召天者記念主日礼拝  2015/11/01
『いつまでも主とともに』

Iテサロニケ4:13-18
 
 新しい月、11月を迎えました。先週私たちは幸いな50周年記念礼拝をおささげしました。そして今朝は地上の生涯を終えて主の御許に召された、愛する兄弟姉妹たちを憶える「召天者記念礼拝」としてささげています。死に打ち勝たれ、私たちの初穂としてよみがえられた復活の主、勝利の主イエス・キリストを信じる者に約束されている永遠のいのちの望みをしっかりと抱きつつ、心を挙げて主を礼拝し、そのいのちの言葉にともに聞いてまいりましょう。お一人一人に主の豊かな祝福があるようにお祈りいたします。

(1)皆が功労者
 先週の50周年記念礼拝、感謝会、午後の講演会を通して、あらためてこの教会の歩みが主の御手の中にあったことを覚えさせられました。特に講師の山口陽一先生が教会の歴史を振り返る中で、「教会存続の危機が度々あった」と指摘なさった言葉にハッとさせられました。もちろん自分では分かっていたつもりでいたのですが、開拓当初の教会の立ち退き問題のこと、そして何よりもこの会堂の建築に向かう矢先の牧師の突然の召天のことなど、確かに教会がこのまま続けられるのか、という大きな試練の時であったことを実感させられたのです。
 特に斉藤一牧師の召天については、先の25年記念誌の中で斉藤良子先生、そして斉藤謙兄が記しておられましたが、ご家族にとってはもちろんのこと、当時の教会員にとってもまさに青天の霹靂のような出来事であったことでしょう。そういう経験をくぐり抜けてのこの会堂建築であったことを思うとき、教会の50年の歴史がまた一段と深みを増してここに流れ込んできていることを教えられます。私自身もこのこととよく似た経験がありまして、出身教会の土浦めぐみ教会が念願の新会堂用地を購入し、いよいよこれから会堂建築に取りかかろうという矢先に、牧師であった父が召されまして、高校一年生ながらに「教会はこれから一体どうなってしまうのだろう」という不安に襲われたことを思い出します。しかしその二年後、1000坪の土地に500名の礼拝堂が完成したときには、本当に心震えるほどの感動を覚えたことでした。教会が大きく前進する時というのは、こういった人間的には大きな試練の時、危機の時なのかもしれません。私たちが自分たちの力で成し遂げたなどとは決して言えないような仕方で、生ける神御自身の御業が為される。人の計算、見通し、算段では決してありえないようなタイミング、考えられないような仕方で、しかしそこに生きておられる主ご自身が臨在され、事を成し遂げられるのだということを皆が認めざるを得ないような圧倒的は方法で、主は事を成し遂げられるお方なのでしょう。
 教会の歴史というのは、まさしくこういった神によって生かされた人々を通して働かれる、神御自身の歴史です。しかしそこには誰一人特別に讃えられるような功労者はいません。全ての人が功労者です。誰かが歴史の中で記憶され、誰かが忘れ去られるということはない。召天者記念礼拝のこの朝、今年もお手元に先に召された方々のお名前を一覧にしてお配りしていますが、ここにあるお一人一人がすべて、神にあって生かされ、用いられた人々です。その記憶をしっかり刻んでおきたいと思うのです。

(2)眠った人々のことについて
 そこでこの朝与えられている、テサロニケ一4章13節からの御言葉に聴きましょう。13節。「眠った人々のことについては、兄弟たち、あなたがたに知らないでいてもらいたくありません。あなたがたが他の望みのない人々のように悲しみに沈むことのないためです」。初代教会の人々にとって、十字架に死なれ、三日目に復活され、天へと挙げられたイエス・キリストが再び地上にお出でになる再臨の時は、そう遠くないうちに起こる出来事、もっと言えば「わたしはすぐに来る」と主イエス御自身が言われたように、まさにすぐにでも訪れると思われていました。そして主イエスの再臨の時というのは先に主にあって死んだ者たちの復活の時でもある、この信仰はすでに教会において共有されていましたので、愛する者たちを亡くした家族たちにとって、主イエスの再臨の時はひときわ憧れ、待ち望む時であったことは確かです。
 ところがなかなかその時が訪れない。「すぐに来る」と言われて、その日を指折り数えながら過ごす初代教会の人々にとって、終末がなかなか訪れない、主イエスの再臨がなかなかやって来ないというのは、まことに切実な問題でした。やがて年月が過ぎていくと、人々の間には次第に再臨を待つ時の緊迫感が薄れ始めます。「すぐに来る」という緊張が解け、非常時から平常時へと時が移り変わり、むしろ毎日の生活が続く中で再臨はそうすぐにはやってこない、という感覚が強まっていく。テサロニケ教会への手紙は紀元51年頃に書かれた書簡と言われていますが、主イエスの十字架の出来事から20年ほどの年月が過ぎ、まさにそのような終末、再臨の遅れの中で、信仰の緊張感が薄れ始め、緩み始めていった中で記された手紙です。
 この年月の中で、教会の中にもある変化が起こり始める。再臨はしばらく来ないという時の感覚の中で人々は目の前の生活に没頭しはじめ、先に天に移された者たちについて考えたり、彼らを思い起こすこともだんだんと減っていき、その記憶が薄れていく。愛する者を失った人々は、すぐにでも再会の時が来ると思っていたのに、それが実現しない中で、彼らの記憶が教会の中で共有されなくなっていくことに寂しさを覚え始める。忘れ去られていくことは大きな喪失感を生むものです。憶えていてほしいという願いは愛する者を天に送った者たちにとってはひときわ深く強い感情です。そこでこの手紙を書いた著者パウロは、テサロニケ教会の人々に、遺族たちの心を汲み取るようにしてこう訴え掛けるのです。「眠った人々のことについては、兄弟たち、あなたがたに知らないでいてもらいたくありません。あなたがたが他の望みのない人々のように悲しみに沈むことのないためです」。

(3)主イエスの復活に結び合わされて
 再臨など結局は来ないのではないか。死者の復活など、ただの慰めに過ぎないのではないか。結局、愛する者たちとは二度と会うことなどできないのではないか。そんな思いに襲われる人々に対して、聖書は先に召された人々を「眠った人々」と呼び、彼らの記憶が忘れ去られていくことに抗って「あなたがたに知らないでいてもらいたくない」と言い、その理由を「他の望みのない人々のように悲しみに沈むことのないため」と言うのです。死は悲しみで終わるものではない。なぜそう言えるのか。この問いに答えてパウロは次のように言います。14節。「私たちはイエスが死んで復活されたことを信じています。それならば、神はまたそのように、イエスにあって眠った人々をイエスといっしょに連れて来られるはずです」。
 こうしてパウロは、終末が遅れている、再臨などないのではないかと考える人々に対して、あらためて主イエスの再臨の時にもたらされる死人のよみがえりの有り様を次のように語るのでした。15節から17節。「私たちは主のみことばのとおりに言いますが、主が再び来られるときまで生き残っている私たちが、死んでいる人々に優先するようなことは決してありません。主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります」。
 16世紀ドイツで作られたハイデルベルク信仰問答の第52問に次のようにあります。「「問:『生ける者と死ねる者とを裁』かれるためのキリストの再臨は、あなたをどのように慰めるのですか。答:わたしがあらゆる悲しみや迫害の中でも頭を上げて、かつてわたしのために神の裁さに自らを差し出しすべての呪いをわたしから取り去ってくださった、まさにその裁き主が天から来られることを待ち望むように、です。この方は、御自分とわたしの敵をことごとく永遠の刑罰に投げ込まれる一方、わたしを、すべての選ばれた者たちと共にその御許へ、すなわち天の喜びと栄光の中へと迎え入れてくださるのです」。ここで注目したいのは「キリストの再臨は、あなたをどのように慰めるのですか」として、「慰め」が問われていることです。ちょうどハイデルベルク信仰問答の第1問で「生きるにも、死ぬにも、あなたのただ一つの慰めは何ですか」と問われたあの「慰め」です。私たちに与えられている再臨の希望は「天の喜びと栄光の中へと、迎え入れて」いただくという約束です。それは私たちにとってやがて迎え入れられる未知なる場所ですが、しかし御言葉の約束によれば、すでに与えられている私たちの故郷、本来の国籍の在処なのです。それゆえに、この御言葉の約束の確かさの中で、私たちは再臨の希望をもって頭を天へと上げ、与えられた地上の生を全うすることができるのです。

(4)慰め合い、励まし合う共同体
 パウロは主イエスの再臨の時の様子を教えた後で、テサロニケ教会の人々にこう語りかけます。「こういうわけですから、このことばをもって互いに慰め合いなさい」。ここで私たちは「互いに」という言葉に心を留めたいのです。再臨の希望の問題は、愛する者たちを失った家族たちだけのものではない。教会全体がこのことを互いに分かち合い、共有する。そして愛する者たちを先に天に送った者たちの悲しみや寂しさをも分かち合い、ともに担い合い、そこで天を見上げて慰めと励ましをも共有するのです。今日の午後も武蔵野霊園にある教会墓地での墓前礼拝にまいります。この数年、少し気になっていることは墓前礼拝への参加者が減っているということです。ご遺族の参加自体も減っているのですが、教会の皆さんの意識も少し変わってきているのではないかと思います。私たちの教会はかなり以前から墓前礼拝を行っています。かつてはイースター礼拝の午後に、そして2006年からはこの11月第一主日を召天者記念礼拝とし、その午後に行っています。それはなぜか。墓前礼拝はただご遺族のためにあるのではありません。むしろ毎年、墓前礼拝の際にこのテサロニケの御言葉が読まれるように、「眠った人々のことについては、兄弟たち、あなたがたに知らないでいてもらいたくありません。あなたがたが他の望みのない人々のように悲しみに沈むことのないため」であり、「こういうわけですから、このことばをもって互いに慰め合いなさい」と勧められているからです。教会の交わりを通して、この慰めと励ましが共有されること、それが今日の日を教会が憶えることの意味です。
 この慰めと励ましの業にぜひ多くの兄弟姉妹たちに参与していただきたい。「互いに慰め合いなさい」という御言葉の勧めの「互いに」の意味を、重く受けとめていただきたいと願います。そうすることによって、実は私たち自身の主にある生き方が整えられていくのです。主を待ち望む生き方。死を意識して今日を生きる生き方。目ざめた者として生きる生き方が整えられていくのです。5章10節、11節に次のように記されている御言葉を、心に刻みましょう。「主が私たちのために死んでくださったのは、私たちが、目ざめていても、眠っていても、主とともに生きるためです。ですから、あなたたがは、今しているとおり、互いに励まし合い、互いに徳を高め合いなさい」。

 



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