2020年度新年聖会・合同朝拝   2020/01/26
『主に感謝することは良いこと』

詩篇92:1-15
                              
 2020年の「新年聖会」の朝を迎えました。この年、私たちは詩篇92篇1節、2節の御言葉を与えられ、「神に感謝し、神を喜び歌う教会」として歩み出しています。プレイズタイムで今年のテーマソング「あなたへの感謝を」を歌いました。「朝にあなたの恵みを、夕にあなたの真実を心から喜び歌う」と歌ったように、この年の歩みが主への感謝と賛美に溢れたものとなるように期待します。
 この朝の合同礼拝と午後の聖会を通して、今年、私たちの教会に与えられた御言葉に聴き、御言葉に従って歩むこの一年の足並みを整えさせていただきましょう。主によって愛され招かれた愛するお一人一人の上に、主の豊かな祝福がありますように祈ります。

(1)感謝の信仰
 昨年の9月の終わり、2020年の教会の歩みについて集中的に祈り、考える時を持つために、信州の御代田にある「のぞみの村」という施設で「ひとりリトリート」ということで静まりの時を持ちました。日曜日の夕拝を終えて車で向かい、貸し切りのログハウスで火曜日までの二泊三日、ひとりで聖書を読み、祈り、散歩をし、思い巡らし、黙想をするという豊かな時間となりました。この間、特に詩篇をずっと読みました。こうして1篇から順を追ってゆっくりと読み進めていく中で心に留まったのが92篇でした。今朝は特に1節から4節の御言葉に集中して聴いておきたいと思います。「主に感謝することは良いことです。いと高き方よ、あなたの御名をほめ歌うことは。朝にあなたの恵みを、夜ごとにあなたの真実を告げることは。十弦の琴に合わせ、竪琴の妙なる調べにのせて。主よ、あなたは、あなたのなさったことで、私を喜ばせてくださいました。あなたの御手のわざを、私は喜び歌います。
 今年は私たちの教会にとって二つの点で大きな節目の年となります。一つはすでに覚えておりますように、1965年に初代宣教師アレン・フェーデル先生ご夫妻によってこの地で宣教が開始されてから55周年という記念の年を迎えるということです。いま一つは長年にわたり祈り、忍耐し、努力しながら励んできた新会堂建築事業がいよいよ着工を迎え要としていることです。この二つの「節目」はいずれも2020年が「途上」の年であることをあらわしていると思います。そのような途上の年をどのように過ごすのか、このことを昨年秋の静まりの中で考えました。私たちの教会は、これまでの教会の営みを基本的に10年という大きな区切りと、その間の5年という小さな区切りで記念して来ました。2005年の40周年、2015年の50周年では記念礼拝、感謝会、記念講演会を開催し、記念誌を発行するなどをして主の恵みを回顧しました。宣教55周年も60周年に向かう「途上」にあり、また会堂建築の「途上」にある年として過ごそうとしています。そのような中で私たちがこの地点ですべきことは何かということを祈る中で与えられたのが、92篇1節、2節。「主に感謝することは良いことです。いと高き方よ。あなたの御名をほめ歌うことは。朝にあなたの恵みを、夜ごとにあなたの真実を告げることは」との御言葉だったのです。
 考えてみますと、何事かの途上にあって「感謝する」というのは簡単なことではありません。何かが成し遂げられた時に、一つの区切りを迎えた時に、結果が目に見えてあらわれた時に、それまでを振り返って「感謝する」というのが自然なことでしょう。まだ成し遂げていない、区切りを迎えてもおらず、結果を見ていない段階で「感謝する」というのはなかなか難しいことでしょう。それでも「主に感謝することは良いことです」との御言葉は、私たちにある説得力をもって迫ってきます。そこには感謝すべき出来事があって、それについて感謝するという通常の順序を超えた、信仰の姿勢があらわれています。すなわち「主に感謝することは良いこと」という確信に基づく決心とも言うべきものです。感謝することをまず決めるということ、何事かの出来事への結果としての感謝でなく、私たちの主なる神への姿勢としての感謝、決心としての感謝、態度表明としての感謝とも言うべきものであり、聖書にはこのような「感謝の信仰」というものがあるのです。

(2)感謝をもって振り返り、感謝をもって仰ぎ見る
 詩篇92篇に附された表題には「賛歌。安息日のための歌」とあります。150篇ある詩篇の中で「安息日のための歌」という表題を持つのはこの92篇だけです。この詩の成り立ちの背景はそれほど定かではありませんが、安息日の神殿礼拝において歌われた歌であるということから、バビロン捕囚から解放されて祖国に帰還した民たちが、やがて再建したエルサレムの第二神殿時代の礼拝においてささげた賛美であろうと考えられています。苦難と苦渋に満ちたバビロン捕囚の時を過ごし、そこから解放されて帰還を果たし、エズラ、エズラやネヘミヤの時代、大変な苦労と犠牲を払って城壁再建、神殿再建を果たしたイスラエルの民が、安息日に礼拝に集まり、朝に、夜ごとに、神を賛美して歌った歌声。それが「主に感謝することは良いこと」という賛美だったのです。
 今日の詩篇のみならず、聖書の中には「感謝」が大切なこととして教えられています。私たちの信仰のあらゆる営みの根本にあるもの、それが感謝であると言ってもよいほどです。私たちの礼拝も、私たちの賛美も、私たちの祈りも、私たちの奉仕も、私たちの献金も、私たちの払うあらゆる犠牲も、そして私たちの生きることそのものも、それらはすべて神が私たちを愛してくださっていること、愛のゆえに神が為してくださったこと、ちょうどローマ書8章で教えられたように、神が御子イエス・キリストによって賜った救いの恵みと愛に対する「感謝」こそが、私たちを動かすすべての源です。この感謝を忘れる時、私たちの神の交わりにある種のズレや隙間が生まれてきます。それは時に義務感や負担感となってあらわれ、時に忘恩となってあらわれます。共通するのは主にある喜びの欠如です。だからこそ私たちは繰り返し、神が御子イエス・キリストにおいてあらわしてくださった愛に立ち返り、その愛の中心にある十字架のもとに立ち戻ることが必要なのです。 
 私たちが聖書から教えられる「感謝」の基本的なかたちを、大きく二つの視点で捉えておきたいと思います。一つは「過去を感謝をもって振り返る」ということ、いま一つは「未来を感謝をもって仰ぎ見る」ということです。詩篇92篇が4節で「主よ、あなたは、あなたのなさったことで、私を喜ばせてくださいました。あなたの御手のわざを、私は喜び歌います」と歌ったとき、そこではまさにこの二つの視点から世界が見つめられていました。「過去を感謝をもって振り返る」。4節前半で「あなたは、あなたのなさったことで、私を喜ばせてくださいました」と言うとき、そこでは直接的には捕囚からの解放の経験が、さらに遡ればイスラエルの民の救いの原体験である出エジプトの経験が思い起こされていたでしょうが、しかし捕囚解放の経験も、出エジプトの経験も、当然のことながら喜びの経験というよりは事柄全体は大きな苦難に満ちていました。しかし詩人が「主に感謝することは良いこと」と歌う時、そこでは過去の経験の中から感謝できる経験だけが選別されたり、抽出されたり、あるいは過去の経験が感謝のストーリーに書き換えられたりすることはありません。苦難の経験、痛みの経験、罪の経験、傷の経験、およそ感謝とはほど遠いような経験もすべてひっくるめて、それでもなおそれらが感謝の経験となって受けとめられているのです。こうして「過去を感謝をもって振り返る」ことは、「感謝し得ないことも含めて感謝する」という姿勢を私たちに教えているのです。
 また「未来を感謝をもって仰ぎ見る」ということ。4節後半で「あなたの御手のわざを私は喜び歌います」と言うとき、そこでの「御手のわざ」とは何を意味しているのでしょうか。もちろん神さまがいつも私たちに施してくださる慈しみの御手、日ごとの糧をもって私たちを養ってくださるあわれみの御手、私たちの手を取って導いてくださる愛の御手ですが、それとともにここでの「あなたの御手のわざ」とは、これから成し遂げられる神の救いの完成のわざを意味しています。この92篇には「安息日のための歌」とタイトルが付けられていると言いました。神の安息。それは天地創造の七日目、神が創造の御わざの完成を告げられたことのしるしでした。そして創造の御わざはさらに継続され、更新され、やがて真の完成の時を迎える。教理の言葉では「創造」から「再創造」への更新です。詩人はここでこの神の創造の御わざの成就と完成の時、神の再創造の時を仰ぎ見ながら、「主に感謝することは良いこと」と歌っているのです。こうして「未来を感謝をもって仰ぎ見る」ことは、「感謝を先取りする」という姿勢を私たちに教えます。まだ何事かが起こる先に神の約束を信じ、神の御手のわざを信頼して感謝する。感謝できるかをこちらが吟味して、判断して、それから感謝するかどうかを決めるというような、感謝のイニシアチブを私たち人間が持つのではなく、「主に感謝することは良いこと」と最初に態度を決めて、感謝を先取りしていく姿、また主が為してくださる恵みの御わざという事柄に結びつく感謝でなく、私たちに恵みの御わざを為したもうお方が良きお方であるという、生ける神御自身に結びつく感謝の姿勢を、私たちに教えているのです。
 
(3)朝に恵みを、夜ごとに真実を
 また92篇2節はこう歌います。「朝にあなたの恵みを、夜ごとにあなたの真実を告げることは」。ここには「朝・恵み」、「夜・真実」という二つの組み合わせが対照的に語られています。「朝に」、「夜ごとに」とは、安息日の神殿礼拝において、朝に夜に賛美がささげられ、礼拝がささげられていたことを意味しているのでしょう。また「恵み」と「真実」とは、主なる神御自身のお姿をあらわす特徴的な言い方です。主は私たちに対して恵み豊かなお方でいてくださる。私たちを愛し、私たちをいつくしみ、私たちとの間に結ばれた契約を誠実に果たし、私たちに溢れるほどの恵みを施してくださる。これまでもそうでしたし、これからもそうです。その信仰にしっかりと立つ者でありたいと思います。また主は私たちに対して真実なお方でいてくださる。私たちがどれほどに不真実であっても、不忠実であっても、恩知らずであっても、それでもなお主は私たちに対して絶えず真実を尽くし、御自身のあわれみと恵みをもって、私たちに対する祝福の約束を忘れることなく、途絶えさせることなく、果たし続けてくださっています。この主の真実にますます信頼し、主の約束の実現に向かって精一杯励む一年を送らせていただきたいと願っています。
 また詩人が歌った「朝に」、「夜ごとに」という言葉を心に留めます。安息日の礼拝に集う人々は、朝に、夜ごとに、主の御名をほめ歌い、主の恵みと真実とを告げ知らせました。その礼拝の姿を私たちも大切に受け継いでいきたいと思うのです。2000年秋にこの教会に赴任した当初のことを思い起こします。当時、日曜日は朝9時からの教会学校、10時半からの礼拝。12時に礼拝が終わると掃除をして、午後に役員会やCS教師会などの集まりがなければ13時には誰もいないという感じでした。今では考えられないことです。9月の終わりの日曜日に「小学校の運動会があるので、その日は早朝礼拝をしてください」と言われました。その日だけというのもどうかと思い、それをきっかけに2000年9月末から朝6時半の早朝礼拝を始めました。また当時、午後から夕方まで中高生たちが教会に残ってギターを弾いたり、ピアノを弾いたりして過ごしており、彼らのためにも何かできないかと思い、また朝夕に礼拝する教会になることを願って、2001年4月から夕拝を始めました。これで早朝、朝、夕という礼拝の一日のかたちができあがりました。その後、礼拝出席者が増えてだんだん礼拝堂の席が埋まるようになり、新会堂が実現するまでに何とか席を空けて新しい人々を迎えたいと言うことで、2012年4月からは9時の第一朝拝、10時半の第二朝拝の二部礼拝を開始し、こうして現在の主日に四回の礼拝をささげるかたちが整えられました。この間、牧師として願ってきたのは、朝に、夜ごとに、主を礼拝する恵みを皆さんとともに味わいたいということでした。仕事や学校、家庭の事情など様々なことがあっても、礼拝をささげることなしに一週間を過ごしてしまうことがないように、教会として最大限、礼拝の場を備えようと思ってきました。それでもどの時間の礼拝にも来られない人には、夕拝の後、8時でも9時でも教会に来られるなら、一緒に小さな礼拝をささげるようにしてきました。冬場はまだ夜明け前の早朝礼拝から夕拝まで、集う皆さんも多くの犠牲を払ってのことですが、迎える牧師も四回の説教を語るのは容易なことではありません。それでも何とか皆さんに礼拝の祝福にあずかっていただきたい、そのために一生懸命御言葉を語りたい。その一心でこの20年、この群れに仕えてきたつもりです。礼拝を大切にする。信仰のすべての営みの基本です。ここが疎かになり、ここが崩れると、祝福が損なわれてしまうのです。
 主に贖われた者たちの生活は、そのすべてが礼拝的な生活です。職場、学び舎、家庭、地域の中で、主に召されて果たす大切な働き、学び、日々の営みを通して「神に感謝し、神を喜び歌う」礼拝的な生活を送り、日曜日ごとに呼び集められ、ともに一つ心で、朝に夕に、御言葉と祈り、賛美の中で過ごす主の日を通して「神に感謝し、神を喜び歌う」礼拝を集中しておささげしたいと願います。そのためにも、一人一人の日々の御言葉の生活、水曜朝夕の祈祷会、早朝から夕拝までの主日礼拝がいっそう充実したものとなるよう、祈り求めてまいりましょう。主イエス・キリストと出会い、まことの魂の安息を得て、御言葉の養いを受けて、聖霊による励ましと力をいただいて、それぞれの召命に応え、神の国の完成を目指して、ここから遣わされてまいりましょう。



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