宗教改革記念礼拝  2013/10/27
『詩と賛美と霊の歌とをもって』

エペソ5:19

 私たちはこの朝の礼拝を宗教改革記念の礼拝としてささげています。1517年10月31日に若き修道士マルチン・ルターが罪の赦しの権威はどこにあるのかを聖書に基づいて討論しようと呼び掛けて、95箇条の提題をウィッテンベルクの城教会の大学掲示板に掲げたことから始まった私たちプロテスタント教会の大切な原点の日です。ルターが聖書から再確認した「聖書のみ、恵みのみ、信仰のみ、キリストのみ」の大事な信仰の原点をこの朝も覚えつつ、心からの礼拝を主にささげてまいりましょう。愛する皆さんの上に、主イエス・キリストの豊かな恵みと祝福がありますように心から祈ります。

(1)信仰のかたちとしての霊性
 先週の月曜日にお茶の水のOCCで「ハイデルベルク信仰問答450年記念研究会・講演会」を開催し、無事に終えることが出来ました。三名の牧師たちで企画から準備したのですが、すばらしい講演者が備えられ、たくさんの来会者も与えられて内容のある集まりになったのではないかと思い、感謝しています。その中でも非常に感銘を受けたのが、夜の公開講演でお話しくださったハイデルベルク信仰問答の訳者でもある吉田隆先生の講演でした。その日の基調講演から三つの研究発表、それぞれについての質疑応答など全ての内容を串刺しにしてまとめ上げてくださる見事な内容で、しかも聴いていて説教を聴いているように心動かされる実に感動的で圧巻の講演でした。その中で先生が繰り返し言われたのが「霊性」ということでした。「霊性」、「スピリチュアリティ」というのは昨今しきりと耳にする言葉の一つですが、それでいて今一つ意味がよく分からない、定義しづらい言葉でもあります。先生はこの「霊性」を「信仰のかたち」と言われました。信仰の「内面のかたち」とそれが外に現れる「外面のかたち」。それらが教会の歴史の中では祈りや賛美、そして信仰問答によって作られてきたというのです。確かに教会の伝統や、個人の信仰の傾向というものがあって、それらは実際には日毎の、あるいは週毎の信仰の営みによって生み出され、養われているものと言えるでしょう。私の幼い頃の経験では、同居していた父方の祖母の祈り方と、母方の祖母の祈り方がどうしてこうも違うのかと不思議に思ったことがありました。父方の祖母は当時の植村正久の伝統を組む旧日基の流れで非常に禁欲的でストイックな信仰のかたちがあり、父方の祖母は関西のホーリネス系の流れで実に感情豊かでおおらか。そこにはそれぞれの霊性が現れていたのだな、と今にして思います。また先週の日曜日は富山県の高岡、黒部の教会に奉仕に行ったのですが、二つの教会を牧会しておられる木谷先生とのお交わりが非常に楽しく、教えられる時でした。とにかくよく祈る先生で、その祈りの姿に先生の霊性がよく現れているのです。
 私たちにもおそらく一人一人の信仰のかたち、霊性がありますし、そしてそれらの背後には一緒に礼拝に集い、御言葉を聴き、賛美をし、祈りをささげる生活を繰り返していく中で、共通に身に付いていく信仰のかたちがあるはずで、そこにはやはり徳丸町キリスト教会の霊性というものがあるのでしょう。そう言う中で今日の午後のセミナーでも新しい賛美をご一緒に歌いますが、そのような礼拝の賛美、特に「歌」というものによって新しい霊性が形作られていくのです。

(2)互いに語り、歌い、賛美する
 この朝、特に心を留めておきたいのは19節の御言葉です。19節。「詩と賛美と霊の歌とをもって、互いに語り、主に向かって歌い、心から歌い、また賛美しなさい」。この御言葉は前の18節の「酒に酔うな、御霊に満たされよ」という教えに続いて語られるもので、私たちが聖霊に満たされる歩みが、日常の生活の中でどのように具体的に形をとってあらわれるかが教えられています。ここには「互いに語り、主に向かって歌い、賛美する」という言葉が続けて出てきますが、これらはそれぞれ独立した言葉ではなく、すべてが先の18節の「御霊に満たされなさい」という一つの言葉にかかる言葉です。すなわち「互いに語りながら、主に向かって歌いながら、賛美しながら、御霊に満たされよ」というのです。こうしてみると、御霊に満たされる歩みということの一つのイメージが浮かんでくるように思います。つまり御霊に満たされていく歩みとは、互いに語りながら、歌いながらという交わりの歩み、神に向かって歌いながら歩む礼拝の歩みなのであって、まさにこうして共に集い、一緒に語り合い、歌い合いながら歩んでいく礼拝の交わり、教会の交わりによって形作られていくものだということです。
 ここには私たちの信仰の営み、私たちの霊性における教会の交わり、礼拝の交わりの決定的な重要性があります。もちろん信仰の営みにおける個人の生活、個人の祈りと御言葉、主との交わりの大切さは言うまでもないことですが、しかしそれによって決して取って代わることのできないもの、それがこうして共に集まる礼拝の交わりです。私たちの信仰の養いにおいて、一緒に集まって歌うこと、心を合わせて祈ること、共に御言葉に聴いて応答することは本質的な意味を持っているのです。私はこのことをこの10月に深く思わされました。どこの礼拝でもよいということでなく、やはりこの徳丸町キリスト教会という、具体的な群れで、皆さん一人一人の集まるこの教会で、一緒に礼拝し、祈るということが私自身の霊性に非常に大きく影響を与えるということなのです。それは決して私一人の特殊な経験ではありません。実は皆さん一人一人にとっても同じことです。確かに一週間の間でいえば非常に限られた時間と空間での経験ですが、しかしそこでの経験は皆さんが思う以上に、皆さんの霊性を形作り、それを養い、建て上げていく上で決定的な意味を持っているのです。その意味でも、ヘブル書10章24節、25節が語る御言葉をあらためて今一度しっかりと心に刻みたいのです。「また、互いに勧め合って、愛と善行を促すように注意し合おうではありませんか。ある人々のように、いっしょに集まることをやめたりしないで、かえって励まし合い、かの日が近づいているのを見て、ますますそうしようではありませんか」。

(3)詩と賛美の霊の歌とをもって
 さらに重ねて「詩と賛美と霊の歌」ということを考えます。御霊に満たされる歩みの途上で私たちが歌う歌とは何かということです。ここで「詩」と訳された言葉は「プサルモス」という言葉です。ここでの「詩」とはもっぱら旧約聖書の詩篇を指していたと言ってよいでしょう。詩篇を歌うことの意義を後の時代の教会も大切にしてきました。今日の午後のセミナーでも宗教改革者カルヴァンが詩篇を歌うことを重んじた、その意義を学ぼうと願っています。次に「賛美」と訳された言葉は「ヒュムノス」という言葉で、今でも「賛美」を指す英語の「Hymns」の元になった言葉です。新約聖書においては神を賛美することだけに用いられる言葉です。初代教会においては詩篇を歌うユダヤ教の伝統だけでなく、主イエス・キリストご自身とその御業を歌う賛美が歌われていました。ピリピ書2章6節以下のキリスト賛歌もそのような教会の賛美の一つと言われています。そして最後の「霊の歌」というものがあります。一般的な歌を示す「オーデー」という言葉に「霊」という言葉が冠せられているのですが、ある人は当時の礼拝の中で、聖霊に導かれた人が歌う即興的な賛美のことだとも言います。いずれにしても聖霊の自由の中で歌われる新しい賛美といってよいでしょう。ここに私たちは教会に与えられている賛美の多様性を見ることができるように思います。私たちの教会でも伝統的な賛美を大切に歌い継ぎながら、しかもそこに新しい歌、霊の歌の息吹をいつも感じながら歌っていく、生き生きとした礼拝を捧げていきたいと願うのです。

(4)心から歌う
 そして最後に覚えたいのは「心から歌え」という勧めです。今回のハイデルベルク信仰問答の講演会で青木義紀先生が第21問の「まことの信仰とは何か」ということについて大変興味深い発表をしてくださいました。第21問はこうです。「問:まことの信仰とは何ですか。答:それは、神が御言葉において私たちに啓示されたことすべてをわたしが真実であると確信する、その確かな認識のことだけでなく、福音を通して聖霊がわたしのうちに起こしてくださる、心からの信頼のことでもあります。それによって他の人々のみならずこのわたしにも、罪の赦しと永遠の義と救いとが神から与えられるのです。それは全く恵みにより、ただキリストの功績によるものです」。ここで信仰問答が説く「まことの信仰」とは「確かな認識」と「心からの信頼」です。この認識と信頼は切り離されるものではありません。相手を知らなければ心から信頼することはできませんし、信頼なしに相手の姿をありのままに知ることもできません。その根底にあるものは「愛」です。聖書が「知る」と言うときには単なる知識の蓄積を意味してはいません。そこでは人格的な交わり、愛の交わりが指し示されています。しかもその愛は、私の中から自然と湧き上がってくるものではなく、まさに恵みによって神が与えてくださるものです。その愛の中で私たちは主の愛を知り、主への信頼が与えられ、主を愛するがゆえに主を知ることへの熱心がかきたてられ、そうしてますます主を信頼する者へと建て上げられていくのです。
 御言葉が「心から歌え」と言うときの「心」とはまさにその主への愛に基づく人格的な信頼の出所です。宗教改革者カルヴァンも「心」を大事にする人でした。カルヴァンにとっての「心」とは、単に人間存在の一部分ということでなく、人間の全存在、存在そのものを指していました。聖書がここで「心から歌え」と勧めるとき、そこに込められた意味は、まさにこのカルヴァンが受け取ったような私たちの存在全体を込めて歌うという姿勢であったと言うことができるでしょう。
 私たちの人生に賛美がある、この恵みを感謝をもってこの朝受け取りたいと願います。賛美はまさに私たちが聖霊に満たされて日々を生きるその営みそのものです。かつて主を知る前には、私たちの生活の中には賛美はありませんでした。そして賛美を知る前の私たちの口にあったのは、つぶやき、不平、不満、愚痴、嘘、いやみ、噂話、人を傷つけ、自分を卑しめ、互いを貶める言葉でした。しかしそのような私のもとに主イエス・キリストが来てくださり、十字架による新しい命を与えてくださり、聖霊が内に住んでくださった時から、私たちの生活に賛美がもたらされました。主なる神を喜び、感謝し、楽しみ、人を生かし、励まし、慰め、建て上げる新しい心と言葉が与えられたのです。この救いの神に向かって、私の全存在を込めて賛美する。そのような人生が主イエス・キリストにあって神の子ども、光の子どもとされた私たちの歩みです。今日も生ける主イエス・キリストが、そのような新しい歌を、詩と賛美と霊の歌を私たち一人一人の口に授けていてくださるのです。

 



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