東日本大震災から二年を迎えての主日朝拝 2013/03/10
『すべての慰めの神』

IIコリント1:3-7
 
 明日で東日本大震災から二年を迎えます。今なお多くの痛みや悲しみの中にある人々、私たちも決してこれらの人々と無関係に生きる者ではありませんが、しかしそれでも特にこれらの人々の上に、愛と慈しみに富みたもう生ける神様からの慰めと力が豊かに注がれるよう祈りつつ、また私たちにも慰めの神が伴ってくださることを願って、主の御言葉に聴いてまいりたいと願います。この朝も、愛する兄弟姉妹お一人一人の上に、主の豊かな祝福がありますように。

(1)あれからの日々
 昨日、いのちのことば社から二冊の本が送られてきました。一冊は3.11ブックレットの最新刊で、私たちの教団も運営に参加している「ふくしまHOPEプロジェクト」のコーディネーター、中島恭子先生による『子どものいのちを守りたい ? 子ども保養プロジェクトの願い』、もう一冊は、福島に住む16名の牧師や牧師夫人、信徒の方々による証言集、『フクシマのあの日・あの時を語る』です。どちらも出版に際して私自身も若干の関わりがあったので、出版社の方が送ってくださったものでした。一冊目は原稿段階で著者から依頼されて目を通させていただいており、二冊目は出版のもとになった昨年秋の須賀川での証言集会に私も出席していたので直接うかがったお話もあったのですが、やはりあらためて活字になったものはずっしりと重い響きがあり、昨日の午後、説教準備の手を休めて読み始めて結局二冊とも終わりまで読み通してしまいました。
 特に二冊目の『フクシマのあの日・あの時を語る』は、3月11日当日の地震の激しさとその直後の大変な被害、続く福島第一原発の水素爆発と放射能汚染を巡る緊迫した様子、それを経験したお一人一人の恐怖や不安、混乱、迷い、後悔などがありのままに記されていて、読みながらあらためて震災当日の記憶がまざまざとよみがえってくるような感覚になりました。この本の成り立ちの一つのきっかけがあります。それは昨年の夏過ぎだったでしょうか。郡山の教会でHOPEプロジェクトの事務局会議があった際、会議の終わった後でお茶を飲みながら、福島の先生方がポツリポツリと震災当日の様子を語り始められました。それまでは福島の牧師たちは自ら被災者でありながら、休む間もなく被災者支援に文字通り駆け回って来ており、自分の心の内を整理したり、正直な気持ちを打ち明け合うようなことができずに来たというのです。でも本当はこういう話がしたかったんだよね、という先生方の声に真実なものを感じ、ぜひそういう時があるとよいという会話になりました。これも一つの契機となって、秋に須賀川で「福島の震災を語る会」が開かれ、さらに証言集の出版の話へと発展していったのでした。
 私は震災直後の3月14日に茨城県北からいわきに行ったのを皮切りに、その後も相馬、須賀川、いわき、そして2011年の秋に福島市の会合に出るようになってから福島の牧師方との関わりが深くなり、特に昨年5月以降、子ども保養の働きの立ち上げに参加するようになってからは毎月のように福島に通うようになりました。そこでずいぶん多くの先生方との交わりを与えられるようになりましたが、東京から足繁く通ってくれて、と労いの言葉をかけていただく一方で、しかし福島の働きに関わりつつも、自分は所詮東京の人間、当事者とは言えない存在だと言うことに、どこか
気後れを感じていたのも事実です。そんな中で二年の月日が経ち、あらためてこの朝、私たちの立ち位置がどこにあるのかを御言葉から教えられたいと願うのです。

(2)慰めにおける連帯
 3節。「私たちの主イエス・キリストの父なる神、慈愛の父、すべての慰めの神がほめたたえられますように」。ここで私たちは「慈愛の父、すべての慰めの神」に向かって祈る、パウロの立ち位置がどこにあるのかを考えたいのです。私たちはしばしば慰めを受ける側であるよりも、慰めを与える側に立ちたいと願うものです。苦難の中に置かれている隣人の傍らに寄り添うように立ち、慰めの言葉を掛ける者でありたいと願うのです。そして時には、そのように隣人を慰めることのできる自分の姿に自分自身の慰めを見出すことすらあるのです。しかしそこにはある危うさが潜んでいることに私たちは気づかされなければなりません。なぜならそこにおいて見出される自らの姿とは、どこかで一段高いところに立って上から見下ろす位置に立っている姿であり、自分は慰めを必要としない強い人だとする姿であり、そこから向けられる視野の中に入ってくるのは、自らが慰めなければ立つことの出来ない弱い人々の姿だからであり、そうやって知らず知らずの間に相手に対する優越感によって自分を慰めるということが起こってくるからです。
 けれどもここでパウロは自らがまず主イエス・キリストの父なる神を慰めの神と呼んでいます。彼は知っているのです。自らもまた神の慰めを必要とする存在であるということを。私自身もこの二年間、教団の震災支援の働きに携わって来る中で、自分の弱さ、慰めを必要とする弱さを何度も痛感しました。震災直後からの数ヶ月は心に火がついたようになって支援の働きに突っ走ってきました。体重が落ち、声が大きくなり、耳の聞こえが悪くなりました。神学書などが読めなくなり、いつもどこかでアドレナリンが出続けているような状態が続きました。被災地の様子を見ると、東京にいることに罪悪感を感じたり、被災地から帰ってくると東京のあまりの普通な様子に苛立ちを感じたりもしました。かといって被災地に行くと自分はよそ者だという感覚に襲われて、いつも後ろめたい思いをしていました。そのような中でとても疲労感を感じ、時には被災地に出かけていくことがおっくうに感じることもあるようになりました。
今にして思うと少しバランスを欠いたような状態であったと思います。後になって災害トラウマの専門家や心理学の先生が書かれた本や、震災関連のシンポジウムでご一緒した臨床心理の先生のお話しから、自分も典型的な支援者側のストレスの症状が出ていることを知らされました。「大丈夫、大丈夫」といって働き続けていましたが、実は大丈夫ではなかったのだと気がつかされたのです。
 続けて御言葉は語ります。4節。「神は、どのような苦しみの時にも、私たちを慰めてくださいます。こうして、私たちも、自分自身が神から受ける慰めによって、どのような苦しみの中にいる人をも慰めることができるのです」。ここで私たちが御言葉から教えられたいのは、私たちは苦しみの中にある隣人の傍らに、その隣人とともに立つことができるのは、私たちが彼らと同じあらゆる苦難を経験しているからではない。むしろ自らも自分自身の苦しみの経験の中出、慰めの神との出会いを経験する。その経験においてだ、という言うことなのです。
 多くの場合、私たちが苦難の友を励ます時には、自分の中にそれとなるべく共通した経験を思い起こしながら、その時の自分の気持ちを反復しながら、その中から汲み取った経験をもって共に立とうとするものです。いわば「苦難における連帯」とも言うべきものです。しかしそれが本当の意味での慰めを与えることになるか、ということは充分に考えるに価することでしょう。むしろそこではその隣人の苦しみは、私が経験した過去の苦しみのジャンルに分類され、置き換えられ、時には私の経験の中に解消されてしまうおそれがあるのです。「あなたの苦しみが分かる」というのは、よほど注意して使わなければならない言葉です。まして信仰者ならなおさら、ということではないでしょうか。
 けれども御言葉が指し示している所は、苦難における連帯ではなく、むしろ「慰めにおける連帯」と言うことです。私たちがあらゆる苦難の中にある兄弟姉妹たちを慰めることができるのは、私がそれと同じあらゆる苦難を経験しているからではなく、極めて個別的な、そして孤独の中での苦難に直面しながら、父なる神によって慰められ、また今もなお慰められ続けているからなのです。主イエス・キリストの父なる神によって慰められた者であるがゆえに、私たちもまた慰めを与えることができる。そして私も隣人も、共にこの神の慰めを必要とし、そしてその慰めを共に受ける者であるがゆえに、そこにおいて共に立つことが許されるのです。これが慰めの経験において共に立つということの意味です。
 私がこのことを経験したのは、震災の年の9月の一泊修養会の時でした。夜の9時過ぎから皆さんが松原湖のシオンキャビンの食堂に集まり、お茶を飲みながらひとりひとりが自分の311の出来事について語るという分かち合いをしました。地震の時、どこにいて、どんな様子だったか、どんなことを考えていたか。そして今どんな思いでいるか。そういうことを一人ずつ話していったのです。全員が語り終わったときはすっかり日付も変わっていました。この時間が私にとって本当に大きな癒しの時間となりました。やっとそこで落ち着きを取り戻すことができたと言えます。教会の交わりの中で自分もまた助けられ、慰められ、回復させられていることを実感したのです。ああ自分はこの交わりの中にいてよいのだ、ここが自分が帰ってくる場所なのだとしみじみ思いました。これは本当に幸いな、感謝な経験でした。

(3)すべての慰めの神
 さらに5節。「それは、私たちにキリストの苦難があふれているように、慰めもまたキリストによってあふれているからです」。このように、父なる神から来る慰めは、御子イエス・キリストの苦しみが満ちあふれるという仕方で私たちのうちにもたらされ、キリストの苦しみの充満のゆえに、私たちに今、慰めが満ちあふれているのです。つまり私たちの味わう苦難は、それがいかなる苦難であろうと、私たちがすでにキリストのものとされているがゆえにキリストの苦しみに与ることと無関係ではないのです。しかもそれは同時に、キリストのお受けになった苦しみが私たちの罪のための身代わりであったがゆえに、それは満ち溢れるほどの慰めなのです。
 そこでは私と私の隣人の間では本来成り立つことのない「苦難における連帯」が、ただキリストと私との関係においては成り立っている。いやそれは連帯などと言うものではない、それは苦難の身代わりであります。本来私たちが担うべき罪の苦しみを主イエス・キリストが替わって担い、その呪いを受けてくださり、そればかりでなくその呪いとしての死に打ち勝ってくださった、ここに私たちの根源的な慰めがあるのです。このことは言い換えるならば私たちが御霊によってキリストに結ばれて一つとされているということです。ハイデルベルク信仰問答が「生きるにも、死ぬにもあなたのただ一つの慰めは何か」と問い、「私がイエス・キリストのものである、ということ」と答えている通りです。御霊によってイエス・キリストに結ばれている、それが私たちの唯一の慰め、根源的な慰めなのです。
 最後に6節、7節。「もし私たちが苦しみに会うなら、それはあなたがたの慰めと救いのためです。もし私たちが慰めを受けるなら、それもあなたがたの慰めのためで、その慰めは、私たちが受けている苦難と同じ苦難に耐え抜く力をあなたがたに与えるのです。私たちがあなたがたについて抱いている望みは、動くことがありません。なぜなら、あなたがたが私たちと苦しみをともにしているように、慰めをもともにしていることを、私たちは知っているからです」。真の慰めはキリストにある。そして教会はかしらなるイエス・キリストに結ばれたゆえに、人々と苦難を共にし、慰めを共にするのです。
 今も被災地では多くの困難が続いています。8日の警察庁の発表では震災で亡くなった方が15,881名、今も行方不明の方が2,668名、この二年間で病死や自殺で亡くなった震災関連死の方が2,303名。避難生活を送っている方が約315,000名、特に県外避難されている方が一番多い福島県で約57,000名。この現実を前にして、誰が真の慰め手としてこれらの人々とともに立てるのかと考えさせられます。本当の慰めを与えることがおできになるのは、すべての慰めの神であられる御父がお遣わしになり、私たちを愛して、私たちのための苦難をすべてその身に担ってくださった御子イエス・キリストです。この方のみんが真の慰め、生きるにも死ぬにもただ一つの慰めです。この慰めを担って今日からもまたともに苦しみ、ともに悩み、ともに痛み、ともに泣き、それでもそこから天を見上げて、ともに喜び、ともに支える者として主にある愛に生きる教会でありたいと願います。そこに私たちの拠って立つ場があり、そこに誠実に立つ時に、主は私たちの限界を超えて、私たちを真の慰めを伝える慰めの器として用いてくださるのです。



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