宗教改革記念合同朝拝   2016/10/30
『愛のうちに歩む』

エペソ5:1-2

 秋が深まって、10月最後の主の日の朝を迎えました。今朝は宗教改革記念の合同礼拝、そしてこの秋に教会に与えられた新しいオルガンを主におささげする、「オルガン奉献礼拝」としてささげています。新しい楽器で主を賛美できる喜びを味わっています。私たちの賛美の歌声は、主なる神さまに向かってささげられているとともに、この地に住む方々への証しの声としても響いています。賛美しつつ歩む人生の喜びと幸いを、一人でも多くの方々と分かち合って生きるために、今日も心から主の御名をほめたたえてまいりましょう。愛するお一人一人の上に、主の豊かな祝福がありますように祈ります。

(1)歩むこと、生きること
 宗教改革記念日ということで、今日の午後には第28回教会セミナーを予定しています。来年の2017年が宗教改革500年ということで、すでに様々な企画が世界中で為されているのですが、私自身も少なからずこの領域には関心がありますので、あらためて宗教改革という運動がどのようなものであったのかを自分なりに学んでみたいと願っています。その場合、やはり関心の中心となるのは「人間」です。そこで生きた人々の姿から学ぶことが大切だと思います。今回のセミナーでは宗教改革の先駆者となった人々、また宗教改革者と同時代を生きながら、体制の中に留まり続けたキリスト教人文主義者と呼ばれる人々を取り上げますが、そこでも関心の中心は、彼らが「いかに生きたか」ということです。
 聖書は人の生き方、「生きる」という営みを、しばしば「歩く」という言葉で表現します。生きることは歩くことだ。一歩一歩、地道に、ひたむきに。一足飛びに進みたいと思っても、やはり一歩一歩です。私たちの人生も一日一日です。どんなに急いでも、やはり一日一日です。その一歩を、その一日をどのように生きるかが重要です。ただ何となく、流れるままにぼんやりと生きるのか、それとも、その日その日を自覚的に決断をもって生きるのか。朝ごとに私たちはどんな祈りのもとに一日を歩み出しているでしょうか。「主よ、今日も新しいいのちを感謝します。新しい一日を感謝します。今日もあなたのみこころに生きる者としてください。あなたのあとを歩ませてください」。そのような祈りに導かれる私たちの日々でありたいと願うのです。
 宗教改革者たちも、抽象的な思想や思弁、何かの主義主張のために生きた人々ではありませんでした。もちろん後になって、その語られた言葉や書き記された言葉からそれぞれの思想や主張を取り出し、まとめるという作業は行われるのですが、しかし彼らはそういうことを目的に生きたわけではなく、目の前の具体的な人間、教会、そして世界を見つめ、その中に生き、それと関わって奮闘した人々です。一時期、神学校でカルヴァンのキリスト教綱要を講読する講義を担当したことがありますが、そこで神学生の方々と確認し合ったのは、あの書物はいわゆる神学の体系を作り上げるための書物でなく、実際に信仰に生き、キリストに従って歩むための手引きだということでした。宗教改革500年を前に、私たちもそういう生きた信仰を受け継ぎ、その信仰に生きる者となりたいと願うのです。

(2)召しにふさわしく、神の子どもらしく、光の子どもらしく
 この朝与えられているエペソ人への手紙5章2節で、この手紙の著者である使徒パウロはこう言っています。「愛のうちに歩みなさい」。この愛は、何か一般的な意味でのものではありません。それは個別具体的な愛、すなわちイエス・キリストが十字架によって示してくださった私たちのための救いの愛です。「キリストもあなたがたを愛して、私たちのために、ご自身を神へのささげ物、また供え物とし、香ばしいかおりをおささげになりました」とある通りです。この愛によって愛されている者として、その愛のうちに歩め、と勧めているのです。
 聖書において「生きる」ことは「歩むこと」だと言いました。エペソ書を読むと、この「歩む」という言葉が繰り返し出て来ることに気づきます。そしてそれらを合わせ読むと、私たちがキリストにあって生きることがどういうことか、その全体像が見えてくるのです。そこで実際に確かめてみたいと思いますが、まずは2章2節。「自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって、そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って歩んでいました」。主イエス・キリストと出会う前の私たち、それをパウロは「死んでいた者」と言い、にもかかわらず「罪の中にあって、この世の霊に従い」歩んでいた、と表現します。しかしそんな私たちを罪と死の中から救い出してくださった主イエス・キリストにあって、私たちは本来生きるべき姿、神のかたちに回復されました。そして2章10節で「私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをもあらかじめ備えてくださったのです」と言われ、私たちが神の作品として、良い行いに歩むという新しい生き方が示されたのです。
 そこから、聖書はこのキリストの救いにあずかった私たちの生き方について、次のように教えます。4章1節。「さて、主の囚人である私はあなたがたに勧めます。召されたあなたがたは、その召しにふさわしく歩みなさい」。ここでの「召し」は「救い」と言い換えてよい言葉ですから、救われた者は、その救いにふさわしく歩め、という勧めです。この救いにふさわしく、というのがキリスト者の生き方、歩み方の標準となります。今日の5章1節でも「愛されている子どもらしく」、2節で「愛のうちに歩みなさい」と言われ、続く8節では「あなたがたは、以前は暗やみでしたが、今は、主にあって、光となりました。光の子どもらしく歩みなさい」とあり、さらに15節、16節で「そういうわけですから、賢くない人のようにではなく、賢い人のように歩んでいるかどうか、よくよく注意し、機会を十分に生かして用いなさい。悪い時代だからです」と言われているとおりです。
 愛のうちに歩む。それは、いつも私たちに注がれている父・子・聖霊の神の大いなる愛によって愛されていることを喜び、感謝し、その愛を確かめながら日々を歩むことです。私たちは、父なる神によって世界の基の置かれる前から御子にあって選び出され、御子の十字架の愛によって愛され、聖霊によって罪と死、滅びと闇の世界から、赦しといのち、救いと光の世界へと召し出していただきました。この救いをいただいた者として、その救いにふさわしく、愛されている子どもらしく、光の子どもらしく、蛇のようにさとく、鳩のように素直に、聖霊に導かれて賢く生きるように導かれているのです。

(3)愛されている子どもらしく
 「?らしく」、「?にふさわしく」と言う時、一つ心に留めておきたいことがあります。「召しにふさわしく」、「愛されている子どもらしく」、「光の子どもらしく」というのは、私たちに何かを成し遂げさせるための条件としたり、私たちをある形に嵌め込んだり、律法の縛りの中に括り付けたりするものとして受け取ってはならないということです。そうした途端に、それらは私たちから自由を奪い、重荷となって、プレッシャーとなって私たちの肩に、背中に重くのしかかってくることになるでしょう。
 「うちの看板に傷を付けるな」とか、「わたしの顔に泥を塗るな」、「その名に恥じぬようにがんばりなさい」とか、そういう響きに私たちは弱い者です。感じなくても良いプレッシャーを感じ、引き受けなくてもよい重荷を背負い込み、理想のキリスト者像を作り上げる。しかしそれは到底実現するようなものでなく、一生懸命がんばってみるものの、そうならない自分に落ち込んだり、他人と自分を比べて卑屈になってみたり、やがては「どうせこうなんだ」と開き直ったりする。「私はだめなんです」という言葉がいつしか常套句になり、時にはそれが自分を正当化するための言い訳のようにさえなる。その悪循環を繰り返すキリスト者が少なくないのです。
 しかし、神の子ども、光の子どもとして生きる、という生き方は、根本的にそのようなことを乗り越えさせられた生き方です。「神の子ども」、「光の子ども」の生き方は私たちの遙か彼方にある理想像ではなく、今すでに与えられている現実です。「愛のうちに歩め」の大前提は、「愛されている」という現実であり、「光の子どもらしく歩め」の大前提は、8節の「あなたがたは、以前は暗やみでしたが、今は、主にあって、光となりました」という現実です。すでに愛されているのだから、すでに光の中にいるのだから、だから愛されている者として愛のうちに歩もう、光の子どもらしく生きよう、そういって御言葉は私たちを招くのです。
 ですから、私たちには決断が必要です。神の御子イエス・キリストを私の救い主と信じます、という決断が必要です。それが一番決定的な決断です。しかしそればかりではない。信じた者として、救われた者として、愛された者として、日毎の決断が必要です。古い自分に引き戻そうとする力に対して、新しい衣を着せられた神の子どもとして私は生きる。私は歩む。そういう決断を朝ごとに新たにしたいと願うのです。「私はだめなんです」、「私はずっとこうなんです」と言い続ける方がいます。それは謙遜の言葉のようでいて、神さまに信頼しない頑なな言葉です。そしてその言葉を言い続けている限り、その言葉のようになってしまい、新しい歩みに踏み出すことはできません。そう言うのはもうやめよう。神さまがこの私を愛してくださっているのだから、その愛に信頼して、新しく生きよう。そう決心したいのです。
 先週の火曜日の朝、駒込にある聖学院中学高等学校の朝の礼拝で奉仕する機会がありました。約900名の男子生徒に圧倒されながら、与えられた8分間で何を語ろうかと祈り、とにかく一つのことだけを伝えようと思って語りました。そこで紹介した「像の足かせ」の話があります。人間に飼われている「象」には、逃げ出せないように足かせがついていて、それを木の杭につないでおくそうです。まだ小さい子どもの象も、からだの大きな大人の象も、その繋いである鎖も杭も同じ大きさなんだそうです。子どもの象をつないでいる鎖や杭なら、大人の象ならすぐに引きちぎったり、抜いてしまったりするのでは、と思うのですが、そんなことはないそうです。どうしてかわかりますか。子どものうちに足かせで杭に繋ぐと、なんとかして逃げ出したくて何度も何度も足かせを引っ張ってもだめ。そのうちにあきらめてしまって、結局大人になっても「どうせ引っ張っても抜けない」と思うらしく、同じ杭に繋げていても逃げ出さなくなってしまう。私たちも過去の自分に縛られて、なかなか自由になれない。あきらめてしまっている。でも聖書はそんな私たちに、未来は変えられるよ。新しい人として生きることができるよ。あきらめてはだめだよ。そんなメッセージを語ってくれているのだと伝えたのでした。

(4)愛のうちに歩む
 神に愛されている子どもらしい生き方、それは神にならう生き方だとパウロは言います。神にならう生き方。それが私たちの自由と喜びの中を生きる歩みです。これと対照的な生き方、歩み方はどのようなものでしょうか。4章17節から19節でパウロは次のように言っています。「そこで私は、主にあって言明し、おごそかに勧めます。もはや、異邦人がむなしい心で歩んでいるように歩んではなりません。かれらは、その知性において暗くなり、彼らのうちにある無知と、かたくなな心とのゆえに、神のいのちから遠く離れています。道徳的に無感覚になった彼らは、あらゆる不潔な行いをむさぼるようになっています」。かつての私たちはまさにこの「むなしい心で歩む者」でした。
 しかし今、私たちはキリストに新しい人として生き始めています。20節から24節。「しかし、あなたがたはキリストを、このようには学びませんでした。ただし、ほんとうにあなたがたがキリストに聞き、キリストにあって教えられているのならばです。まさしく真理はイエスにあるのですから。その教えとは、あなたがたの以前の生活について言うならば、人を欺く情欲によって滅びて行く古い人を脱ぎ捨てるべきこと、またあなたがたが心の霊において新しくされ、真理に基づく義と聖をもって神にかたどり造り出された、新しい人を身に着るべきことでした」。
 私たちはキリストに出会い、キリストの言葉に聴き、そして古い人を脱ぎ捨てて、新しい人をこの身に着ました。洗礼を受けたというのは、まさにこの新しい人を着たということです。こうして私たちは今、むなしい心で歩む生き方から、愛されている子どもとして、神にならう者として、愛のうちに歩む生き方へと変えられました。これが私たちの今の姿であり、またますますそのようになっていくという希望の姿です。私たちはこの御言葉の現実の中を生きる者でありたい。古い人の方へと引き戻そうとする力は絶えず私たちに働き掛けますが、しかし私たちはもはやそのような日々へと逆戻りすることはない。私を愛してやまない神の愛を疑わず、むしろ日毎にその愛を新しく受け取って、今日からの日々を歩んでまいりましょう。

 



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