宗教改革記念礼拝 2007/10/28
『歌い、聴き、祈る教会』

ヘブル書13:14-15

 この朝、私たちは宗教改革を記念する礼拝としてこの朝の礼拝を捧げています。宗教改革は、今から490年前の1517年10月31日、マルチン・ルターがウィッテンベルクの城教会の扉に九十五箇条の提題を掲げたことから始った大きな出来事です。宗教改革とは様々な側面を持つ世界史上の一大現象ですが、特にこの朝は、宗教改革の本質を真の神礼拝の改革、回復と位置付けて、御言葉に教えられている主の教会の姿を見つめておきたいと思います。

(1)歌う教会
今朝、ヘブル書13章の御言葉が開かれています。ヘブル人への手紙は、幾多の迫害や困難の中で信仰を守り続けるユダヤ人キリスト者たちに、旧約聖書で約束された救いを完成し、成就してくださる真の大祭司イエス・キリストの姿を示すことによって励ましと力を与える書物ですが、終わりの13章では彼ら信仰者たちへの具体的な勧めが記されるところです。ここでは特に14節から19節までの御言葉に注目しながら、真の教会の姿を「歌う教会、聴く教会、祈る教会」という三つの姿にまとめて学びたいと思います。14節、15節。「私たちは、この地上に永遠の都を持っているのではなく、むしろ後に来ようとしている都を求めているのです。ですから、私たちはキリストを通して、賛美のいけにえ、すなわち御名をたたえるくちびるの果実を、神に絶えずささげようではありませんか」。
 私たちの礼拝の姿とはどのようなものでしょうか。ヨハネ福音書4章24節で主はこう言われました。「神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません」。またパウロはローマ書12章1節で「あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です」と語ります。私たちの礼拝は、単なる儀式や形式を行うということではありません。そこでは生ける真の神に向かい、霊とまことの礼拝が、私たち自らを差し出す献身の礼拝がささげられているのです。そのことを最も良くあらわしているのが、ヘブル書13章15節で「賛美のいけにえ、すなわち御名をたたえるくちびるの果実を絶えず神にささげようではありませんか」という言葉です。この朝の礼拝ではルターのコラールやカルヴァンの詩篇歌など宗教改革時代の賛美を歌いました。宗教改革とは、第一に礼拝において皆が心を合わせ、声を合わせて力強く高らかに神を賛美する、そのような礼拝の改革であったと言えるのです。中世までの教会では会衆が皆で賛美をすることはありませんでした。その時代には非常に優れた教会音楽が作られたのは事実ですが、それらはもっぱら教会の聖職者階級の中で用いられたもので、信仰者一人一人の口に賛美が口ずさまれることはなかったのです。しかし、宗教改革者たちは、礼拝においてキリストが賛美され、神が大いにほめたたえられることを重視しました。ルターは民衆たちが親しんでいた一般の歌に賛美の歌詞を載せて歌うことを広めましたし、カルヴァンは、素朴で力強い旋律を用いて人々が詩篇を歌うことを大いに奨励したのです。そこでは技巧の上手下手でなく、皆が主をたたえる賛美を歌うことによって自らを主に差し出すことこそが、神に受け入れられる真の礼拝であると言う確信があったのです。私たちもまた、御名を心から大いに賛美する教会でありたいと願います。一人一人が自分の声で力強く、主の御名をほめたたえる。そのような賛美に溢れた歌う教会でありたいと思うのです。

(2)聴く教会
続いて第二のことは御言葉に聴く教会ということです。17節。「あなたがたの指導者たちの言うことをよく聞き、また服従しなさい。この人々は神に弁明する者であって、あなたがたのたましいのために見張りをしているのです。ですから、この人たちが喜んでそのことをし、嘆いてすることにならないようにしなさい。そうでないと、あなたがたの益にならないからです」。ヘブル書の著者は手紙の締め括りに、御言葉を語る教会の指導者たち、牧師や長老たちの言葉によく聴くようにと勧めます。それはあなたがたの益になるからだというのです。教会が指導者たちの言うことを聞き、従えと命じるとき、そこでは彼らが語る言葉が神の言葉に裏付けられた言葉であり、また神の言葉の説き明かしであることを意味していました。そしてそのような神の言葉の仕え人たちを通して語られる言葉に聴くことによって、一人一人は魂の養いを受け、神の恵みと祝福の大いなる益にあずかることができるのです。ですからそこで語られる言葉は絶えず神のことばを媒介としているのであって、それなしにただ人間の声に聴き従えということでは決してないのです。しばしば開く御言葉ですが、パウロが語った御言葉をあらためて見ておきましょう。Iテサロニケ2章13節。「あなたがたは、私たちから神の使信のことばを受けたとき、それを人間のことばとしてではなく、事実どおりに神のことばとして受け入れてくれたからです。この神のことばは、信じているあなたがたのうちに働いているのです」。
宗教改革は、まさに教会の営み、礼拝の営みの中心に神の言葉を据え、神の言葉にのみ聴き従う教会を打ち立てる働きであったと言えるでしょう。中世のカトリック教会の礼拝では神の言葉は沈黙していました。聖書の朗読はありましたが、それは会衆たちの大半が理解することの出来ない外国語、ラテン語での朗読でしたし、その説き明かしである説教もありません。会衆は目の前で繰り広げられる式典をただ眺めているだけであったと言えるのです。けれども宗教改革の教会は、礼拝に神の言葉を取り戻しました。ツウィングリは講壇の上に聖書を広げるとマタイ福音書1章1節から順々に説教を語り始めましたし、ルターもカルヴァンもその生涯をかけて毎日のように聖書から説教し、講義をし、注解書を記し、ひたすら神の言葉を語ったのであり、今日の午後に学びますが、特にカルヴァンは教会の秩序を整える働きに力を注ぎましたが、それは言ってみれば語られた神の言葉がよく聴き取られ、それに従う教会を整える働きであったにほかならないのです。
 これは今日の私たちの課題でもあるでしょう。私たちは今一度「聴く教会」としての姿勢を問われているように思います。先日、家内が学校で聞いてきた話だといって教えてくれたのですが、学校公開の参観日に学校から私語を慎むようにという注意があったそうです。それは子どもたちへの注意ではなく、親たちへの注意だったと聞いて驚いてしまいました。実際に授業の様子を見に来ている親たちの中に私語が多く、授業に支障を来しているというのです。私たちは今こうして礼拝に集い、神の言葉の説き明かしである説教を聴いています。礼拝中に公然とおしゃべりをする人はいないかもしれません。けれどもこの朝改めて皆さんに問いかけたいのです。私たちは本当に聴いているでしょうか。私たちが信じ従うべき神の言葉として聴いているでしょうか。先日ある説教集を読んでいてこういうくだりに出くわしました。「私たちがなかなか聞き取れないのは、私たちにおしゃべりがあるからです。それは口に出さなくても、声にならないおしゃべりをしているのです。もっとひどい言葉で言えば、文句を言っている。頬を膨らませて言いつのっている。『でもねえ。そんなこと言ってもねえ』と私たちの心の中には絶えずつぶやきの形でおしゃべりがあるのです」。とても鋭い指摘だと思います。こういう言葉が語られているまさにその時にも「でも」という声が出ているのではないでしょうか。私たちは神様に願い、訴え、要求し、時には文句さえ口にする。でも神様の言葉を本当に黙して聴くと言うことを忘れてしまってはいないか。あの人がああいっていた、こういっていたという人間の言葉には感動し、すぐ影響され、そのようにしてみよういうくせに、神の言葉にはなかなか心頑なになって従えないということになっていないでしょうか。この朝、私たちはあらためて聴く教会、聴く信仰者として自らを省みたいと思うのです。

(3)祈る教会
 最後に第三のことは祈る教会ということです。18節、19節。「私たちのために祈ってください。私たちは正しい良心を持っていると確信しており、何事についても正しく行動しようと願っているからです。また、もっと祈ってくださるよう特にお願いします。それだけ、私があなたがたのところに早く帰れるようになるからです」。ヘブル書の著者が誰であるかは今日のはっきりしていません。古くからある人はペテロと考え、ある人はアポロと考え、またある人はパウロと考えました。特にこの御言葉を読むと、しばしば諸教会に自分のために祈ってほしいとリクエストを送り続けたパウロの姿を思い起こしますし、こんな言葉の中にパウロの姿を見て取った人々がいたことも十分うなずけるものです。ともかく、困難な迫害の時代を生きるユダヤ人キリスト者たちに励ましを与え、慰めを語り続けてきた著者が、最後に彼らに求めたのは自分のためにも祈ってほしい、もっと祈ってほしいという祈りの要請であったことを心に留めたいと思います。
 宗教改革の教会は、祈りの熱心を取り戻した教会でありました。内容の分からない、ただ決まった言葉を繰り返すだけの祈りでなく、自由に祈りの翼を広げて、誰もが直接、神に祈り求めることができる。繰り返し繰り返し祈ることによってますます神に近づき、神からのよきもの、すべての祝福と恵みを受け取ることができる。宗教改革者たちはこうして信仰者たちに祈りの祝福とその益を教え、人々を祈りに導いていったのです。カルヴァンはその主著「キリスト教綱要」の中で祈りについて次のように勧めています。「神を一切の善きものの主であり、施し主であると知り、彼が御自身に求めるようにわれわれを招いておられるのを知っても、神に近づこうともせず、彼に求めることもしないならば、それはちょうどある人が、宝のあるところを知らされていながら、地面の下にそれが埋もれ、隠されたまま、無視しているのと同じで益にならない」。つまり宝がそこにあることをどれだけ深く、どれだけ正確に知っていても、それを掘り起こすことがなければ意味がないというのです。そこにある宝を掘り起こすことこそが祈りであると言えるのです。
 私たちもまた、この祈りの特権を無駄にせず、ますます熱心に祈る群れでありたいと思います。先週、西澤先生がヘブル書10章から説教してくださいましたが、「いっしょに集まることをやめたりしないで」という勧めは何と言っても礼拝の結集、祈りの結集を指す言葉です。いっしょに礼拝に集うことを軽んじてはならない。いっしょに祈ることをやめてはならない。主に大いに歌い、主の御声を忠実に聴き、主に熱心に祈る教会。それが宗教改革の目指した真の教会の真の礼拝の姿です。私たちもこの朝、このよき信仰の系譜に繋がる教会として、もう一度信仰の姿勢を整え、襟を正し、背筋をまっすぐに伸ばし、そそして心を高く挙げて、主を礼拝する群れとして立ち上がってまいりたいと願います。

 



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