召天者記念礼拝 2009/11/01
『ただ一つの慰め』

ローマ8:38-39

 よみがえりの主、また私たちのよみがえりの望みであられるイエス・キリストの御名によって、皆さんお一人一人に祝福がありますように祈ります。
 私たちはこの朝の礼拝を「召天者記念礼拝」としてささげています。今年も皆さまのお手元に、私たちの教会で先に天に召された愛する兄弟姉妹たちのお名前の一覧をお配りしました。讃美歌191番、聖歌では201番に「この世と天に分かれ住めど、御民はきよき神にありて、ともに交わり、ともに待てり。キリスト・イエスの来る日をば」とあります。私たちはここに名前の記されたお一人一人と、今は顔を合わせ、言葉を交わすことはできません。けれどもこの礼拝が、やがて後の日の天の御国での顔と顔とを合わせての礼拝の時の先取りであることを覚えて、ご一緒に復活の主の御名をあがめたいと願います。そしてまたご遺族に新しく主の慰めがあることを祈りつつ、私たち主にある者たちに約束されている、天の御国での再会の希望を新たにさせていただきたいと思います。

(1)ただ一つの慰め
皆さんは、ご自分の葬儀の時のための御言葉というのを決めておられるでしょうか。教会によっては、葬儀のための御言葉と愛唱賛美のほかに、家族に伝えたい言葉などを記した、いわば遺言状のようなものを教会員全員が記して保管するというところもあるようですが、もしそのような御言葉や賛美があれば、あらかじめお知らせくださるのもよいことかと思います。ちなみに、私はというと、家内にはもしもの時にはこの先生に葬儀を依頼してほしいという名前を伝えてはあるのですが、葬儀の時にもし説教をしてくださるなら、この御言葉から、と願っているのが、この朝開かれておりますローマ書8章31節から39節です。ここで申し上げましたので、きっと役員さんたちも覚えていてくださると思いますが、あらためて38節、39節をお読みします。「私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません」。まさにここにはキリスト・イエスにある者に対する父なる神様の確かなお約束が記されています。その確かさの中に生きることのできた感謝をぜひ語っていただきたいと願っているのです。
 私がこの御言葉を味わう度に思い起こすのは、いつもご紹介する16世紀のドイツ、ハイデルベルクで作られたハイデルベルク信仰問答の有名な第1問です。私たちの信仰の歩みにおいて繰り返し口ずさみ、覚えてしまいたい確かな信仰の言葉ですが、そこではまず次のように問われています。「問:生きるにも死ぬにも、あなたのただ一つの慰めは何ですか」。これは大変短い問ですが、しかしまた大変深い問いかけであると言わなければなりません。ここでは生きている時も、死に際しても慰めとなるものは何か、という人の一生を貫く慰めが問われています。普段の生活では慰めとなっても、いざ死の時に際しては役に立たないとか、死ぬ間際になって初めて力を発揮する慰めを問うているのではない。一生の間絶えず、その始まりにおいても、その最中においても、そしてその終わりにおいても慰めとなるものは何かが問われている。しかもそのような慰めは二つも三つもあるものではない。本当に人の生と死を包み込んだ慰めとはただ一つのものであるはずですし、また他人から借りてきて事足りる、その場限りの気休めではなく、「あなたの慰め」、「私の慰め」と言うべきものが問われている。この信仰問答はそのような慰めを最初に私たちに問いかけてくるのです。

(2)慰めを問う
 先週の午後のセミナーでカルヴァンの帽子をお見せしました。私の親しい友でもある台湾宣教師の斉藤先生が、一時帰国の時におみやげ買ってきてくださったのですが、この斉藤先生と一緒にある企てを続けております。といってもまだ一回だけなのですが、日本と台湾で離れていても一緒に勉強を続けようということで、ハイデルベルク信仰問答の共同の学びを始めています。斉藤先生は台湾に行かれる前にアメリカでハイデルベルクについての研究をなさったいわば専門家ですので、先生が信仰問答の釈義を書き、私はそれに基づいた説教を書く、ということを続けていこうというのですが、その第一回目に先生が送ってきてくださった第1問についての釈義がA4で二十頁にも及ぶもので、この先がどうなるかと思っているのですが、しかしその中でこの「慰め」ということについて非常に詳しい解説をしてくださっています。その中で、先生がこの「慰め」を、むしろ「確かな慰め」、あるいは「慰め」という日本語を捨てて「確かな拠り所」と訳すべきではないかとさえ大胆な提案をしておられるのです。それで私の書棚にはハイデルベルク信仰問答に関するものだけで30冊ほどの書物があるのですが、それを片っ端から開いて調べてみました。その中で大変印象深かったのが、最近教文館から出たらラウハウスというドイツ人の先生が書かれた「信じるということ ハイデルベルク信仰問答を手がかりに」という信徒向けの書物の中のこんな一節でした。「信仰問答の冒頭の問いはこう書き換えてもよい。『生きているときも死ぬときも、あなたを支えるものは何でしょう』。あるいはまた、『生きているときも死ぬときも、あなたは何に頼っていますか』。あるいはまた、『生きているときも死ぬときも、何があなたを強くさせますか』。問題になっているのは、生きる勇気であり、死に際の確信だ」。
ここで私の心に留まったのはハイデルベルクが問う「慰め」とは、「生きる勇気であり、死に際の確信だ」という言葉です。私たちが悩み多く、心が弱り、体も病むようなこの日々を生きる勇気はいったいどこから来るのでしょうか。そしてやがて地上の生涯を閉じる時に、すべてのものが取り去られて、手放さなければならなくなるまさにその死に際の時に、私の心の確信、その拠り所となるものはいったい何なのでしょうか。いや、そもそもそのような勇気や確信を与えるものが存在するのでしょうか。

(3)キリストのものとされる
 この勇気と確信たる慰めについて、ハイデルベルク信仰問答は次のように答えています。
答:わたしがわたし自身のものではなく、体も魂も、生さるにも死ぬにも、わたしの真実な救い主イエス・キリストのものであることです」。体も魂も、生きるにも死ぬにも、わたしがわたしの救い主イエス・キリストのものとされていること、私はもはや孤独に一人で立っているのではなく、キリストの恵みに与って、キリストのものとされているがゆえに生きる勇気を与えられ、またキリストのものとされているがゆえに、死に際の確信が与えられる。これが唯一の慰めだと教えられるのです。
 この答えを支えているものこそが、まさしく今朝のローマ書においてパウロが語っている御言葉です。パウロは言います。31節、32節。「神が私たちの味方であるなら、誰が私たちに敵対できるでしょう。私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう」。また38節、39節。「私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません」。究極のところ、私の拠り所となるもの、私を支え、立たせ、生かすもの。それは私がキリストのものとされているということに尽きるのです。これは理屈ではなく、信仰者の現実です。特に死に際の確信ということにおいて、私はこの確かさを疑うことができません。聖書の約束は、ただ言葉だけの、観念的な思弁の繰り言ではありません。それはまさしく信仰者の一人一人の生涯の中に具体的にかたちをとってあらわれる生きた証しに他ならないのです。
 今日お配りした召天者一覧のうち、私が直接、間接にその最後と葬儀に関わったのは2000年以降の方々です。辻岡兄は残念ながら教会で葬儀をすることができませんでした。中村姉はご遺族の希望でお身内だけの密葬を司式しました。そういう意味では最後の時を看取るところから葬儀まで携わらせていただいたのは、室信夫兄、後藤スエ子姉でした。また私にとって心に深く残っているのは、九州の地で倒れられた溝口兄の葬儀を教会で執り行い、それをきっかけにして奥様のトシコさんがこうして礼拝に集い続けていてくださるということです。その中でも、病床で私の手をしっかり握ってご自身の信仰を表明し、洗礼を受けてその日のうちに御国に旅立たれた室兄のこと、死を間近にした病床で、「何か心配なことはありますか」と尋ねる私に、「何も心配なことはありません」ときっぱりと確信をもって答えられた後藤姉のこと、そういうお一人一人のお姿を思い起こすとき、キリストのものとされた者たちの生きる勇気と死に際の確信を支えているただ一つの慰めの確かさを覚えさせられるのです。

(4)私たちは主のもの
 先週の午後に宗教改革者たちのことを学びましたが、今日もここでカルヴァンが死の床で書き残した遺言の一節をご紹介したいと思います。カルヴァンの弟子であったベザが後に記したカルヴァンの伝記に残されているものです。カルヴァンは「何よりもまず第一に、私は、神が創造してこの世に置き給うたわたしに憐れみを垂れたもうたことを神に感謝する」と述べ、「神は私を福音の光の中に移し、私がまったくそれに値しない救いの教理にあずかる者たらしめてくださるために、私が沈んでいた偶像礼拝の深い暗闇から私を救い出してくださったばかりでなく、また同じ憐れみと慈しみとをもって、そのゆえに当然神に棄てられ滅ぼされるべきであった私の過誤と罪を慈愛深く赦してくださったばかりでなく、大いなる寛容と情けをもって、私を福音の真理の説教と宣布の器として用いることを定めてくださったのである」といって自らの救いと罪の赦し、そればかりか伝道者として召されたことを神に感謝します。その上で「私には理由なしに子としてくださった神の恩恵のほかには、救いのためにどのような砦も避け所もない、私の救いはただこの恩恵にのみ依拠している」とし、「私は、神がイエス・キリストによって私に対して注いでくださった憐れみをすべて霊をもって抱きしめる」と語ります。そしてついには臨終の床において次のように語ったと言われます。「私は息をするにも難儀しています。をして毎日まったく息をすることをやめるのを待っています。キリストのために私は生き、また死ぬ。それで十分です。キリストの民にとっては、キリストは生においても死においても益です」。 先に挙げた兄弟姉妹たちも、また今ご紹介した改革者も、彼らの生と死を貫くただ一つの慰めは、私たちのために十字架にかかって死なれ、三日目によみがえられた主イエス・キリストご自身であられます。そしてキリストは今も生きて私たちを支え、そして今日も私たちをその御手の中にしっかりと握り締めていてくださるのです。そしてこのキリストとの結びつきはますます強く、ますます堅く、そしてますます確かにされていくのです。それが私たちの地上における信仰の歩みであり、その完成は天において約束されています。それゆえにこの朝、私たちは使徒パウロによって記された御言葉を、私たち一人一人の信仰の言葉として語ることが許されるのです。ローマ14章8節。「もし生きるなら、主のために生き、もし死ぬなら、主のために死ぬのです。ですから、生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです」。そしてIテサロニケ5章10節。「主が私たちのために死んでくださったのは、私たちが、目覚めていても、眠っていても、主とともに生きるためです」。
 目覚めていても、眠っていても、主イエス・キリストとともに生きる。それはキリストが私たちをご自身のものとしていてくださるがゆえにこそ可能になる現実です。このキリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すものは何もない。これほど深く、堅く、確かな愛の絆によって、私たちをご自身と深く結びあわせてくださっている主イエス・キリストを崇め、この方のものとされていることの慰めを、私たちのただ一つの慰めとさせていただき、天を見上げてまたここから歩み始めてまいりましょう

 



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