召天者記念主日礼拝 2013/11/03
『きのうもきょうも、いつまでも』

ヘブル13:7-8
 
 新しい月を迎えました。私たちはこの11月最初の主の日の礼拝を、地上の生涯を終えて主の御許に召された、愛する兄弟姉妹たちを憶える「召天者記念礼拝」としてささげています。ご遺族にとっては何年経っても薄れることのない悲しみの中におられると思います。
 けれども死を打ち破りよみがえられた復活の主、勝利の主イエス・キリストを信じる者に約束されている永遠のいのちの望みをしっかりと抱きつつ、心を挙げて主を礼拝し、そのいのちの言葉にともに聞いてまいりましょう。お一人一人に主の豊かな祝福があるようにお祈りいたします。

(1)思い出す
 7節。「神のみことばをあなたがたに話した指導者たちのことを、思い出しなさい。彼らの生活の結末をよく見て、その信仰にならいなさい」。この朝、まずここに記された三つの言葉に注目しましょう。「思い出す」、「よく見る」そして「ならう」の三つです。ヘブル書は新約聖書の中でも旧約聖書についての言及、引用が非常に多い書物ですが、そこには二つの特色があります。一つは旧約の様々な律法や礼拝祭儀の定めが真の大祭司にして一度きりの完全ないけにえである救い主イエス・キリストを指し示しているということ、いま一つは、旧約聖書に出てくる多くの信仰者たちの姿を示して、彼らの主にあって生き、そして死んでいった姿をもって、信仰者の模範としているということです。中でも11章では創世記のアベルから始まってエノク、ノア、アブラハム、サラ、イサク、ヤコブ、モーセ、イスラエルの民、ラハブ、ギデオン、バラク、サムソン、エフタ、ダビデ、サムエル、預言者たち、そして聖書には名も残らない迫害の時代を生きた数々の信仰者たちの姿を示したうえで、12章1節で次のように言うのです。「こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競争を忍耐をもって走り続けようではありませんか」。
 ヘブル書はこのように12章では旧約の聖徒たちを「証人」と呼んで、その存在を励みに信仰の道を走るようにと私たちを励まし、それとともに今日の13章では、もっと身近な自分たちの教会の中で生きた信仰の先達たちの姿を「思い出し、よく見て、ならえ」と勧めているのです。信仰の先達たちを「思い出す」こと。今日はお手元に教会の過去の召天者の一覧をお配りしています。27名のお名前が記されています。教会員として召された方もあれば、病床で信仰告白なさった方、最後を看取ることのできた方、召された後でご連絡を受けた方など教会との関わりは様々であり、また皆さんそれぞれに生前の交わりがあった方は限られていることでしょう。私も2000年に赴任したのでそれ以前の方とは面識がありません。けれども教会はこれらの方々をいつも「思い出す」のです。そこではどなたも同じです。この世の習わしのように何か特別の貢献があった人を顕彰するということではありません。主にあって生き、そして主にあって召された一人一人が、主の御手の中で最も美しく、最もその人らしくその生涯を全うした。たとえ私たちの目には必ずしもそうとは見えにくい、早すぎる死、痛ましい死、悔いの残る死であったとしても、それでもなおそこに主の慈しみと愛に満ちたお取りはからいがあると信じて、その一人一人を主にあって思い起こすのです。

(2)よく見る
 さらにヘブル書は「彼らの生活の結末をよく見」るようにと私たちを促します。ここで「よく見る」というのは、まさにただ見るというのではない、身を乗り出すようにしてよく見る、じっくりと凝視する、岩波訳は「繰り返し看て」、フランシスコ会訳は「思いを馳せて」とかなり意訳していますが、ともかくさらりと見るのでなく、ちゃんと立ち止まって顔を向けて見るようにというのです。ではいったい何を見るのか。それは「彼らの生活の結末」だと言われます。これもいろいろな訳で読み比べてみるとさらに味わい深いのですが、フランシスコ会訳では「彼らが生涯の幕をどのように閉じたかに思いを馳せて」、岩波訳では「全うされた彼らの生き方を繰り返し看て」となっています。直訳すると「振る舞いの果て」ということですから新改訳聖書はかなり直訳的に訳していますが、とにかく信仰の先達たちの生涯の終わり、振る舞いの果て、彼らの人生の終わりの姿をちゃんと見なさいというのです。この時代、教会の指導者たちの最後は多くの場合、殉教の死であったと言われます。古代教会の中には『殉教者列伝』と呼ばれるような文学が残されたほどに、数多くの殉教者たちの姿が記憶され、伝承されていきました。新約聖書に続く時代に教会で重んじられた使徒教父文書の中にある「ポリュカルポスの殉教」などはその代表的なものです。しかしやがて時代が降ると、そのような殉教者たちの死に方がどんどん美化され、伝説化され、殉教こそが最高の功徳だとするような考え方が広がっていくことになりました。11月第一日曜日が「召天者」の日とされた背景にも、カトリックの殉教した聖徒たちを記念する考えがあるとも言われるのです。
 しかし私たちは、立派な信仰者の勇敢な死に様を見て、それを美談のように祭り上げると言う意味でこの御言葉を読むことはしません。むしろ私たちが見るべきは、ひたすら主に従って生き、そして主に従って召された信仰者たちの姿です。信仰歴の長い短いは関係ない、その地上の業績も関係ない。主イエス・キリストを信じ、罪赦され、永遠のいのちを確信し、天の御国を望み見て、主の御手に自らの人生をまるごと委ねていった、そのような信仰者たちの姿です。礼拝で井越姉が今年の2月に天に召されたご主人、吉章兄のことを証ししてくださいました。まだ一年も経っていない中で、少し酷なお願いをしたかと思いましたが、誠実な証しを用意してくださいました。地上の生涯において、主イエスを信じて生きた時間はほんのつかの間の時でしたが、2月最後の土曜日の晩に病床で洗礼を受け、日曜日をベッドの上で過ごし、そして月曜日のお昼に主の元に召されていった、その生涯も私たちが「よく見る」べき信仰のお姿であることに違いないのです。
 またこの礼拝に続いて、昨年11月に召された神永アキ姉の追悼記念の時を持ちます。坂口姉が神永さんとの思い出を証ししてくださいますが、98歳を目前にして主の元に召されて行ったその生涯の終わり、私としてはいろいろと悔いの残る思いがあるのですが、それでも確かにその生涯の終わりは私たちが「よく見る」べき信仰のお姿でした。神永さんは病院を訪問すると、いつも感謝だけを口にされました。少なくとも私が知る限り、一度も御自身のことやご家族のことについて不平や不満をおっしゃらなかった。そしていつも口癖のように言われたのが「あの坂道を上り、階段を上がって礼拝堂に入り、窓際の前の席に座って、先生のお顔をじっと見て、御言葉を一言も聞き逃さないように、お説教を聞きました。またあの席に座って礼拝がしたい。皆さん礼拝に行けるのは本当に感謝なことですよ」という言葉でした。実際には私が徳丸に赴任して入れ違うように神永さんは入院なさったので、ご一緒に礼拝をしたのは本当に数えるほどのことですが、それはそれまでの長い間、歴代の牧師たちの説教を聴いて来た姉妹の姿勢、礼拝を捧げ続けてきた主への礼拝の姿勢そのものなのです。そういう姿を私たちは思い起こし、そしてしっかりと見つめるものでありたいのです。

(3)その信仰にならう
 そして三つ目の勧めが「その信仰にならいなさい」との言葉です。思い出し、よく見るだけでなく、「ならえ」というのです。そこでは今度はほかでもない私自身の生き方が問われることになります。「ならう」というのはまさしく模倣する、同じようにまねるということです。この「ならう」と言う言葉は新約聖書の中では4回しか使われませんが、その用例はいずれも、具体的な生き方にならう、実際に身をもってならうという意味を持っています。考え方や思想ではなく、信仰にどのように生きたか、その具体的な生き様にならうことが勧められているのです。
 先週、神永さんの文章がないかと思って過去の月報「徳丸が丘」のバックナンバーをずっと読み返してみました。結局すべての号に目を通すことになったのですが、これが実に幸いな経験となりました。神永さんだけでなく教会の皆さんがそれぞれその時々に記された文章を読んで非常に励まされ、ぜひ皆さんにもここに証しされている信仰の姿にならっていただきたいと思い、さらには「あの頃は熱心だった」と過ぎ去った過去のように思い返す方々には、再びこの信仰の熱心を取り戻して歩んでいただきたいと願わされています。私がつねづね申し上げるように「信じること」は「生きること」ですから、信仰者がどう生きていけば良いのか、そのための具体的な生きたお手本が必要です。自分はとてもお手本になどならないと皆さん思われるでしょうが、主はそんなことは百も承知の上でなお私たちの生き様を証しとして用いていくださるのです。
 このところ私はあらためてこの徳丸町キリスト教会としての「信仰の継承」ということを考えさせられています。週報の裏面に記している『私たちのこころざし』にも「生きた信仰の継承に励む」と記していますが、そのためにはやはり生きた信仰の手本が必要です。主イエスを信じて生きるとはどういう生き方なのか、それを言葉だけでなく、生き様で見せていただきたいのです。信仰の継承はただ「親から子へ」という家庭だけのテーマではありません。教会で新しく主を信じた兄弟姉妹がどうやって信仰の道を生きていったら良いのか。勉強のこと、進路選択のこと、結婚のこと、子育てのこと、仕事のこと、礼拝を中心とした生活をどう作って行くのか、異教の様々な宗教行事とどう対応したら良いのか、未信者の家族の中でどうやって証しを立てていけば良いのか、もちろん長く信仰を生きてもなお続く迷いや悩みではありますが、でもそれらから逃げずに、また安易に妥協せずに、一生懸命御言葉に聴きながら悩み、葛藤しつつ生きる信仰の生き様を見せてほしいのです。その意味で教会の中で互いの信仰の継承のためのつながりをもっと大切にしていただきたい。何かを次の人に渡したら、自分の手をすぐに引っ込めてしまうのではなく、渡した手をそのまま握って一緒に歩んでいただきたいのです。そのために時間を捧げていただきたい、犠牲を払っていただきたい。そうして次の世代を育て、建て上げていくことによって生きた信仰にならうということが繋がっていくのです。

(4)きのうもきょうも、いつまでも
 ヘブル書は先の12章でも旧約の信仰者たちの姿を示したのに続いて、2節で「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい」と勧めました。それと同様にこの13章でも8節でこう記します。「イエス・キリストは、きのうもきょうも、いつまでも同じです」。信仰の先達たちの姿を「思い出し、よく見て、ならえ」と勧めたヘブル書の著者はしかし最後には私たちの目を、そのような過去に遡る水平の次元からぐっと縦に向けさせ、信仰の創始者にして完成者、きのうもきょうも、いつまでも変わることのない主イエス・キリストを仰ぐようにと導くのです。
 信仰者といえども人間だけに目が留められるとき、そこには様々な人間を美化し、崇め奉るような過ちが入り込んできます。教会といえどもそのような名誉欲や権力欲に毒されやすいものです。しかし肝心なことは私たちがいつもこの「きのうもきょうも、いつまでも変わることのない」主イエス・キリストに目を注ぎ続けることです。その時に私たちは人をことさらに美化したり、あるいは逆に不当に扱ったりすることなく、正しく、事柄にふさわしく、真実に、そして誠実に一人一人の信仰者たちの生と死を意味づけ、位置づけることができるのです。
 それとともに、「イエス・キリストは、きのうもきょうも、いつまでも同じです」との御言葉は私たちにとって大きな慰めをもたらす約束の御言葉でもあります。イエス・キリストはいつまでも同じ方、同一者だというのは、言ってみれば当たり前のことと思うかもしれません。しかしもう少し深く考えてみると、かつてあの旧約の信仰者たちがまだ見てはいなかったけれども信仰において先取りしたお方、新約の時代の数々の聖徒たち、初代教会の多くの殉教者たち、二千年の歴史の中をひたすら主を信じて生きた信仰者たち、この国に福音が伝わってから今日に至るまでの信仰者たち、この町に福音を伝えてくださったフェーデル先生、48年の歴史の中で主を愛し、教会を愛して、ここで生き、そして召されていった兄弟姉妹たちや先生方、思い出すだけでも懐かしいあの方、この方。まだ一緒に礼拝に集っているかのように錯覚してしまうような、ついこの前まで一緒に歩んできた方々。そういうすべての聖徒たちがそれぞれの時代に、それぞれの場所で信じ、仰ぎ見、従って来たお方は、同じお方、ただ一人のお方、主イエス・キリストなのです。この方に結ばれている限り、私たちもまた互いに結び合わされている。天と地の隔たりを越えて、生と死の隔たりを越えてなお、私たちは主イエス・キリストに結び合わされ、また主イエスにあって互いに結び合わされている。この確かさを慰めとして、拠り所として、今日からまた天の御国を目指す歩みの一歩を踏み出してまいりましょう。

 



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