召天者記念礼拝  2011/11/06
『起き上がって、生きよ』

使徒の働き9:36-43
 
 11月の月を迎えました。私たちはこの朝の礼拝を、先に主の御許に召された愛する兄弟姉妹たちを覚える「召天者記念礼拝」としてささげています。お手元に私たちの教会の天に召された兄弟姉妹たちのお名前の一覧をお配りしていますが、昨年のこの礼拝の後に、さらにお一人の名前が記されることとなりました。どれだけの年月を経ても癒えることのない悲しみや寂しさの中にあるご家族たちに、慰め主なる聖霊が、よみがえりの主イエス・キリストにある希望と父なる神がやがて完成させてくださる神の国の成就の約束をいよいよ確かなものとしてくださるように祈りつつ、また私たちも己れの地上の年月を正しく数えることを教えられる時として、主のお語りくださる御言葉にともに聞いてまいりたいと思います。お一人一人に主の豊かな祝福があるようにお祈りいたします。

(1)物語られる人生
 私は毎朝新聞を隅々まで読むのですが、3月以来欠かすことがないのが、震災で亡くなった方々の名前、死者数と行方不明者数の記された欄を読むことです。震災からまもなく8ヶ月を迎え、新聞紙面の扱いもずいぶんと小さくなってきましたが、それでも今もほぼ毎日数名ずつ新しく死亡確認された方のお名前と年齢が載り、それによって死者数が増え、行方不明者の数が減っていくのです。11月4日現在の死者は1万5833名、行方不明者3671名ということです。それはともすると単なる数字の変化、しかも小さな小さな数字の増減のように見えるのですが、しかしそこで私たちが少しの想像力を働かせるならば、その数だけの人の存在、歴史、またその人を取り巻く家族や友人たちの思い出、悲しみ、怒り、そういった諸々の思いがうねりのように存在していることに気がつかされるのです。
 このような一人の人間が生きた歴史への想像力を働かせること、ひとりの人の人生が物語られるということ、それは人の死を悼み、遺族を慰める意味でもとても大切な営みと言えるでしょう。今巷では先日癌で亡くなったアップルコンピューターのスティーブ・ジョブズの伝記が爆発的に売れているそうですが、そのように人生が伝記に記されて広く人々の目にとまる人はもちろんほんの一握りです。しかし人は誰しも自分の人生がいつの日か物語られることを欲していると言えるのではないでしょうか。このことは私たちがキリスト教葬儀を考える上でも大切な意味を帯びています。葬儀における故人の扱いについて、教会には大きく二つの立場があるように思います。一つは故人の過去の人となりや業績などを全面に出しつつ、その人の証しを紹介することに重点を置いた葬儀、いま一つは葬儀の本質が神礼拝にあるとして、徹底的に故人を隠し、故人の歩みに触れないことに徹する葬儀です。私自身はそれらのいずれもが両極端にあるように思います。その人の人生がことさらに美化されたり、人間礼賛に終始するような葬儀であってはなりませんが、神にあって罪赦され、救われて、天の御国に移された人の生涯が一切物語られないままに終わる葬儀というのもまた、その本質から逸れているようにも思うのです。事実、聖書の中にもたくさんの人の死が記されます。その最たるものはやはり福音書ですが、そこでも主イエスの生と死の物語が記されることで、聖書は私たちに多くの信仰の先達たちの死と、とりわけ御子イエス・キリストの十字架の死を物語ることによって、ひとりの人の死を私たちに受け取らせ、それによって私たちが死ときちんと向き合うことへの備えを与えているとも言えるのではないかと思うのです。今日のこの召天者記念礼拝も、そのような私たちのキリストにある死への準備としての意味を持っていると言えるでしょう。
 
(2)タビタの死
 この朝開かれている御言葉には、まさにそのようにして人々に物語られたひとりの人の死の姿が描き出されています。36節から39節。「ヨッパにタビタ(ギリシヤ語に訳せば、ドルカス)という女の弟子がいた。この女は、多くの良いわざと施しをしていた。ところが、そのころ彼女は病気になって死に、人々はその遺体を洗って、屋上の間に置いた。ルダはヨッパに近かったので、弟子たちは、ペテロがそこにいると聞いて、人をふたり彼のところへ送って、『すぐに来てください。』と頼んだ。そこでペテロは立って、いっしょに出かけた。ペテロが到着すると、彼らは屋上の間に案内した。やもめたちはみな泣きながら、彼のそばに来て、ドルカスがいっしょにいたころ作ってくれた下着や上着の数々を見せるのであった」。ここに一人の女性がいます。彼女の名は「タビタ」、むしろ後の時代には教会で多くの人々から「ドルカス」という呼び名で覚えられた女性の弟子です。「ドルカス」、「かもしか」という意味だと言われます。しなやかに、軽やかに主に仕え、教会に仕え、兄弟姉妹への愛を表した人だったのでしょう。
 教会というのは不思議なところで、どこにいってもこういうタビタのような方が必ずおられるものです。決して殉教者列伝、聖人伝説になるような人ではない。むしろ控えめに黙々と主と教会と兄弟姉妹たちに仕えるしもべとなって、見返りを求めず、賞賛を受けることを求めず、自分への評価が正当でないとへそを曲げることもなく、誰かを裁いたり、妬んだりすることなく、いつでも周りの人を気持ちよく生かし、爽やかな風を教会の中に運んでくれる、そういう存在がいるのです。タビタという女性。かののはまさにそのような女性だったのではないでしょうか。
 先に「タビタという人がいた」と言いましたが、それは不正確な表現です。なぜならここではすでにタビタは病のために息を引き取った後なのです。ペテロが弟子たちの求めによってタビタのもとを訪れた時も、もはや彼女は亡くなっていて、その遺体はきれいに手当もすみ、ひっそりと家の屋上の間に安置されていました。もはや彼女はペテロたちにとっても、そして私たちにとっても過去の人というように映ります。しかしそんな彼女の人生が物語られることによって、彼女の生き様、信仰がよみがえらされてくるのです。39節に「やもめたちはみな泣きながら、彼のそばに来て、ドルカスがいっしょにいたころ作ってくれた下着や上着の数々を見せるのであった」と記される通りです。彼女の人生を語り伝えたのは、社会の中でも貧しくしいたげられ、教会の中で養われていたやもめたちでした。この一人の女性、彼女自身も決して豊かではなかったであろうドルカスが、恐らく結婚もしていなかったか、もしかすると彼女自身もやもめであったかもしれない。そんな中で彼女はその生涯を主と主の教会に捧げ尽くし、貧しいやもめたちのために、苦しむ人々のために多くのよいわざと施しを通して献身的に奉仕したのでしょう。彼女の周りで涙を流す人々の姿が、彼女の献身の生涯がどれほど人々の心に深く語りかけるものであったかを表していうのです。「彼は死にましたが、その信仰によって、今もなお語っています」とヘブル書11章4節に語られるように、教会の歴史はそのような主に忠実に従い、主の愛を分かち合っていった多くの信仰者たちの愛の証しによって刻まれていくものです。今日、私たちの手元にあるこれらの兄弟姉妹たちについても、そのお一人一人の主なる歩みを物語る時間を持つことができたなら、どれほど豊かな慰めを受けることができるだろうかと思います。
 
(3)起き上がって、生きよ
 けれどもここでペテロを通して働かれる主は、タビタを単に過ぎ去った人とすることなく、また人々の中で物語られる信仰者とするだけでなく、むしろ彼女を主イエス・キリストのよみがえりのいのちと結び合わせることによって、そこに新しいいのちを指し示す人として生かすために、彼女を起き上がらせてくださったのです。40節、41節。「ペテロはみなの者を外に出し、ひざまずいて祈った。そしてその遺体のほうを向いて、『タビタ。起きなさい。』と言った。すると彼女は目をあけ、ペテロを見て起き上がった。そこで、ペテロは手を貸して彼女を立たせた。そして聖徒たちとやもめたちとを呼んで、生きている彼女を見せた」。
 このタビタの姿を通して主が語っておられることは何でしょうか。私たちの救い主イエス・キリストは十字架に死んで三日目によみがえられ、天へと挙げられたお方です。しかしこのお方が天におられるということは、私たちのもとから去ってしまい、過去の存在となってしまったことを意味してはいません。主イエス・キリストは天にあって今もなお聖霊を送り、かつてはペテロたち御自身の使徒たちを用い、今は御言葉と聖霊を通し、教会を通して御自身の救いの御業を行われ、人を死からいのちへと取り戻し、主イエスにあるまことのいのちに起き上がらせ、生かしてくださるお方なのです。主イエス・キリストを信じる時、人はそのいのちに生かされて主の御前に立つ者とされる。それが人が人として最も自然で、もっとも相応しいあるべき姿なのです。主に忠実に仕えてきた生涯を突然の病によって終えた主の弟子タビタ。人々は彼女の人生を物語り続けることによって、彼女を過去の存在にしてしまわないようにとし続けました。けれどもそんなタビタを主はペテロを通して再び死の床から起き上がらせてくださいました。今、生きておられる主イエス・キリストのいのちによって生かされることの恵みと力を証しする人として、彼女は死の絶望の中から再び起き上がらせられたのです。
 この主イエス・キリストにあるいのちはただタビタだけのものではない。彼女を立ち上がらせ、起き上がらせてくださった主イエス・キリストは、今、聖霊を通し、主の復活の証人たちを通して、その証人たちの周りにある人々をもこのいのちに生かすことのおできになるお方なのです。その証拠に、次の御言葉を見ましょう。42節。「このことがヨッパ中に知れ渡り、多くの人々が主を信じた。そして、ペテロはしばらくの間、ヨッパで、皮なめしのシモンという人の家に泊まっていた」。死の床から起き上がったタビタのことを知ったヨッパ中の多くの人々は主を信じたのです。聖書が語り続けてやまない良き知らせ、福音のメッセージ。それは主イエス・キリストを信じることによって人はまことのいのちに生きることができるということです。そのスタートはどこからでも始まります。たとえそれが絶望と死の床からでも、主イエス・キリストを信じるならば、人はこのいのちによって絶望の床から立ち上がり、死の床から起き上がることができるのです。そのことを見て、そのことを聞いて、多くの人々が主に立ち返り、主を信じたように、この朝、皆さんにもぜひこのいのちを受け取って頂きたい。そして主によって生かされるいのちを生きるお一人一人であったいただきたいと切に願います。

 



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