宗教改革記念礼拝 2012/10/28
『仕える教会となる』

使徒の働き11:27-30

 私たちはこの朝の礼拝を、宗教改革記念の礼拝としてささげています。宗教改革の教会が掲げた言葉の一つに、次のような言葉があります。「御言葉によって改革される教会は、常に改革され続けなければならない」。私たちが毎年、この記念の礼拝を捧げるのは、過去の歴史を顧みるだけの後ろ向きのことではありません。むしろ私たちが神の国の完成に向かう道のりの途上にあることを覚え、未完成ながらも前に向かって進み、絶えず御言葉によって新しく作り替えられ続けていくためです。
 この朝、御前に招かれているおひとりひとりの上に主の祝福があるように祈りつつ、私たちが聖霊によって導かれて、柔らかな心と、へりくだった思と、自らを変えていただくことを求める祈りの中で、主の御言葉に聴いてまいりたいと願います。

(1)教会とは何か
 教会は「エクレシア」すなわち「呼び集められた群れ」と言われます。では私たちは何のために呼び集められたのか、その意味を尋ねてみるのは意味ある作業でしょう。結論から言えば、私たちが招集されたのは、派遣されるためということです。このことは主の日の礼拝を考えてみればよくわかることです。私たちが主の日ごとに生ける神の御前に呼び集められ、賛美を捧げ、祈り、御言葉に聴き、聖礼典にあずかり、献金を捧げ、そして祝福を受けて派遣されていく。それが単なる反復ではなく、創造から終末へと向かう神の救いの歴史の最先端にあって、一回きりのかけがえない出来事として行われ、そうして呼び集められた神の民としての教会、主の弟子たちの共同体である私たちが遣わされていくところに神の国は拓かれていく。私たちの全生活の全領域が、生ける神の全面的な支配と統治の中にあってなされる「派遣された者」としての生であることを、主の日の礼拝は意識的・集中的にあらわしているのです。
 先週の礼拝で、神田英輔先生を通して主イエスの福音の中心が「神の国」にあることをあらためて学びました。マタイ福音書には主の弟子たちの招集と派遣の姿が印象深く描かれていますが、4章17節で「この時から、イエスは宣教を開始して、言われた。『悔い改めなさい。天の御国が近づいたから』」と宣言されて宣教の生涯を開始された主イエスは、その後ただちに18節から22節でガリラヤの漁師であったペテロとアンデレ、ヤコブとヨハネに「わたしについて来なさい」と呼びかけられ、自らの弟子となさいました。そして彼ら弟子たちを呼び集められた後に、ご自身の宣教の使命を果たし始められました。マタイ福音書4章23節にこう記されるとおりです。「イエスはガリラヤ全土を巡って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、民の中のあらゆる病気、あらゆるわずらいを直された」。
 さらに9章に入ると、今度はあらためて主イエスの果たされる包括的・全人的な福音宣教の姿が描かれます。9章35節、36節。「それから、イエスは、すべての町や村を巡って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、あらゆる病気、あらゆるわざわいをいやされた。また、群衆を見て、羊飼いのない羊のように弱り果てて倒れている彼らをかわいそうに思われた」。この主イエスの包括的・全人的な宣教の姿が示されたのに続いて、37節、38節で「そのとき、弟子たちに言われた。『収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫の主に、収穫のために働き手を送ってくださるように祈りなさい』」とさらなる働き人を求める祈りの要請がなされ、そして10章1節では、主イエスによる弟子の派遣が行われるのです。「イエスは十二弟子を呼び寄せて、汚れた霊どもを追い出し、あらゆる病気、あらゆるわずらいをいやすためであった」。ここには、主イエスが身をもって提示された宣教の業に参与するために、主の弟子たちが召命を受け、招集され、委託され、派遣されていくという一連の動きがあることがわかります。そしてここに、今日の教会のあり方を考える大事なモデルが示されていると考えられるのです。
 御子イエスは聖霊によって内住されることによって、私たち肉なる存在を通して今、ご自身の御業を果たされ、また地上の教会を通してご自身の御心を実現なさろうとしておられます。すなわち御子イエス・キリストは聖霊によって今、教会という形態をとって働いておられるのであって、教会はまさにこの生きておられるキリストに直結し、キリストに与り、キリストのしもべの姿に従って仕える存在とされているのです。

(2)コイノニアとしての教会
 ここから私たちはキリストにあずかり、参与する教会の姿、コイノニアとしての教会の姿を教えられていくことになります。今年の主題である「交わり」について、この一年の間にも繰り返し学んできましたが、あらためてここでおさらいをしておきます。新約聖書において「コイノニア」は19回用いられて、「交わり」、「参与」、「援助」、「施し」などと訳されています。さらにはここから「分け前にあずかる」、「交わりを持つ」、「参与する」、「参加する」、「協力する」、「助ける」、「援助する」などを意味する動詞の「コイノーネオー」、「喜んで分け与える」を意味する形容詞の「コイノーニコス」、「仲間」や「友」とも訳される名詞の「コイノーノス」といった語が使われています。こうして見ると新約聖書における「交わり」とは、単なる人間同士の付き合いや交流、お互い同士の繋がりというものでなく、一つのものを共有している状態、一つのものにともに参与し、それによって互いが繋がっている状態、そこから受けるものを互いに分かち合っている状態をさしていると言えるでしょう。
 この「コイノニア」の用法から見えてくる聖書における「交わり」の姿を考える際に、今日与えられている使徒の働き11章の終わりに出てくるアンテオケ教会の姿は、大事なことを私たちに教えてくれていますが、その前に、それと関わりの深いローマ15章26節を見ましょう。「マケドニア州とアカイア州の人々が、エルサレムの聖なる者たちの中の貧しい人々を援助することに喜んで同意したからです」(新共同訳)。ここには教会の交わり、コイノニアの持つもう一つの大切な側面が記されています。すなわち教会の交わりがキリストを中心とするというときに、それが自分たちの内側に向かうことを意味してはおらず、むしろ他者を助け、援助し、協力するという外側に向かった開かれたものであり、他者に仕える奉仕的な働きであるということです。ここで新共同訳聖書が「援助」と訳し、新改訳聖書が「醵金」と訳すのが「コイノニア」ですが、そこでは援助する側と援助を受ける側が「与え手」と「受け手」という、ともすると上下関係のような関係になりかねない関わりが、むしろキリストにあるがゆえの交わりの関係であることが表現されているのです。そこでは与え手は単に与え手に終始することなく、受け手もいつまでも受け手に終始することはなく、互いの関係が固定化することはありません。与える側も受ける側もそこでは互いが主イエス・キリストを通し「交わりの恵み」に与っているのです。

(3)仕える教会となる
 使徒の働き11章には、最初の異邦人教会であるアンテオケ教会の誕生と、その直後にユダヤ地方を大飢饉が襲った際に、アンテオケ教会がどのように振る舞ったかが印象深く記されています。27節から30節。「そのころ、預言者たちがエルサレムからアンテオケに下って来た。その中のひとりでアガボという人が立って、世界中にききんが起こると御霊によって預言したが、はたしてそれがクラウデオの治世に起こった。そこで、弟子たちは、それぞれの力に応じて、ユダヤに住んでいる兄弟たちに救援の物を送ることに決めた。彼らはそれを実行して、バルナバとサウロの手によって長老たちに送った」。ここで「救援の物」と訳される言葉は、他の所では「援助」とも訳される言葉で、基本的には奉仕を意味する「ディアコニア」という言葉です。アンテオケ教会はその始まりの当初から仕える教会、捧げる教会、援助する教会、ディアコニアの教会であったということです。そしてそのようにしてエルサレム教会に仕えながら、その教会とともに主にある一つの公同の教会としての交わりを形作る交わりの教会、コイノニアの教会でもあったのでした。このディアコニアとコイノニアの切り離すことのできない確かな結びつきを、この朝、私たちもしっかりと学び取っておきたいのです。
 彼らアンテオケ教会のディアコニアの姿から幾つかのことを学びたいと思うのですが、まず第一にそれが迅速な奉仕であったということ、第二にそれが自発的な奉仕であったということ。第三にそれがそれぞれの力に応じた奉仕であったということ、第四にそれが個人の働きとしてでなく、教会の業としてなされた奉仕であったといこと、そして最後に第五として、それがキリストのからだの全体のための奉仕であったという点です。彼らアンテオケ教会はクリスチャンとして歩み出して数年、教会として形成され始めてもいまだ一年足らずの群れです。しかし彼らはその間に実に豊かで確かな教会観、宣教観を身につけ、大胆かつ迅速に、教会のコイノニアに与り、ディアコニアの業に進んで励んでいきました。しかもそうすることは当然であるかのような自然なしなやかさです。アンテオケとエルサレム、直線でも約五百キロ、殆どの教会のメンバーがまだ行ったことも会ったこともないエルサレム教会のために、決して豊かではない中から喜んで、自然に、当然のように捧げていく教会の姿に大いに慰められ、励まされるのです。教会の本当の豊かさは、この見えない一つのキリストのからだを担っているという事を具体的に示す営みの中に表されて行くのです。
 大きく豊かな教会のコイノニアに与る群れとして、捧げること、送り出すこと、遣わすこと、生み出すこと、支えること、仕えることに豊かに富むディアコニアの群れとして進んでいきたいと、この朝私たちは願い祈りたいのです。今私たちの手にあるものを差し出す時、主はそれを豊かに用いてくださる生ける真実なお方です。私たちの差し出すものはさながら、あの少年が主イエスに差し出した小さな魚五つと二つのパンのようなものかもしれません。けれども私たちたちはいつでも主の御心に信じ従うことにおいて、そして主イエスが仕える者となってくださったように、私たちもまた互いに仕え合い、そしてこの世界に仕える者となることにおいては、志しを高く持つ群れとして歩んでいきたいのです。そしてそのことによってこの町にある人々から「あそこにキリスト者がいる」、そう名指しされるような存在感をもってこの地に仕えていく教会となるために、愛に満たされ、喜んでその愛を分かち合う、ディアコニアの教会、仕える教会となっていきたいと願います。

 



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