召天者記念礼拝 2006/11/05
『信仰によって語る』

ヘブル11:1-16

私たちはこの朝の礼拝を「召天者記念礼拝」として、すでに天に移されやがて終わりの時のよみがえりを待つ主にある兄弟姉妹たちを覚えつつ集っています。そこで今朝はヘブル人への手紙11章に記された旧約の信仰者たちの姿から、私たちに与えられている天の御国の希望についての御言葉を聞き、それによって主にある希望を新たにし、互いに慰めと励ましを与えられたいと願います。

(1)信仰、希望、保証、確信(v.1-3)
 牧師の主な務めは御言葉の取り次ぎと牧会にあると言うことができますが、牧会と言う言葉は「魂を看取ること」と説明されることがあります。そこから牧師を「魂の看取り手」と呼ぶことがあるそうです。私自身もこれまで十数年の牧師としての奉仕を続ける中で幾人かの愛する兄弟姉妹たちを御国に送ってきましたが、そのお一人一人との最後の時を思い返すと、確かに魂の看取り手としての務めを委ねられている厳かさを深く感じるものです。臨終間際に信仰の告白に導かれた方もあれば、長年の信仰の歩みを立派に歩み抜いて召されていった方もあります。壮絶な病いとの戦いの中で奮闘し尽くした方もあれば、思いがけないことで天へと天翔て行かれた方もあります。そういうお一人一人とのそれこそ本当に忘れることのできないかけがえのない最後の時の経験を積み重ねる中で、絶えず考えさせられるのは、臨終の床にある人に最後の最後に牧師としてどのような言葉をかけ、どのような言葉を握らせて天国に送り出せるかということです。そこで私自身が特に心に留めているのが今日開かれておりますヘブル書11章の御言葉なのです。本来ならばその全体を読んでおきたいところですが、今日は16節までで区切っています。しかしそれだけでも十分に信仰の中心的なことが語られている、そんな御言葉であります。特に、私たちの信じる信仰のとても大切なことを語っているのが1節から3節です。「信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。昔の人々はこの信仰によって賞賛されました。信仰によって、私たちは、この世界が神のことばで造られたことを悟り、したがって、見えるものが目に見えるものからできたのではないことを悟るのです」。
ここには信仰とはいかなるものか、という信仰の本質が端的に語られています。信仰とは私たちに与えられている天の御国と永遠のいのちの希望を確かなものとして保証し、いまだ目にしておらず、手にしてはいないその永遠のいのちの確かさを今、私たちに確かに確信させるものだというのです。よく教会の葬儀に参列された未信者の方が、深く感銘を受けたと感想を漏らされることがありますが、ある意味で結婚式よりも葬式の方がキリスト教信仰の真髄がよく表されるということができるでしょう。またよく神学生たちに話すのですが、葬儀の説教においてこそその説教者の信仰理解、福音理解が最もよく表れてくるということがあります。確かに人の死という厳粛な事実を前にしてこそ、その死を越えてなお天の御国の希望を示す福音の希望が明らかにされるのです。使徒パウロは「もし死者の復活がなかったら、私たちは今なお希望を持たない一番哀れな者だ」と語っていますが、私たちにはすでに私たちの罪の赦しと永遠の命を得るために身代わりとなって十字架についてくださり、死んで葬られ、三日目に死人の中から初穂としてよみがえってくださったただ一人の救い主イエス・キリストのおかげで、永遠のいのちの希望を告白し、目に見えない天の御国の約束を今、確かに信仰によって深く確信することができるのです。

(2)彼は死んだが、信仰によって今もなお(v.4-12)
 ヘブル書の著者がこのような信仰者の姿の先駆けとして救い主イエス・キリストがお出でになる前の時代、すなわち旧約の時代の信仰者たちの姿を紹介しているのが今日の11章ですが、そこではまずアベル、エノク、ノア、アブラハム、そしてサラの名前が挙げられます。これらの人々はすべて今、夕の礼拝で読み進めている創世記の中に出てくる人物たちです。最初の人であるアダムとエバが出てこないでその息子であるアベルが冒頭に紹介されるのは不思議な感じがしますが、恐らく彼が聖書の中で一番初めにその信仰を賞賛された人物だったからでしょう。さらにはアブラハムの息子イサク、その息子ヤコブ、そしてヨセフ、さらには出エジプト記に入ってイスラエルの指導者モーセ、出エジプトの民、さらには約束の地カナンでイスラエルを助けた遊女ラハブの名前まで出てきます。また後半の32節には「これ以上、何を言いましょうか。もし、ギデオン、バラク、サムソン、エフタ、またダビデ、サムエル、預言者たちについても話すならば、時が足りないでしょう」とイスラエルの歴史に名だたる人々が紹介され、そしてついに35節から40節にかけてはイスラエルの苦難の時代に、主なる神への信仰を貫き通して殉教を遂げていった無名の人々のことが記されていくのです。
その中で特にこの朝、私たちが目を留めておきたいのが4節でアベルについて語られている次の御言葉です。「彼は死にましたが、その信仰によって今もなお語っています」。実に驚くべき言葉です。アベルがその信仰によって今もなお語っている。実はヘブル書の書かれた紀元一世紀というのはローマ帝国によるキリスト教会への迫害が日に日に激しさを増していく時代でした。彼らにとってはキリストを救い主として信じ、告白し続けることが文字通り命がけの戦いと結びついてくる迫害の時代、殉教の時代を生きていたのです。そんな中でこれらの人々に慰めと励ましを与えるために記されたのがこのヘブル書ですが、これは手紙というよりも説教であるというのが正しい理解です。つまりこれから迫害の中で命の危険に直面し、そして恐らく少なくない人々が命を失って行くであろう状況を前にして、彼らに御国への希望と約束をしっかりと握りしめさせて天へと送り出す魂の看取り手としての言葉、それがこのヘブル書という書物なのだということです。そのヘブル書が、あの創世記の初めの4章で神への礼拝の姿を賞賛されながら、兄カインの妬みをかって荒野で殴り殺されるという悲劇の最期を遂げたアベルを指して、そんな犬死にのような最期を遂げたアベルですら、今も信仰によって語っていると言う。それはこの説教を聴く信仰者たちにとって本当に大きな慰めであったであろうと思うのです。本当にささやかな自分の信仰の生涯が、後の教会に生きる人々への何かの助けになる、信仰の支えになる、励ましになる。そうやって主に用いていただける。それは主の栄光の輝きの中でこそ用いられる信仰者の生の真実な姿と言うことができるのではないでしょうか。
 今朝、皆さんのお手元に私たちの教会の天に召された兄弟姉妹たちのお名前の一覧をお配りしています。今日のために教会の記録を改めて繙き、確かめることができただけで17名の兄弟姉妹たちを天にお送りしたことになります。下は生後七ヶ月から上は90歳を越えた老聖徒まで。40年という教会の歩みと、今いる教会員の数からしてこの17名という人数を多いと見るか、少ないと見るかはそれぞれでしょうが、少なくともこれだけの信仰者たちが今もなお、それぞれの生前の主に仕えた姿を通して私たちに語ってくれているのです。先ほど後藤姉の最期の時の様子を娘さんの干場姉が証ししてくださいましたが、ここにおられる殆どの方々は彼女の信仰者としての姿を見てはいない。ここで一緒に礼拝を守ったこともない。病床で信仰告白に導かれ、自宅で洗礼を受け、最初で最後の主の晩餐にあずかり、そして再び病床で天に召されていった一人の姉妹です。けれども確かに彼女は今なお信仰によって私たちに語りかけている。そのことの恵みをしっかりと受け取っておきたいと思うのです。

(3)天の故郷をあこがれて(v.13-16)
 これらヘブル書11章の記事を通して主なる神がこの朝、私たちに語りかけておられるメッセージは一貫しています。それは彼らの生き様、死に様が私たちが信ずべき信仰の本質と、私たちが抱き続けるべき希望の確かさを物語っているということでしょう。それが13節から16節に記されている御言葉です。「これらの人々はみな、信仰の人々として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるかにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり、寄留者であることを告白していたのです。彼らはこのように言うことによって、自分の故郷を求めていることを示しています。もし、出て来た故郷のことを思っていたのであれば、帰る機会はあったでしょう。しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。事実、神は彼らのために都を用意しておられました」。旧約の信仰者たちがその生涯をもって私たちに語った信仰の真髄、それは私たちが天にまことの住み処を持つ者であるということです。天の御国こそが私たちの帰るべき故郷であり、この地上での歩みは旅人、寄留者としての日々である。私たちは先に天に召されていった信仰の兄弟姉妹たちを思い起こす時に、彼らの為した業、彼らの業績、彼らの地上での働きを覚えるのではない。むしろ彼らが目指して行き、彼らが確かに迎えられていった天の御国の確かさと、そこに私たちをもまたいずれの日にか必ずや迎え入れてくださる主イエス・キリストの父なる神の愛と恵みと真実をこそ覚えるべきでしょう。
 天の故郷にあこがれる生き方。それが私たちの信仰の歩みの一つの確かな姿です。人は一生懸命に人の死に意味づけを与え、その死が尊いものであることを演出し、それを様々な機会に利用しようとさえするものです。しかし私たちにとっては人の死の意味づけは人が後から与えるものでなく、ただ人のいのちの始まりから終わりまでを支配したもういのちの主なる神のみが与えてくださるものであることを信じ、確信しています。「主の聖徒たちの死は、主の目に尊い」と詩篇は歌い、「これより先、主にあって死ぬ死者は幸いである」とヨハネ黙示録が語る通りです。それゆえにこそ、私たちはこの朝、あらためて主にあって召されていった兄弟たちの、その信仰が物語る天の御国と永遠のいのちの希望とその約束の確かさを私たち自身の確信とさせていただいて、私たちもまた天の故郷を憧れながら、目の前にある信仰の馳せ場を走り抜いてまいりたいと願うものです。

 



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