東日本大震災から一年を迎えての主日朝拝  2012/03/11
『ガリラヤからの声』

マタイ4:12-17
 
 この朝、私たちは特別な思いを抱きながらこの礼拝に集められています。今、この時、愛と慈しみと慰めに満ちたお方、御自身の創造された世界も今も確かな父親らしい御手をもって統べ治めておられる主なる神の御前に心を静め、御子イエス・キリストの与えてくださる愛と癒しと救いを感謝し、聖霊の豊かな慰めと励ましをいただきつつ、この父・子・聖霊なるただお一人の生けるまことの神を心からほめたたえ、礼拝をおささげしたいと思います。
 この朝は、御言葉の説き明かしというよりも、祈って送り出されて教団の震災対策の働きを続けてきたこの一年を振り返っての証しをさせていただきたいと願っています。

(1)この一年のこと
 昨年のこの日、3月11日の午後2時46分に大きな地震が起こりました。その後、岩手、宮城、福島、茨城、千葉にかけて大きな津波が押し寄せて町や村、家々と人々を呑み込んでいきました。そしてその日の夜から福島第一原発は制御不能に陥って暴走をはじめ、ついには大量の放射性物質をまき散らし、東北を中心とした広い地域とそこに住む人々が放射線被曝の続く中に今も身を置いています。震災直後から数日の間、この国はこの日を境に一変してしまった。もう何もなかったかのようにして、今までのように生きていくことはできない。そう思いました。しかし一年を経てどうでしょう。人々の思いはだんだんと二つに分かたれていっているように思います。それ以前と何かも変わらなかったかのように元通りに生きている人々と、今なお一変してしまった現実の中に置き去りにされてしまっている人々。いつまでもこのことばかりを考えてはいられないと次に向かって進んでいく人々と、どこに向かって生きていけばよいのか目当てを失い、うずくまったまま一歩も動き出すことができないままの人々。私たちの中にも思いは決して一様ではないように思います。
 今回の震災は人々の中に多くの仕切りや壁を作っていったのだと思います。私が始めて被災地に入ったのは震災から三日後の3月14日の夜でした。集められるだけの水や食糧、ガソリンと救援物資を車に積み込んで茨城、福島に向かいました。すでに12日には福島第一原発の1号機、14日の午前には4号機が水素爆発を起こしていました。14日の夜中に水戸で車中泊し、15日の早朝からさらに北を目指したのですが、15日の朝6時過ぎに2号機、4号機からも爆発音がして周辺の放射線量が一気に上昇し、まもなく茨城から福島に向かおうかというところで理事長や社会局長から電話があり、引き返してくるようにという指示を受けました。いわきにはこちらの物資が届くのを待っている教会があるのは分かっていました。ですから近付きたいのに近付きがたい、そんな目に見えない仕切り、大きく立ちはだかる壁を感じました。その地を見捨てるような後ろめたさを感じながら車を方向転換させてしばらく走ったところで携帯電話が鳴りました。いわきの牧師からでした。先生、いつ来てくれますか、今どこですか。ずっと待っているのですが、という声でした。これこれこういう事情で先生たちの所には行けなくなりました。申し訳ありません。と答えました。電話の向こうで先生のもらした絶句の中からのため息を忘れることができません。せめて子どもたちだけでも東京に連れて行ってほしいと思っていたのにと言われました。すみません。また必ず出直して来ます。そういって電話を切りました。あの時の気持ちを思い出すと今でも心拍が上がってきます。しばらく走ったところで道端に車を止めて、助手席のY先生に「いわきに行きたいんだけど」と言いました。Y先生は間髪入れず「いいよ」と言ってくれました。それから二人で祈りをささげ、理事長に電話をいれて二人の思いを伝え、ここから先は自分たちの責任で行きますと告げ、ふたたびいわきの牧師に電話を入れてそちらに向かうことをお伝えしました。再び車を方向転換させていわきを目指して国道を北に向かいました。反対車線はいわき方面から南下してくる国道は大渋滞で、いわきに向かう道は前を見ても後ろを見ても私たちの車だけ。道路脇は崩れた家や津波で流された車や瓦礫が散乱していました。そうしてようやく到着したいわきの南、勿来の町はほとんど車も人もおらず、教会にだけ明かりが灯っていました。玄関先でS先生と抱き合って無事を喜び合い、K先生の三人のお嬢さんをお乗せして帰途に着いたのでした。そのまま先生方はいわきに留まり続けて今に至るまで休む間もなく働き続けておられます。
 それ以来、毎日のように教団事務所に集められた物資をトラックに載せて、福島、南相馬、仙台を往復する日々が続きました。はじめて3月24日に仙台を訪れたとき、最初は仙台市内がいつもと変わらない姿に驚きましたが、やがて沿岸部に近付くにつれて高速道路を境に町の風景が一変し、日も暮れた時間に若林区の荒浜の見渡す限り一面瓦礫との街と化した壮絶な光景の中に身を置いて、言葉を失いました。ここでも津波が押し寄せたところと、そうでないところには明確な線が引かれ、仕切りの壁があったのだと思います。余談ですが仙台のぞみ教会のA先生を訪ねたとき、先生今何が一番必要ですかとお尋ねしたらプリンターのインクがなくなって困っていると言われたのが何とも言えずおかしくも悲しいやりとりでした。4月に入ると岩手の沿岸部を初めて訪ねました。4月とはいえまだ雪の降り続く中、盛岡みなみ教会のO先生の車で二時間かけてまず宮古の田老に行き、そこから三陸沿岸沿いに山田、大槌、釜石、大船渡を一日かけて回りました。集落が近付くたびに瓦礫の山となった姿を見続け、そんな瓦礫の街のあちこちに散らばっている避難所を訪ねて歩くO牧師の後ろ姿に主イエスのお姿を重ねて見る思いがしました。ここにも内陸部とは仕切られた沿岸地の現実がありました。このような数々の仕切りや壁は目に見えるものだけの話しではありません。家が全壊になった人と半壊の人、家族を失った人とそうでない人、避難所に入れた人とそうでない人。そういう人々の中に様々な違いが時に表面化し、互いに反目しあったり、互いを退け合うことがありました。支援物資の配布の場面では小さな争いやいざこざを目の当たりにすることもしばしばでした。
 その後も石巻、塩竈、気仙沼、陸前高田、そしてこの数ヶ月は再び、いわきや福島に通っていますがそこでは原発からの避難距離による複雑で難しい線引きがあり、目に見えない隔ての壁はますます高くなっているように思えてならないのです。

(2)ガリラヤからの声
 そのような中でこの数ヶ月、心に留まっているのがこの朝開かれている御言葉です。まず12節から16節。「ヨハネが捕らえられたと聞いてイエスは、ガリラヤへ立ちのかれた。そしてナザレを去って、カペナウムに来て住まわれた。ゼブルンとナフタリとの境にある、湖のほとりの町である。これは預言者イザヤを通して言われた事が、成就するためであった。すなわち、『ゼブルンの地とナフタリの地、湖に向かう道、ヨルダンの向こう岸、異邦人のガリラヤ。暗やみの中にすわっていた民は偉大な光を見、死の地と死の陰にすわっていた人々に、光が上った』」。主イエスの時代のユダヤにおけるガリラヤという場所。それは「ヨルダンの向こう岸、異邦人のガリラヤ」という言葉に言い表されているように、エルサレムという中央の場所から見れば東北の土地、辺境の場所、疎外された場所を意味していました。確かに平地のガリラヤや山地にある都エルサレムに比べれば土地も肥沃で、人々の往来も活発な場所であったと言われますが、しかしそこに住む人々は「暗やみの中にすわっていた民」、「死の地と死の陰にすわっていた人々」と呼ばれるように、絶えず中央のエルサレムからは異邦人の町として蔑まれた人々であったのです。仙台にある新聞社で、今回の震災において地元紙として大きな貢献をした「河北新報社」という会社があります。この「河北」というのは、明治維新の時に、時の新政府を率いた薩摩、長州の人々が、「白河以北一山百文」と言った言葉。すなわち白河の関の北の向こうの土地は一山でも百文にもならない荒れ果てた土地だという侮蔑の言葉だそうで、これに対して東北の気概を見せるために敢えて『河北新報』と名前を付けたと言われています。こういうところにも聖書の時代のユダヤにおけるガリラヤの位置と、この明治以来の日本における東北の位置というものが重なって見えてくるように思えてなりません。
 しかし、主イエス・キリストが私たちに救いをもたらすために、神の国の福音を宣べ伝える公の生涯のスタート地点として選ばれたのは、ユダヤ人であれば誰もがメシアの登場を期待するユダヤの都エルサレムでなく、ガリラヤでした。ガリラヤでも主都テベリヤでなく、決して中心地でなかったカペナウムであった。このことの意味を深く考えさせられています。とりわけこの朝心に刻みたいのは、このガリラヤから発せられた主イエス・キリストの宣教の第一声です。17節。「この時から、イエスは宣教を開始して、言われた。『悔い改めなさい。天の御国が近づいたから』」。「この時から」と「ガリラヤから」という二つの言葉を心に留めましょう。「この時」とは人々が希望を失い、神を忘れて霊的な暗黒の中に生きていた時代です。ローマの圧政やますます強まり、人々は重税に喘ぎ、先の見えない暗闇の時代。そんな時代の中で救い主メシヤの到来を告げ知らせて暁のように走り去っていった洗礼者ヨハネも捕らえられ、光の兆しも潰えたかと思われた「この時から」、主イエスは立ち上がられました。その場所は人々が「まさかメシヤがこんな所からは」とまったく見落としていた場所、ガリラヤでした。そしてそのガリラヤから発せられた声こそがこれでした。「悔い改めなさい。神の御国が近付いたから」。

(3)悔い改めから始まる神の国
 聖書の教える悔い改め、メタノイアは単なる反省とか後悔ではありません。メタノイア、それは生き方の転換、方向転換を意味します。ガリラヤから発せられた生き方を改めよ、との主イエスの御声は、今の時代を生きる私たちへの語りかけの声でもあるのです。
 今日の週報の牧師室だよりに、少し踏み込んだ私自身の考えを記しました。私は震災直後から、今回の出来事が日本の教会に対して福音理解、宣教理解、教会理解の根本的な問い直しを迫るものであると感じ、機会あるたびにそのことについて語ってきました。しかしそれらの自分自身の認識の中で抜け落ちていたもの、震災後に新しく教えられたことに原子力発電の問題があります。実は震災の数年前から教団内の数名の牧師たちが原発の孕む問題性と浜岡原発に代表される原発災害を危惧し、教会として原発問題に対する姿勢を示すべきという声が挙がっていました。しかしその頃の私にはこの問題を理解することができず、無関心を装っていました。今回の震災当初も救援活動の背後で放射能被害の重大さを強調する声が聞こえることに反発を覚え、その声に耳を閉ざそうとしていました。しかしその後の放射能汚染の実態と原発行政を巡る欺瞞とを目の当たりにし、何よりも福島を行き来する中で苦しみ悩む方々の姿に触れる中で、自らの愚かさと認識の乏しさを示され、思いを新たにしています。
 確かにこの問題は複雑で、教会でも丁寧に学び、よく考える必要のあるテーマであることも事実です。私自身もまだこの半年あまりの間に二、三十冊の本を読んだだけで、原子力の仕組みや放射能汚染の問題、低線量被曝の影響などを巡る専門家同士の間でも論争の続いているテーマについて十分理解しているわけではありません。けれどもはっきりしていることの一つは、原子力発電行政を巡る様々な利権の政治の構造が、聖書の教える神様の正義と公正に照らして正しいとは言えないということです。東京の暮らしのために東北の村々に原発を置いてそこから電気が供給されている。ある書物に東京電力の送電網の一覧図があるのを見て、愕然としました。まさに東北と東京の関係は、まさにガリラヤとエルサレムのような構図だと思うのです。東京の人々が使う電気を作り続けるために東北の各地に原発が立てられ、今回の事故で福島は汚されてしまっている。今もこちらから同盟教団の相馬、原町の教会に行くには飯舘村を突っ切るようにして行かなければなりません。そこは高い放射線量の場所です。また福島市にある聖十字架教会、あるいは二本松の福音の家教会など、福島の中通り地区は今も高い線量に晒されています。先日の福島の先生のお話を聞きました。教会のすぐ近くでも役所が発表する何倍もの放射線量が測定されており、除染もまったく進んでいない。小さい子どもを持つ親や若い夫婦は県外に出るか留まるかで悩み、あるいは子どもを産むことに絶望してしまっている人々もある。教会は今できることとして子どもたちの低線量被曝を何とか避けさせようと一時的に県外に連れ出すプログラムを続けておられます。
 こういう現実一つを見るだけでも、私たちは主イエスが語られた「悔い改めよ」との言葉を真正面から受け取らなければならない、キリスト教会として原子力の利用にストップをかけなければならないと思うのです。神の国の建設を委ねられた神の民は、この世界を耕し、育てるとともに、この環境を守り、きよめていく大切な使命を与えられています。人間が神の座に上り詰めてこの世界を自分たちの所有物のように錯覚し、神の領域にまで手を伸ばして来た生き方から翻って、神の御前に謙虚に生きる姿へと転換することが今求められているのではないでしょうか。やがて来たりたもう主イエス・キリストの再臨の時、神の国をお返しするまで、私たちは忠実なしもべとして委ねられたこの世界に仕えて行かなければなりません。「悔い改めなさい。神の御国が近付いたから」。このガリラヤからの主イエスの御声を聞き、悔い改めから始まる新しい生へと一歩を踏み出したいと思います。



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