2019年度新年聖会講演        2019/01/20
『みことばを食べ、喜び、楽しむ教会』
                                
はじめに
 朝の礼拝に続いて、この午後にも今年の教会の主題を巡ってともに学ぶ時間が与えられていることを感謝します。『みことばを食べ、喜び、楽しむ教会』としての一年を歩み出すにあたり、私たちの聖書との関わり方について、ご一緒に考えてまいりましょう。

1.みことばと出会う
 『聖書入門』と名の付く書物は数多くありますが、その中でとても興味深く読んだ一冊に、青山学院大学教授で宗教主任の塩谷直也先生の書かれた『信仰の手引き 聖書』(日本キリスト教団出版局、2012年)があります。本書を開くと目次に「触れる」、「読む」、「出会う」、「生きる」、「語る」とあり、それぞれの章が大変印象深い言葉で綴られていくのです。これまでに数多くの聖書入門の書物を読んで来ましたが、それらとはずいぶんと趣きが異なって、引き込まれるようにして読んだ覚えがあります。
 一冊の聖書が、単なる記号の組み合わせや言葉の羅列に留まらず、時代の中で消費されていく読み物に終わらず、時代や文化を超えて、今日の私たちが「触れ、読み、出会い、生き、語る」ことのできる言葉として存在する。その究極的な根拠は、これが生ける神のことばに他ならないからでしょう。生ける神の生きたことば、そのみことばを「食べ、喜び、楽しむ」ことを学ぶに先立って、まず「みことばと出会う」ということから考え始めたいと思います。私たちは毎週の礼拝で、日ごとの聖書通読や聖書日課で、聖書を開き、みことばに聴きます。神さまが聖書を通して語ってくださる、その語りかけとの出会いを求めて聖書を開くのです。その一方で、聖書は私たちがそれを手にするかどうか、いつ開くかどうかの如何によらず、そこにすでに存在しています。何千年も昔からの言葉としてすでにそこにあることばと私たちは出会うのです。
 エレミヤ書15章16節は「私はあなたのみことばが見つかったとき」と言いました。この御言葉の背景にあるのは、二列王記22章8節以下(二歴代誌34章14節以下)に記される、エレミヤの生きた時代の南ユダの王ヨシヤによる律法の書の発見と、それによって引き起こされた悔い改めと刷新、いわゆる「ヨシヤ王の宗教改革」と言われる出来事です。大祭司ヒルキヤが「主の宮で律法の主を見つけました」と書記シャファンに報告し、シャファンがそれをヨシヤ王の前で朗読すると、王は自分の衣を引き裂いてこう告げます。「行って、この見つかった書物のことばについて、私のため、民のため、ユダ全体のために、主を求めよ。私たちの先祖たちがこの書物のことばに聞き従わず、すべて私たちについて記されているとおりに行わなかったために、私たちに向かって燃え上がった主の憤りが激しいからだ」(22章13節)。こうしてヨシヤ王は「ユダのすべての人々、エルサレムのすべての住民、祭司と預言者、および下の者から上の者まで、すべての民とともに主の宮に上り、主の宮で見つかった契約の書のことばをすべて彼らに読み聞かせた。それから王は柱のわきに立ち、主の前に契約を結び、主に従って歩み、心を尽くし、いのちを尽くして主の命令と証しと掟を守り、この書物に記されているこの契約のことばを実行することを誓った。民もみなこの契約に加わった」(23章2、3節)のでした。すでにモーセの時代から与えられていた律法が、あらためて激動の南ユダ王国において再発見され、そこで悔い改めが引きおこされる。ここに「みことばと出会う」ということの一つの姿を見るのです。
 古代教父アウグスティヌスが若き日の放蕩の中で「取りて読め、取りて読め」との幼子の声に導かれて聖書に出会った「回心の経験」も、宗教改革者ルターがローマ書との格闘の中で福音を再発見した「塔の体験」も、すでにそこにある聖書との新しい出会いによって起こった出来事でした。「みことばと出会う」という経験は、私たちの側が主体的にそれを求めて会いに行くということもあれば、神さまが私たちに新しく語りかけてくださるということもあり、またすでにそこにあったことばと新しく出会い直させてくださるということでもあるのでしょう。「みことばの戸が開くと 光が差し 浅はかな者に悟りを与えます」(詩篇119篇130節)と詩人が歌ったようなみことばの経験を、この年、私たちも祈り求めていきたいと願うのです。

2.みことばを食べる 
 預言者エレミヤは「私はあなたのみことばがみつかったとき、それを食べました」と言いました。新共同訳は「むさぼり食べました」、関根訳は「これを食らいました」と訳します。「みことばを食べる」とは即物的でユニークな表現ですが、しかしこのようなストレートな表現でしか伝えられないリアリティーがあります。青山学院大学教授で旧約学者の左近豊先生は『エレミヤ書を読もう 悲嘆からいのちへ』(日本キリスト教団出版局、2018年)において、このエレミヤの言葉を「託された神の言葉を『むさぼり食べ』、『喜び』、『楽しみ』とする中で、み言葉が内に血肉化し、『わたしのものとなり』、『(主の)御名をもって呼ばれている者』と言うほどまでにみ言葉を自己同一化している『わたし』」(56-57頁)と記しておられます。まさにみことばを「食べる」ことによって、エレミヤの内にみことばの「血肉化」、みことばとの「自己同一化」が生まれているのです。
 このようなみことばの経験は、エレミヤに固有のものにとどまらず、聖書の中で多くの信仰者たちが経験しているものでもあります。詩篇34篇8節では「味わい見つめよ。主がいつくしみ深い方であることを」と歌われ、詩篇119篇103節では「あなたのみことばは私の上あごになんと甘いことでしょう。蜜よりも私の口に甘いのです」と歌われています。またよりエレミヤに共通する経験として、エレミヤと並ぶ預言者エゼキエルを挙げることができます。エゼキエル書3章1節から3節でエゼキエルは次のような経験をさせられました。「『人の子よ。あなたの前にあるものを食べよ。この巻物を食べ、行ってイスラエルの家に告げよ。』私が口を開けると、その方は私にその巻物を食べさせ、そして言われた。『人の子よ。わたしがあなたに与えるこの巻物を食べ、それで腹を満たせ。』私がそれを食べると、それは口の中で蜜のように甘かった」。
 さらに進んでエゼキエルと共通する経験をしたのが黙示録におけるヨハネです。ヨハネ黙示録10章8節から10節には次のように記されています。「それから、前に聞こえた声が、再び私に語りかけた。『行って、海の上と地の上に立っている御使いの手にある、開かれた巻物を受け取りなさい。』私はその御使いのところに行き、『私にその小さな巻物を下さい』と言った。すると彼は言った。『それを取って食べてしまいなさい。それはあなたの腹には苦いが、あなたの口には蜜のように甘い。』そこで、私はその小さな巻物を御使いの手から受け取って食べた。口には蜜のように甘かったが、それを食べてしまうと、私の腹は苦くなった」。
 「みことばを食べる」という経験。それは今日の私たちにとっては聖書を「読む」こと、みことばを「聴く」ことと言えますが、それにしても「読む」、「聴く」でなく「食べる」という言葉によって表現されるみことばとの関わり合い、みことばの「血肉化」、「自己同一化」の経験を、私たち一人一人が経験するものでありたいと思います。エレミヤにとって「みことば」を食べる経験は、「そうして、あなたのみことばは、私にとって楽しみとなり、心の喜びとなりました」というものでした。エゼキエルにとって「巻物」を食べる経験は、「私がそれを食べると、それは口の中で蜜のように甘かった」というものでした。黙示録のヨハネにとって「小さな巻物」を食べる経験は、「口には蜜のように甘かったが、それを食べてしまうと、私の腹は苦くなった」というものでした。みことばが口に甘く、腹には苦かったということ、それは神のみことばが「救い」をもたらすと同時に「さばき」をもたらす言葉でもあることを表しているでしょう。この朝の礼拝で「みことばに生きる悲しみと喜び」を学んだように、私たちがみことばを食べるという時には、みことばの持つ甘さと苦さ、救いとさばきの使信のどちらをもしっかりと受け取ることが必要です。救いをもたらすみことばの味わいを知ることなしに、その苦さしか知らないとすれば、それは私たちにとって福音の慰めとはならず、絶えず私たちをさばき、恐怖に陥れるものでしかありません。また私たちがさばきとしてのみことばに刺されることなく、その甘さしか味わっていないとすれば、それはもしかすると私たちが自分たちに都合のいい、耳当たりのよい言葉しか聞きとっていない、あるいはそのようなことばしか語られていない、エレミヤやエゼキエルの時代の「偽りの預言者」の姿を見ることになるでしょう。
 「みことばを食べる」という経験。それは神が差し出されるみことばを、そのままに受け取ること、選り好みせず、取捨選択せず、まるごと内側に取り込むことです。みことばを口にしたら、それをすぐに吐き出すようなことをせず、噛んで味が薄まったら投げ捨ててしまうのでもなく、しっかりと口に含み、味わい、噛み、咀嚼し、反芻し、そしてしっかりと呑み込んで腹におさめる。その時に、みことばが私たち一人一人のうちに、そしてキリストのからだなる教会の隅々にまで行き渡り、血肉化して、私たちを生かし、教会を生かす力となって行くのです。
 今年、私たちの教会では『日々のみことば』による聖書日課に加えて、聖書の通読を奨励しています。毎日聖書を読むこと。それは主の祈りにおいて「日ごとの糧を今日も与えたまえ」と祈る私たちの日ごとの祈りと深く結びついています。毎日のパン、毎日の食物で私たちの身体のいのちが生かされるように、毎日のみことばを食することで私たちのキリストにあるいのちは生かされます。また私たちは今年も毎主日の礼拝で、朝に夕にみことばに聴き続けます。私たちの教会の礼拝説教は、一つの書物を順々に説き明かしていく「連続講解説教」というスタイルをとっていますが、それによってよく知った箇所も知らない箇所も、分かりやすい箇所も難解な箇所も、耳当たりのよい箇所も悪い箇所も、満遍なく、バランスよく、みことばを食べることによって、キリストのからだ全体が健やかに育まれていくことができるでしょう。
3.みことばを喜び、楽しむ
 エレミヤ書は、預言者エレミヤがみことばを食べたときの経験をさらにこう記しています。「そうしてあなたのみことばは、私にとって楽しみとなり、心の喜びとなりました」。 といつかエレミヤ書は語ります。聖書において神のみことばを喜びとするという表現は詩篇に集中して現れます。いくつかのみことばを挙げておきましょう。まず詩篇1篇2節には神に祝福された「幸いな人」の姿が「主の教えを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ人」と歌われます。詩篇19篇7、8節では神のみことばが「おしえ、証し、戒め、仰せ」と言い換えられながら、「主のおしえは完全でたましいを生き返らせ、主の証しは確かで浅はかな者を賢くする。主の戒めは真っ直ぐで人の心を喜ばせ、主の仰せは清らかで人の目を明るくする」と言われます。
 これらの詩篇の中でも、特にみことばを喜ぶ経験が数多く記されるのが119篇です。この詩篇全体がみことばの経験を歌っていますが、とりわけ16節では「私はあなたのおきてを喜びとし、あなたのみことばを忘れません」、47節では「私はあなたの仰せを喜びます。それを私は愛します」、70節では「私はあなたのみおしえを喜んでいます」、92節では「もしあなたのみおしえが私の喜びでなかったら、それなら私は私の苦しみの中で滅んだでしょう」、111節では「私はあなたのさとしを永遠に受け継ぎました。これこそ 私の心の喜びです」、162節では「私は大きな獲物を見つけた者のように、あなたのみことばを喜びます」、そして174節では「あなたのみおしえは私の喜びです」と歌われています。
 こうして詩篇のみことばを味わい、思い巡らすときに気づかされるは、みことばを喜ぶことは、すなわち主なる神さまご自身を喜ぶことに他ならないということです。聖書において神の存在と言葉は切り離すことができません。神の「さとし、おきて、おおせ、みおしえ」としてのみことばは、神の属性でなく、神の本性そのものと言ってよいのです。そうであれば、私たちにとって「あなたのみことばは、私にとって楽しみとなり、心の喜びとなりました」との経験は、みことばを通して神さまご自身と出会うという深い次元から汲み取られ、そこから神さまご自身を喜ぶという信仰の経験に至るものであることが分かってきます。それは神の臨在の前に引き出された人間が経験する、悔い改めと赦しの経験から引き起こされる喜びともいうべきものです。
 そこで私たちが思い起こしたいのは、かつて礼拝で学んだ旧約聖書ネヘミヤ記8章、9章の光景です。この場面はバビロン捕囚から帰還したイスラエルの民が神殿の再建、城壁の再建を経て主なる神の御前に集まり、礼拝をささげる姿が記されるところです。その礼拝の中心は律法の書の朗読でした(7章72節〜8章3節)。こうしてエズラたちによって律法が読まれ、レビ人たちによって解き明かされ、民がこれに耳を傾けた時に起こったのは「民が律法のことばを聞いたときに、みな泣いていた」(9節)というものでした。その涙は律法に背いて生きてきた「自分たちの罪と先祖たちの咎」(9章2節)です。こうして悔い改めの涙を流す民たちに、エズラとレビ人たちはさらにこう語りかけます。「行って、ごちそうを食べ、甘いぶどう酒を飲みなさい。何も用意できなかった人には食べ物を贈りなさい。今日は、私たちの主にとって聖なる日である。悲しんではならない。主を喜ぶことは、あなたがたの力だからだ」(10節)、「静まりなさい。今日は聖なる日だから。悲しんではならない」(11節)。その結果、民たちの中に沸き起こったは大きな喜びでした。「こうして、民はみな帰って行き、食べたり飲んだり、ごちそうを贈ったりして、大いに喜んだ。教えられたことを理解したからである」(12節)。
 みことばによってもたらされる、悔い改めの涙から赦しと解放の喜びに至る道を、私たちもこの年、進んでいきたいと願います。罪の悔い改めなしの喜びでなく、人間が作り出す喜びでなく、生ける御言葉を本気で聴いたとき、それを理解したとき、そこで生ける主イエス・キリストと出会い、真実な悔い改めが引きおこされ、十字架の贖いによる赦しを受け取ったときに、深いところから湧き上がってくる喜び。それは人間が生み出すことのできない、上から与えられる喜びであり、何にも代えがたい本物の喜びであり、神のみことばだけがもたらすことのできる喜びです。このような喜びをもたらすみことばを、私たちが日ごとに読み、聴き、味わい、思い巡らすことは、私たちにとっての楽しみでなくて何でしょうか。「私はあなたのさとしの道をどんな宝よりも楽しんでいます。・・・わたしはあなたのおきてを喜びとし、あなたのみことばを忘れません」(詩篇119篇14節、16節)と歌われるとおりです。
 「みことばを喜び、楽しむ」という経験。これを私たちはこの年、礼拝の場において、祈りの場において、そして一人で神の御前に出る時に経験させていただきたいと願います。主の日の礼拝において今まで以上の熱心と集中をもって生ける神を礼拝し、みことばによって悔い改めに促され、みことばによって赦しを与えられ、みことばによって新しい生き方の指針を受け取り、みことばによって新しく生きる者となる。こうして「まことに、あなたのみことばは私を生かします」(詩篇119:50)というみことばの経験をさせていただきましょう。また週日の祈祷会においてみことばを深く学び、みことばに基づいて教理を学び、みことばに導かれて祈りをささげることによって、「神をあがめる目的で神を知る」(『ジュネーヴ教会信仰問答』第6問)ことを経験し、それによって互いに「キリストにあって成熟した者」(コロサイ1章28節)として建て上げられていきたいと願っています。さらに一人で神の御前に出て、みことばを読み、思い巡らし、神さまの語りかけに聞いて祈る時、そこで神さまとの深い交わりを与えられ、主なる神さまご自身を喜び、楽しむという経験をさせていただきたいと願うのです。「味わい、見つめよ。主がいつくしみ深い方であることを」(詩篇34篇8節)。

4.みことばへの集中、みことばへの沈潜
 来る2月の教会総会のために準備を重ねていますが、昨年10月7日に開催された拡大役員会の折、今年度の教会の活動方針案を示すにあたって次のような一文を示しました。 
 「2019年は、私たちの教会にとって大きな変化を迎える一年となります。長い間の祈りと準備を積み上げてきた新会堂建築がいよいよ着工に向かいます。3月には、教会にとってなくてならない存在となり、忠実、熱心にご奉仕くださった中谷献一伝道師ご一家を、三年の任期を終えて送り出します。こうして迎える4月以降、教会は働きを縮小することなく、むしろ宣教の拡大に向かおうとしています。そのような中で、私たちの足元をしっかりと確認し、踏み固め、着実な一歩を踏み出していくために、御言葉への集中に向かいたいと願っています」。
 変化の時こそ、みことばに集中したい、みことばに沈潜したい。それがこの年のために祈り願ったことでした。様々な事柄が大きく動き、変化しようとする時、私たちの目や心はしばしばその「動き」につられ、そちらにばかり心の思いが惹き付けられやすいものです。けれどもそのような時こそ、「汝等しづまりて我の神たるをしれ」(詩篇46篇10節、文語訳)との神さまの語りかけの前に立ち止まり、静まり、思い巡らすことを大切にしたいと思います。
 かつてドイツの牧師、神学者ボンヘッファーは、ナチ・ドイツの悪魔的な国家主義が台頭する時代に、若い牧師候補生たちが共同で生活しながら実践的な学びと祈りの訓練を受けるための『兄弟たちの家』を設立した際、周囲から「非プロテスタント的な修道院的静寂主義」、「新たな律法主義の導入」という批判を受けました。しかしそのような批判に対してボンヘッファーは次のように答えたのです。
 「現在ならびに将来の教会闘争において、諸精神の正邪を正しく決断し見分けることのできるように神のみ言葉を宣べ伝えるために、また、どんな新しい困難な事態においても、直ちに宣教の奉仕をなしうる用意を整えるためには、完全に自由で、献身への訓練の行き届いた牧師の群れを必要としているのです。彼らは、その奉仕が求められるなら、どんな外的環境においても、たといその牧師という身分に伴う経済的その他の特権を放棄せねばならぬような時であっても、それに応じる用意がなければなりません。彼らは、常に兄弟の交わりから出発し、またそこへと帰って行くことができるなら、そこに、彼らの奉仕のために必要な故郷と交わりを見出すのです。そこで目標とされているのは、修道院的な隠遁の生活ではなく、外に向かって奉仕するための、内的に最も深められた集中の生活です」(D・ボンヘッファー「兄弟の家設立への提議」『ボンヘッファー選集VI 告白教会と世界教会』森野善右衛門訳、新教出版社、1968年、213〜219頁)。
 この言葉からやがて「外的奉仕のために内的集中」との表現が生まれました。私たちがこの年、「みことばを食べ、楽しみ、喜ぶ教会」としての一年を歩むのも、まさにこのためであると言ってもよいでしょう。私たちがより一層、よい忠実なしもべとして主なる神さまにお仕えし、また神さまが遣わされるそれぞれの召しと派遣の場で神のしもべとしてお仕えし、教会が生かされているこの時代と地域にお仕えするためにこそ、一層のみことばへの集中、みことばへの沈潜に進む私たちの教会の歩みでありたいと願います。「わたしはあなたの戒めを思いを潜め、あなたの道に私の目を留めます」(詩篇119篇15節)、「私は愛するあなたの仰せを求めて両手を上げ、あなたのおきてに思いを潜めます」(48節)、「私は夜明けの見張りよりも先に目覚め、あなたのみことばに思いを潜めます」(148節)。



日本同盟基督教団 徳丸町キリスト教会
〒175−0083
東京都板橋区徳丸6−24−10
TEL 03−3935−3405
FAX 03−3935−3445

メールでのお問い合わせ
管理人


Copyritht ©The Evangelical Alliance Mission Tokumarucho Christ Church All Rights Reserved.