宗教改革記念礼拝 2009/10/25
『詩と賛美と霊の歌で』

エペソ5:15-21

 今年も宗教改革を記念する礼拝を献げる朝を迎えました。いつも確認させられることですが、ルターやツウィングリ、カルヴァンといった改革者たちは、「宗教」を改革しようとしたわけではありません。彼らの願ったことは神の御言葉に基づいて福音の信仰を取り戻すことであり、その信仰に即した礼拝を献げることであり、その信仰に立った教会を建て上げることでした。私たちもこの信仰復興、礼拝改革、そして教会改革としての宗教改革の意味を覚えながら、特に今朝は「賛美」ということに焦点を当てて、御言葉から教えられていきたいと思います。

(1)聖霊に満たされて
 この朝、開かれているエペソ人への手紙5章は、父なる神の自由な恵みのうちに選び出され、御子イエス・キリストの十字架の贖いによって罪赦され、神の子どもとされた者たちの生き方について教えられているところです。1節では「ですから、愛されている子どもらしく、神にならう者となりなさい」、8節では「あなたがたは、以前は暗やみでしたが、今は、主にあって、光となりました。光の子どもらしく歩みなさい」と教えられて、神の子どもたちが、この神にならって、光の子どもらしく生きるように勧められています。この勧めを受けて、具体的に神の子ども、光の子どもとして生きるための指針を示すのが今日の御言葉ですが、そこではまず17節で「主のみこころは何であるかを、よく悟りなさい」と勧められ、そしてそれらの結論として18節で「御霊に満たされなさい」と教えられるのです。神の子どもたちの生き方、それは御霊に満たされた生き方である。これが聖書の示す大切な教えです。この御霊、すなわち聖霊に満たされる生活を指して、教理の言葉で「聖化」といいます。つまり私たちの生活全体がもはや闇の中にある罪の奴隷のような生き方でなく、父なる神の愛の光に照らし出された光の子ども、神の子どもとしての生き方なのです。
 「聖化」と聞くと、何か特別な聖人のような、浮世離れしたような姿をイメージする方があるかもしれません。しかし私たちが光の子、神の子として生きるのは他ならぬ私たちそれぞれの日常においてであり、聖化とは言い換えれば私たち一人一人の生活そのものなのです。ちょうど数週前の夕拝でも学んだことですが、聖書における「聖」という考え方には、「切り離される」、「取り分けられる」という意味があります。私たちが聖霊に満たされて生きるとは、一方ではこの世から切り離され、取り分けられて、神の聖さにあずかって生きることです。しかし他方では、私たちが毎主日の礼拝から派遣されてそれぞれの日常の生活に向かっていくように、それぞれが生かされている場所において神の聖さを証しして生きていくのです。この日常、当たり前のことの繰り返しのように思える日常、日々、つらさや困難、様々な不安や重荷を担いながら生きる日常のただ中において、しかし神がともにおられ、神が私たちの人生をすでにご自身の御支配のもとにおいていてくださる。だからこそどんな困難のただ中におかれても、なお絶望することなく、顔を天に向けて朗らかに歩んでいくことができる。これが神の子どもたちに与えられている御霊に満たされた歩みの現実なのです。

(2)詩と賛美の霊の歌で
 この朝、特に心を留めておきたいのは19節の御言葉です。19節。「詩と賛美と霊の歌とをもって、互いに語り、主に向かって歌い、心から歌い、また賛美しなさい」。ここでは聖霊に満たされる私たちの歩みが、日常の生活の中でどのように具体的に形をとってあらわれるかが教えられています。ここには「互いに語り、主に向かって歌い、賛美する
という言葉が続けて出てきますが、これらはそれぞれ独立した言葉ではなく、すべてが先の18節の「御霊に満たされなさい」という一つの言葉にかかる言葉です。すなわち「互いに語りながら、主に向かって歌いながら、賛美しながら、御霊に満たされよ」というのです。こうしてみると、御霊に満たされる歩みということの一つのイメージが浮かんでくるように思います。つまり御霊に満たされる歩み、聖化の歩みというのは、ひたすら聖さを求めて、あらゆる邪念、雑念を捨てて一人孤高の道を行くというのではなく、互いに語りながら、歌いながらという交わりの歩み、神に向かって歌いながら歩む礼拝の歩みという、ある種の明るさに包まれた歩みであるということなのです。そこで思い起こすのは、「歌いつつ歩まん」という聖歌です。「主にすがる我に悩みはなし。十字架の身許に荷を下ろせば。歌いつつ歩まん、ハレルヤ、ハレルヤ。歌いつつ歩まん、この世の旅路を。主の御約束に変わりはなし。身許に行くまで支えたまわん。歌いつつ歩まん、ハレルヤ、ハレルヤ。歌いつつ歩まん、この世の旅路を」。主の御約束に支えられて、この世の旅路を歌いながら歩んでいく。私たちが歌う賛美は、まさに御霊に満たされながら、天の御国を目指してこの世の旅路を歩む巡礼の歌なのです。
 ここで「詩と賛美と霊の歌」ということを考えておきたいと思います。御霊に満たされる歩みの途上で、私たちは何を歌うのか、ということです。ここで「詩」と訳された言葉は「プサルモス」という言葉です。英語で詩篇のことを「Psalm」と言いますが、もともとは「弦楽器の伴奏のついた歌」という意味であったと言われます。よく詩篇には「竪琴をかき鳴らせ」、「弦楽器にあわせて」という表現が出てきますが、今日風に言えばギターに合わせて歌うことにも当てはめることができるでしょうか。しかしとにかくここでの「詩」とはもっぱら旧約聖書の詩篇を指していたと言ってよいでしょう。詩篇を歌うことの意義を後の時代の教会も大切にしてきました。今日の礼拝でも詩篇を歌い、このことの意義を覚えたいと願っています。次に「賛美」と訳された言葉は「ヒュムノス」という言葉で、今でも「賛美」を指す英語の「Hymns」の元になった言葉です。新約聖書においては神を賛美することだけに用いられる言葉です。初代教会においては詩篇を歌うユダヤ教の伝統だけでなく、主イエス・キリストご自身とその御業を歌う賛美が歌われていました。ピリピ書2章6節以下のキリスト賛歌もそのような教会の賛美の一つと言われています。そして最後の「霊の歌」というものがあります。一般的な歌を示す「オーデー」という言葉に「霊」という言葉が冠せられているのですが、これが何を意味するのかはいろいろな説があるようです。ある人は詩篇のように神の霊感をともなって記された神の御言葉に基づいて作られた歌のことだと考えます。またある人は当時の礼拝の中で、聖霊に導かれた人が歌う即興的な賛美のことだとも言います。いずれにしても聖霊の自由の中で歌われる新しい賛美といってよいでしょう。ここに私たちは教会に与えられている賛美の多様性を見ることができるように思います。私たちの教会でも伝統的な賛美を大切に歌い継ぎながら、しかもそこに新しい歌、霊の歌の息吹をいつも感じながら歌っていく、生き生きとした礼拝を捧げていきたいと思います。

(3)主に向かって、心から歌え
 次に考えたいのは、私たちは詩と賛美と霊の歌をどのように歌うのか、ということです。そこでヒントとなるのはやはり「互いに語り、主に向かって、心から歌え」という御言葉の勧めです。ここでは上手に歌え、きれいに歌えとは言われていません。皆さんの中にも賛美は苦手、と言う方があるかもしれません。確かに歌うということについての得手不得手があるでしょう。しかしここではそれらのことは問題にされていません。牧師は伴奏のない集会でも賛美をリードしなければなりませんから、それなりに歌う訓練を受けなければなりませんが、それでも牧師がみんな、音楽の素養がある訳ではありませんし、音痴だから牧師になれないということもありません。大切なことは、賛美が御言葉の教えに沿って歌われることなのです。そこでまず「互いに語り、主に向かって」ということを考えたいと思います。ここで「歌う」でなく「語る」と言うところが重要です。賛美は当然のことながら主に向かって捧げられるものであり、人に聞かせることが主たる目的ではありませんが、しかし実際には賛美において、そこで歌われる言葉、歌う人の信仰が、それを聞き、心を合わせる人々に働きかけ、さらにその人々の信仰を引き上げるという役割があるでしょう。互いに語るとは、そのようにして互いを主の御前に整え、引き上げるような賛美の姿を表しているといえるのです。ですから賛美は、歌っている私一人だけがわかっているというような自己満足の世界ではありません。そこで主に向かう心とともに、絶えず「互いに」対する心が必要なのです。
 次に「心から歌え」という勧めも重要です。今日の週報に宗教改革者カルヴァンの紋章のカットを載せて、「牧師室だより」でそのことを紹介しました。カルヴァンにとっての「心」とは、単に人間存在の一部分ということでなく、人間の全存在、存在そのものを指していました。聖書がここで「心から歌え」と勧めるとき、そこに込められた意味は、まさにこのカルヴァンが受け取ったような私たちの存在全体を込めて歌うという姿勢であったと言うことができるでしょう。私たちの生活の中に賛美がある、このことの意味をあらためてこの朝、主の御前にあって深く思いめぐらしたいと思います。賛美は決して歌うことだけに限定されるものではありません。歌は賛美を担う重要な器の一つですが、しかし賛美そのものは、まさに私たちが聖霊に満たされて日々を生きるその営みそのものとさえ言うことができる大きく豊かな営みです。かつて賛美を知る前は、私たちのうちに出てくるのはつぶやき、不平、不満、愚痴、嘘、いやみ、噂話、人を傷つけ、自分を卑しめ、互いを貶める言葉でした。しかしそのような私のもとに主イエス・キリストが来てくださり、十字架による新しい命を与えてくださり、聖霊が内に住んでくださった時から、私たちの生活に賛美がもたらされました。神を喜び、感謝し、楽しみ、人を生かし、励まし、慰め、建て上げる新しい心と言葉が与えられたのです。この救いの神に向かって、私の全存在を込めて賛美する。そのような人生が主イエス・キリストにあって神の子ども、光の子どもとされた私たちの歩みです。今日も生ける主イエス・キリストが、そのような新しい歌を、詩と賛美と霊の歌を私たち一人一人の口に授けていてくださるのです。「主よ、主の愛をば、いかにほめまつらん。うたうとすれども、言の葉知らぬ身、あめなる御歌を、わが口にたまえ」。主の大いなる愛を覚えて、このように大きな声で心から賛美いたしましょう。

 



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