中身が明らかにされています。「神こそ、わが岩、わが救い、わがやぐら、私は揺るがされることがない。私の救いと栄光は、ただ神にある。私の力の岩と避け所は、神のうちにある」。詩篇の中にたびたび見られる信仰の表現の言葉です。「岩」、「やぐら」とは堅固なもの、揺るがないもの、崩れ去らないもの、それゆえ自分を守ってくれるもの、匿ってくれるもの、ということです。私たちの神はそれほどに確かで、堅固で、信頼するに足りるお方である。詩人の信仰は敵の揺さぶりを前にしているにもかかわらず、より確かになっていることが分かります。試練の中で、困難の中で彼の信仰はますます集中し、それによって研ぎ澄まされ、主なる神御自身のお姿をより鮮やかに、より明瞭に、より身近に見ているのであり、それによって神御自身との結びつきがいよいよ堅く確かなものとなっていることが分かります。ここに聖書の信仰の世界のダイナミックさとユニークさがあると言ってよいでしょう。多くの場合、人は試練や苦しみに遭わないために宗教に頼り、神を求めます。しかし聖書が語る信仰の世界は、むしろ試練や苦しみの中で神と出会い、神に集中し、新しい信仰の経験をし、それによって神との結びつきが強く確かにされていくのです。苦難が意味を持つ信仰の世界、苦難のゆえに神を疑うどころか、苦難の経験を通して神に近づいていき、より一層確かな信仰へと導かれていく世界。それが聖書の教える信仰の世界なのです。
 
(4)どんなときにも
 このような信仰の世界を経験したゆえに、詩人は自分の経験を越え出て民に向かってこう呼び掛けるのです。8節。「民よ、どんなときにも神に信頼せよ。あなたがたの心を、神の御前に注ぎ出せ。神はわれらの避け所である」。長い沈黙の時を経てその口から発せられた言葉。それが「民よ。どんなときにも神に信頼せよ」という言葉であったことの意味深さを覚えます。もちろん私たちも神に信頼することの大切さは知っています。けれどもこの言葉は何か決まり切った信仰の公式のような言葉、通り一遍の決まり文句のように聞くことはできません。敵の揺さぶりの前でだまって静まり、ひたすら集中して神を待ち望むと確信を持って言い切った詩人の信仰の結晶としての言葉、それが「神に信頼せよ」です。
 しかも重ねて大切なのが「どんなときにも」という言葉です。「どんなときにも神に信頼せよ。あなたがたの心を、神の御前に注ぎ出せ。神はわれらの避け所である」。ここには型どおりの形式的な信仰というようなものはありません。賛美の時も、感謝の時も、喜びの時も、悔い改めの時も、嘆きの時も、呻きの時も、孤独な祈りの時にも、いやそのような時こそ、神に信頼し、自分の心の全てを神の御前に注ぎ出す祈り。そのような祈りの交わりを持てる相手が、私たちの信じる主なる神なのです。
 この朝、私たちはこの「どんなときにも」という神への信頼の姿勢をしっかりと心に刻みましょう。祈りも賛美も礼拝も、「どんなときにも」という信仰の営みです。祈れる時に祈る、賛美できるときに賛美する、礼拝できるときに礼拝する、ではないのです。祈れないような心騒ぐ時にも、賛美できないような辛い心持ちの時にも、礼拝さえできないような心乱れる試練の時にも、いやそういう時だからこそ、「主よ、祈れません」と祈り、「主よ、賛美できません」と祈りつつ歌い、「主よ、礼拝の心になれません」と祈りつつ、歌いつつ、礼拝の場に進むのです。そこで主は私たちを取り扱ってくださり、いやしてくださり、慰めてくださり、回復させてくださいます。この主なる神を信じて、どんなときにも神を信頼することをやめずに、このお方についていきたいと願うのです。
 「私のたましいは黙って、ただ神を待ち望む。私の救いは神から来る」。「私のたましいよ。黙って、ただ神を待ち望め。私の望みは神から来るからだ」。

 



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