召天者記念礼拝    2008/11/02
『天から与えられる住まい』

IIコリント5:1-10

 私たちの教会では、11月第一主日の礼拝を「召天者記念礼拝」としてささげています。今年も皆さまのお手元に、私たちの教会で先に天に召された愛する兄弟姉妹たちのお名前の一覧をお配りしました。実際にはお一人一人と顔を合わせ、言葉を交わし合う機会を持った方はごく限られているかも知れません。けれども、天地を結ぶ神の家族の交わりに加えられていることの幸いを覚えながら、ご一緒に復活の主の御名をあがめ、またご遺族に新しく主の慰めを祈りつつ、私たち主にある者たちに約束されている、天の御国での再会の希望を新たにさせていただきたいと思います。

(1)地上の幕屋から天にある永遠の家へ(v.1-4)
聖書の信仰の一番の醍醐味はどこにあるか。そう問われて皆さんはどのようにお答えになるでしょうか。あるいは今、まさにそのような問いを抱きつつこの礼拝に集っておられる方々があるかも知れません。私は常々、福音を説きながら、死を越えて永遠に生きる望み、これが与えられるところに、聖書が私たちに語ってやまない文字通りの「よきおとずれ」すなわち福音があると信じています。パウロがコリント第一の手紙で語っているように、もし聖書の信仰から主イエス・キリストの復活の事実と、これを信じる者に約束されているよみがえりの希望が取り去られてしまったとしたら、私たちの信仰は全く意味のないものになってしまいますし、このようにして互いに慰め合うようなことすら空しいものになってしまうのです。
 しかしこの朝、私たちに語りかけている聖書の御言葉は、より確かな仕方で、私たちに与えられる永遠のいのちの約束と希望を示しています。その御言葉にしっかりと耳を傾けておきたいと思うのです。まず最初に1節をお読みします。「私たちの住まいである地上の幕屋がこわれても、神の下さる建物があることを、私たちは知っています。それは、人の手によらない、天にある永遠の家です」。ここでパウロは私たちの地上のいのちの営みと、天において約束されている永遠のいのちの営みとを大変ユニークな譬えを用いて書き記します。すなわち「地上の幕屋」と「天にある永遠の家」というのです。私たちにとって仮住まいというのはなかなか落ち着かないものです。千葉の神学校で、かつて私たちが神学生時代に始まって今も続いている年中行事に、夏の完全退寮というものがあります。神学校は全寮制で毎年部屋の移動があるのですが、それ以外に夏になると部屋の荷物を全部まとめて運び出し、部屋を空っぽにしなければならないというのです。それが導入された当初は学生たちが随分と反発したのですが、当時の学長に、キリスト者は「旅人・寄留者」なのだから、シンプルライフを実践しなければならないといって説得されて、しぶしぶ実行したことを思い起こします。また神戸に移り住んだ時にも、周囲にはまだ数多くの仮設住宅が建ち並んでいました。今でも台風や災害で学校の体育館に避難する様子がテレビに映ったりします。私たち家族もキャンプが好きで以前は年に一度はテントをもって出かけたりしましたが、三泊や四泊程度なら楽しいものでも、これが何ヶ月、何年も続くとなればなかなか大変なことでしょう。やはり落ち着いた住まいへの憧れが増してくるのではないでしょうか。
 聖書がここでここで「地上の幕屋」というのは、私たちの地上の生涯はまさにそのようなテント住まいのキャンプ生活のようなものだというわけです。そしてその地上の幕屋が壊れても、つまりその生活にピリオドが打たれる時が来たとしても、なおそこに「神の下さる建物がある」とし、しかもそれは「人の手によらない、天にある永遠の家」だというのです。「幕屋」が簡易なテント、仮住まいの場所であるのに対し、当時の「家」は煉瓦や石を積み上げたしっかりした建物、文字通り「終の棲家」です。つまり私たちの主は、私たちの地上の生涯の後、天において朽ちることのない永遠の家を用意していてくださるというのです。まさに主イエス御自身がヨハネ福音書14章1節から3節でこう約束してくださったとおりです。「あなたがたは心を騒がせてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。わたしの行く道はあなたがたも知っています」。まさに主にある者にとって地上の生涯は旅人、寄留者の人生であり、その旅路をそれぞれが全うしたならば、主が備えてくださっている天にある永遠の家に迎えられ、そこで永遠に主と共に住む。これが聖書の約束です。なぜなら実は天の御国こそが私たちの国籍の在処だからなのです。

(2)天の住まいを着る(v.2-4)
 続いて2節から4節を読みます。「私たちはこの幕屋にあってうめき、この天から与えられる住まいを着たいと望んでいます。それを着たなら、私たちは裸の状態になることはないからです。確かにこの幕屋の中にいる間は、私たちは重荷を負って、うめいています。それは、この幕屋を脱ぎたいと思うからでなく、かえって天からの住まいを着たいからです。そのことによって、死ぬべきものがいのちにのまれてしまうためにです」。ここでパウロはこの天の御国、天にある永遠の家に憧れて、この希望に生き、そしてついにはそこに至ることを指して、これもまた大変ユニークな表現を用いています。「天から与えられる住まいを着たいと望んでいる」というのです。「住まいを着る」とはいったいどういう事なのでしょうか。想像してみるといろいろと不思議なことになってしまいます。
 先月、講壇交換で安中の三浦先生が取り次いでくださったローマ書13章にも「キリストを着る」という表現が出て来ましたが、新約聖書においてこの「着る」というのは興味深い言葉です。調べてみますと、この「着る」という言葉、「エンドゥオー」という言葉ですが、これは新約聖書で28回使われます。またほとんど同じ意味で、「上から着る」とう「エペンドゥオー」という言葉は2回使われます。そして今日の箇所ではこの二つの言葉が同じ意味で混ざって使われています。さて、この「着る」という言葉の用例を見るとき、特徴的なのはパウロの使い方です。パウロはこの言葉を、ローマ13章やガラテヤ3章では「キリストを着る」といい、エペソ4章やコロサイ3章では「新しい人を着る」といい、Iコリント15章では「朽ちないものを着る」といって使うのです。これらの言葉の用い方から見えてくることをまとめると、次のように申し上げることができるでしょう。すなわちこれらのいずれの箇所でも問題となっているのは「死」に対する「いのち」の勝利ということです。「キリストを着る」とは、まさに主イエス・キリストの十字架の身代わりによって私の罪が赦され、神の前に本来罪ある私が、主イエス・キリストという衣を着せていただいたことによりもはや神の前に罪を認められず、むしろ義なる者と認めていただいたという救いの恵みを表しています。次に「新しい人を着る」とは、この主イエスの贖いによって罪赦され義と認められた私たちが、今度はその救いに与った神の子どもとして相応しく整えられて、キリストの聖さに与っていく聖化の恵みを表しています。そして「朽ちないものを着る」とは、まさに今日の御言葉と重なるところですが、そうして地上の生涯を全うした私たちにやがて天の御国で神が装わせてくださる栄光の姿、救いの完成と永遠のいのちの姿を表しているのです。
 こうしてあらためて先ほどの御言葉を読み返してみますと、「この天から与えられる住まいを着たいと望んでいます」との言葉がまた新しく響いてくるのではないでしょうか。確かに私たちの地上の歩みにおいては様々なうめきがある。地上の幕屋を背負いながらの旅路は決して平坦な道ではありません。先に天に召された方々も、恐らくそれぞれの人生をそれぞれの重荷を負いつつ、時に苦しみ喘ぎつつ進んで行ったに違いない。「私たちの齢は七十年。健やかであっても八十年。しかも、その誇りとするところは労苦とわざわいです。それは早く過ぎ去り、私たちも飛び去るのです」と詩篇90篇がモーセの祈りをしたためるとおりです。しかし聖書はその先にある天の住まいの希望を指し示す。そしてそこにある天の住まいを着ることを待ち望んで生きるようにと、地上にある私たちを励ましてやまないのです。

(3)聖霊によるキリストとの結合(v.5-8)
 それにしても、パウロがここで「天から与えられる住まい」をあえて「着る」と言い表した意図はどこにあるのかをもう少し掘り下げておきたいと思います。そこで5節から8節をお読みします。「私たちをこのことにかなう者としてくださった方は神です。神は、その保証として御霊を下さいました。そういうわけで、私たちはいつも心強いのです。ただし、私たちが肉体にいる間は、主から離れているということも知っています。確かに、私たちは見るところによってではなく、信仰によって歩んでいます。私たちはいつも心強いのです。そして、むしろ肉体を離れて、主のみもとにいるほうがよいと思っています」。
 ここで、パウロが「キリストを着る」、「新しい人を着る」、「朽ちないものを着る」と同じようにして「天からの住まいを着る」というとき、「着る」という言葉を用いることを受け取るための大事なことが記されます。それは父なる神がその保証として聖霊を私たちに与えてくださったということなのです。「着る」とはまさに私たちが主イエス・キリストと一つにされること、主イエスを着て一体となり、固く一つに結び合わされることを意味します。教理の言葉でこれを「キリストとの結合」と呼ぶのですが、これは私たちがガラテヤ書でも深く学んだもので、私たちの救いの中心に位置する大切な真理です。つまり「天からの住まいを着る」とは、私たちが天へと挙げられたキリストと一つに結び合わされていくことを表しているのです。では天へと挙げられたキリストとはいかなる御方でしょうか。それは私たちのために十字架に掛かって罪の身代わりを成し遂げ、その死に打ち勝って三日目によみがえられたキリスト、死者の中からの初穂として、主を信じる私たちに罪の赦しと永遠のいのちの祝福を勝ち取り、やがては主を信じる私たちをもともによみがえらせてくださる復活の希望なるキリスト、まさに救いの完成としてのキリストです。このキリストと私たちが一つに固く結び合わされる。この時を待ち望んで生きるのが地上の旅路を進む私たちの姿なのであり、先に天へと召されていった兄弟姉妹たちは、このキリストとの結合の完成のために今、御国にあって備えておられるのです。
 この希望を確かに私たちに約束し、保証し、キリストと私たちを結び合わせる絆の役割を果たしていてくださるお方、それが聖霊なる神であられます。この聖霊によるキリストの結合の恵みについて、宗教改革者カルヴァンが『キリスト教綱要』の第三篇でこう言っています。「我々がキリストから救いを期待するのは、彼が遠くに見えるからではない。我々が彼の体に合わされ、単に彼の一切の恵みに与るのみならず、彼そのものに与るからである」。「キリストは我々の外にあるのではなく、我々の内に住み、また分離できない交わりの絆によって我々と結び付くのみでなく、驚くべき結合によって、日々ますます成長する交わりによって我々と一つになり、ついに全く一つになるのである」。まさに父なる神は聖霊を通し、一度きりの洗礼の恵みによって私たちを御子イエス・キリストと一つに結び合わせ、そして繰り返しあずかり続け、今日もここに備えられている主の晩餐の恵みによって私たちをますますキリストと一つに固く結び合わせ続け、ついには天の御国において完全に私たちを御子イエス・キリストと一つに結び付けてくださるというのです。

(4)主に喜ばれる歩みを(v.9-10)
 最後に9節、10節。「そういうわけで、肉体の中にあろうと、肉体を離れていようと、私たちの念願とするところは、主に喜ばれることです。なぜなら、私たちはみな、キリストのさばきの座に現れて、善であれ悪であれ、各自その肉体にあってした行為に応じて報いを受けることになるからです」。私たちがこの朝、召天者記念の礼拝を捧げるのは、故人の偉業をたたえたり、その死を顕彰したりするためではありません。彼らを地上の苦しみの幕屋から解き放ち、もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない天の住まいへと移してくださった主なる神をたたえ、その御方の前に礼拝を捧げ、また私たちもいずれはこの地上の旅路を終え、幕屋の生活、寄留者の生活に終止符を打ち、キリストに結ばれた天の住まいへと移されていくことを願い、日々を歩む思いを新たにされるためなのです。
 私たちの毎日は、このような永遠への思いを抱きつつ生きるには余りにも忙しすぎ、また目の前の事柄に心も頭も目も耳も一杯になってしまいやすいものです。毎日の株価の値動きに一喜一憂しながらいのちを縮めて生きるようなものです。けれども主はこの朝、私たちに死を越えて生きる望みを与えていてくださる。そしてこの望みに立つとき、私たちはこの地上の営みの本当のものと過ぎゆくもの、絶対的なものと相対的なものとを見極める澄んだ眼差しを与えられる。そして本当に私を支え、励まし、生かす希望となるものはいったい何であるかを教えられるのです。御言葉はこの朝、私たちにこう語りかけます。「そういうわけで、肉体の中にあろうと、肉体を離れていようと、私たちの念願とするところは、主に喜ばれることです」。主に喜ばれる歩み、それは与えられた一日一日を、主が与えてくださったがゆえに価値ある時として受け取り、神を愛し、隣人に仕え、食べるにも飲むにもひたすら神の栄光が表されることを願い、主を私の救いと喜びたたえて生きる歩みです。その時に私たちは聖霊によってキリストとますます固く結び合わされ、天から与えられる住まいに至るまで、その結合を確かなものとしていくことができるのです。

 



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