宗教改革記念礼拝 2008/10/26
『罪の赦しの権威』

Iヨハネ1:1-10

 宗教改革を記念する朝を迎えました。いうまでもなく、宗教改革は私たちプロテスタント教会の始まりとしての大きな意味を持ちますが、その意味するものの中身が何であったのかは、その出来事を問い直し、そこから教えられ続ける姿勢を持たなければ受け継がれていかないものです。私たちは、日頃から教会として歴史を意識する姿勢、特に神が支配される創造から終末までの歴史の中で、今の時をとらえる姿勢を大切にしていますが、その時の中で、その時代に生きた教会から学び続け、教えられ続ける群れでありたいと思うのです。そこでこの朝は、宗教改革の教会が御言葉から再確認した大切な原理の一つである「罪の赦し」ということについて、ともに教えられていきたいと思います。

(1)罪の赦しの権威を巡って
 宗教改革が今からおよそ500年前の1517年10月31日、マルチン・ルターがウィッテンベルクの城教会の扉に九十五箇条の提題を掲げたことから始ったことは、よく知られた世界史的な出来事ですが、それが何を意味するものであったのかは少々説明が必要です。ルターが九十五箇条の提題を貼り出すことになった直接の理由は、当時のローマ・カトリックが行っていた「贖宥」という制度への疑問でした。カトリック教会においては罪の赦しの権威は教会が独占的に持っており、罪を悔い改める「悔悛」は私たちの洗礼や聖餐と同じ秘跡の中に数えられていました。そこで悔悛の秘跡とはどのようなものであったのかを簡単に申し上げると、信徒はまず自分の犯した罪について心から悔やむこと、次に、その罪を司祭の前で告白すること、これがいわゆる「懺悔」と呼ばれるものです。そして司祭からその罪の赦しの宣告を受けた後、罪を償うために教会が定めた善行を行うこと、この三つが求められていました。ところが問題はこの最後の償いの部分で、これを十分に行うことができなかった場合に、教会が持つ聖人たちの余分の功績を分け与えられる「聖人の通功」と呼ばれる制度があって、その余分をもらって償いを完了させるということが行われていました。それがだんだんと時を経るにつれて変化していき、教会に多額の寄付をして罪の赦しを買い受けるということが始まっていったのです。
 こうしてついにルターの時代には財政難に陥った教会の現状打開策として、まさに罪の赦しを売る御札、「贖宥状」あるいは「免罪符」といったほうが馴染みがあるかも知れませんが、とくにかくこれの販売に積極的に乗り出すようになっていったのです。こうして各地に贖宥状販売のための説教者が遣わされ、民衆たちの中で売りさばかれていきました。これに対して当時一介のカトリック修道士に過ぎなかったルターが、この制度の問題を鋭く見抜き、しかもそれが聖書に何の根拠も持たないことであることを取り上げて正式な論争を挑んだのが、あの九十五箇条の提題だったのです。ルターはその第二十七項で、「お金が箱の中に投げ入れられてチャリンと鳴るや否や、魂は煉獄から飛び出るという者は、人間の教えを説いているのである」と痛烈に贖宥制度の問題点を指摘しています。まさに罪の赦しの権威を教会が独占したときに、このような歪んだ制度が生み出されることになってしまったのでした。

(2)罪の赦しと救いの恵み
 そもそも聖書は罪の赦しについてどのように語っているのでしょうか。実際に聖書を繙くと、そこにたくさんの御言葉を見出すことができるのですが、今朝は毎週の礼拝の赦しの宣言で読まれる第一ヨハネの御言葉をあらためて心にとめたいと思います。特に7節と9節をお読みします。7節。「しかし、もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます」。続いて9節。「もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます」。ここでまずハッキリとしていることは、罪の赦しはまったくただ御子イエス・キリストの十字架によってのみなされるという事実です。私たちの罪が赦されるのは、私の悔い改めの深さや、償いの多さ、司祭の力や聖人の功徳、その後の生き方の正しさ、積み上げた善き業などには一切よらない。ただひたすら、御子イエス・キリストがあのゴルゴダの十字架の上で、『父よ、彼らをお赦しください』と祈ってくださり、私たちの全ての罪をその身に担い、呪われた者となって私たちの罪のための裁きを引き受けてくださり、身代わりの死を遂げてくださった、あの十字架の贖いによるのです。そして罪の赦しを受け取るのもまた、ただ私たちが自分の罪を言い表すことによってであって、父なる神の真実さのゆえ、正しさのゆえに、私たちの罪を赦し、御子イエス・キリストの贖いのゆえに、もはや私たちの罪を認めず、義なる者と認めてくださり、神の子どもとしてくださり、聖なる者としてくださる。これが聖書の教える罪の赦しと救いの恵みなのです。
 この罪の赦しと救いの恵みとの関わりは、私たちが信仰の道を歩んでいくときの一つの大事なポイントとなるところです。しばしば私たちは自分の罪の問題に自分で解決を付けて、それから救いの中に、信仰の道に進むのだと考えてしまいがちです。自分の積み残したままの問題に決着を付け、身辺整理をして、そうしてようやく主イエスのもとに行くことができると考えてしまうのです。それで、信仰へのお導きをする際にしばしば耳にするのが「まだまだ、自分のような者では救われるには早い」とか「もう少し、生き方が変わってから」とか「正しい生き方ができるようになってから」という言葉です。けれどもぜひそのような考えをあらためていただきたいのです。自分で自分の罪の解決をし、犯した罪の償いをしてから、というとき、本当に私たちは自分でそのような解決、償いができるのでしょうか。むしろそうすることのできない自分、願いつつも正しく生きられない自分、分かっていても同じ罪、過ちを繰り返してしまう自分、そういう自分と向き合い、そこで自分自身に対する絶望を感じ、救い主のもとに救いを求めなければならないのではないでしょうか。主イエスは私たちに、正しくなってから、罪の決着を付け、償いをしてからわたしのところに来なさいとは決して仰らないのです。では主イエスは何と言われたでしょうか。ルカ福音書5章31節、32節をご覧ください。「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招いて、悔い改めさせるために来たのです」。また同じルカ19章10節。「人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです」。教会は罪人の集まりであり、しかも罪赦された罪人の交わりです。決して正しい聖人たちの集まりではありません。むしろ本当に自分の悲惨さ、無力さを知り、救い主が必要であることを認め、主によって招かれ、見出された者たちの集まり、それが教会の姿なのです。

(3)罪の赦しと万人祭司
 このことから、罪の赦しの権威は主イエス・キリストにあり、またそれは主にあって互いに与え合うものでもあると言えるです。先ほどの7節に「しかし、もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます」とあり、「互いに交わりを保ち」という言葉が出て来ます。宗教改革の三大原理として知られる言葉に「聖書のみ」、「信仰のみ」、「万人祭司」という言い方があります。実際にはいろいろな組み合わせ、表現の仕方があるのですが、一つの言い方とこのような組み合わせを挙げることができるのです。そこで特にこの朝、罪の赦しの権威との関わりで覚えておきたいのが最後の「万人祭司」という言葉です。全ての信仰者は神の御前に祭司である。これもまたルターが聖書から学び取った教えに基づくものですが、当時のローマ・カトリックの聖職者と信徒を上下関係に分け、聖職者の中にも段階を作る、いわゆる「聖職位階制度」(ヒエラルキー)を批判し、神の御前にはそのような上下関係や段階はなく、すべての人は神の御前に同じであるとするものでした。ですのでプロテスタント教会においては、基本的に牧師と信徒の上限関係はありません。ただそれぞれに委ねられた務めの違いを重んじ、その務めのゆえに互いに尊敬を払い合うという関係になっているのです。
 さて、この万人祭司ということは、そのように神の御前にすべての者が祭司であるということなのですが、それは直接にはまさに今日の主題である罪の赦しの権威と関わっているということを覚えておきたいと思います。単なる平等の教えということでなく、誰もが直接に、主なる神の御前に祭司として自らの罪の赦しを受け取ることができるばかりでなく、同時に互いの罪の赦しのためにもとりなし合うことができるということなのです。ここに教会の交わりの一つの姿、兄弟姉妹たちの共同体である教会の姿を見出すことができるのではないでしょうか。そのように考えるとき、このヨハネ1章7節の「互いに交わりを保ち」という言葉が意味するものの輪郭がはっきりとしてくるように思います。つまり、ここでの「互いの交わり」とは具体的に言えば、互いに自分の罪を兄弟姉妹の誰かの前で告白し、その赦しのためにとりなし祈ってもらう、というそのような交わりの姿です。スイス、チューリヒの宗教改革者ハインリヒ・ブリンガーという人の書いた『第二スイス信仰告白』という文書の中に次のような言葉があります。「祭司的告白および罪の赦し」という条項です。「われわれは、ただ神にのみなされる真実の告白であれば、個人的に神と罪人との間における告白であれ、一般的な罪の告白が唱えられて公に教会堂で行われる告白であれ、それで十分であって、罪の赦しを得るために司祭の耳にささやいて罪を告白し、それと引き換えに司祭に手を置いてもらって罪の赦免を受ける必要案はないと信じる。なぜなら、聖書にはそのようなことについてのいかなる命令も例証もないからである。・・・しかし、罪の重荷に押しひしがれ、惑乱させる試みに圧倒された人が、あるいは教会の仕え人に、あるいは神のおきてをよく知る兄弟に、個人的に、助言と教訓と慰めを求めたとしても、われわれはそれを非難しない。またわれわれは教会堂において、また聖なる集会においてなされる通常の罪の告白には、それが聖書にかなったものである限り、当然、賛同する」。
 これはよく味わっていただきたい言葉です。確かに兄弟同士で罪を告白し、とりなし祈り合うことはなかなかすぐにできるものではありません。本当に互いが福音の中に立ち、真の意味での赦しの恵みの中に生きていなければ、誰かに罪を言い表すことも勇気の要ることですし、それを聞く側も、大きな重荷を担い、時には躓きすら起こりかねないことになるからです。けれども敢えて、この朝、罪の赦しの権威ということを申し上げたのは、主イエス・キリストによって罪赦された恵みと喜び、その自由を味わった者が、また兄弟姉妹の互いの間の罪の告白を担い合い、赦しのためのとりなしの重荷をも担い合うことができると信じるからであり、また私たちの教会が真の意味で罪赦された交わりとして、互いに罪を告白し、赦しを受け取り合う交わりへと深められていきたいと願うからなのです。 9節。「もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます」。この御言葉を日々新しく受け取り続けるために、「子よ、あなたの罪は赦された」との主の御声をいつも聞き続け、互いに悔い改めを促し合い、そのようにして罪の赦しの恵みを分かち合う群れとして、なお進んでまいりたいと願うものです。

 



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