2019年度新年聖会・合同朝拝   2019/01/20
『みことばに生きる悲しみと喜び』

エレミヤ書15:10-21
                              
 2019年の「新年聖会」の朝を迎えました。この年、私たちはエレミヤ書15章16節の御言葉を与えられ、「みことばを食べ、楽しみ、喜ぶ」教会として歩み出しています。この日、この朝の合同礼拝と午後の聖会を通して、今年、私たちの教会に与えられた御言葉に聴き、御言葉に従って歩むこの一年の足並みを整えさせていただきましょう。主によって愛され、招かれ、ここに集われた愛するお一人一人の上に、主の豊かな祝福がありますように祈ります。

(1)預言者エレミヤと、その時代
 「エレミヤ」というのは旧約聖書に出てくる預言者の名前です。「預言者」と聞くと、皆さんの中には「これから起こる未来のことを言い当てる人」という「予言者」を思い浮かべる方があるかもしれません。しかし聖書に登場するのは「予め言う」予言者でなく、神の言葉を「預かって言う」預言者です。神が語れ、と言われたことを語る人。神の代弁者と言ってもよいでしょう。この務めに生涯を通して徹した人、それがエレミヤです。エレミヤが生きた時代と場所について1章1節から3節が次のように記しています。「ベニヤミンの地、アナトテにいた祭司の一人、ヒルキヤの子エレミヤのことば。このエレミヤに主のことばがあった。ユダの王、アモンの子ヨシヤの時代、その治世の第十三年のことである。それはさらに、ユダの王、ヨシヤの子エホヤキムの時代にもあり、ユダの王、ヨシヤの子ゼデキヤの第十一年の終わりまで、すなわち、その年の第五の月、エルサレムの民の捕囚まで続いた」。
 今日の説教題を「みことばに生きる悲しみと喜び」としました。今年の主題聖句である15章16節では「私はあなたのみことばが見つかったとき、それを食べました。そうして、あなたのみことばは、私にとって楽しみとなり、心の喜びとなりました。万軍の神、主よ、私はあなたの名で呼ばれているからです」と語られており、そこだけを読めば「楽しみ、喜び」ということが印象づけられ、「悲しみ」というのは少し場違いな表現に思えます。しかしエレミヤ書全体を視野に収めて読むとき、そしてこの時代を生きた預言者エレミヤの姿を見つめるとき、やはりそこでは「みことばに生きる悲しみ」ということもまた、確かにあるのだということに気づかされるのです。
 エレミヤは、エルサレムの北にある小さな村アナトテで、祭司ヒルキヤの家庭で生まれ育ちました。彼は若い日に神から預言者としての召命を受けますが、その時、彼はこう答えます。1章6節。「ああ、神、主よ。ご覧ください。私はまだ若くて、どう語ってよいか分かりません」。しかしそんなエレミヤに神は言われるのです。7節、8節。「まだ若い、と言うな。わたしがあなたを遣わすすべてのところへ行き、わたしがあなたに命じるすべてのことを語れ。彼らの顔を恐れるな。わたしがあなたとともにいて、あなたを救い出すからだ。主のことば」。このように、エレミヤは自ら進んで預言者になったわけではありません。むしろそれは彼が拒みたかった務めでした。それは彼自身が言う自分の若さや未熟さのゆえというばかりでなく、預言者が担わなければならない務めの重さ、過酷さと、預言者として生きなければならない時代の困難さを知るゆえでもあったのだと思います。神はエレミヤにこう言われました。9節、10節。「見よ、わたしは、わたしのことばをあなたの口に与えた。見なさい。わたしは今日、あなたを諸国の民と王国の上に任命する。引き抜き、引き倒し、滅ぼし、壊し、建て、また植えるために」。主なる神がエレミヤに託される言葉、それは「引き抜き、引き倒し、滅ぼし、壊す」という祖国へのさばきのメッセージでした。事実、エレミヤの生きたのは北イスラエル滅亡に続いてバビロンによる南ユダへの攻勢が強まり、ついにエルサレム陥落、南ユダの滅亡そしてバビロン捕囚に至るイスラエル史における困難を極めた時代であり、そのような時代に神のさばきを語ったエレミヤは「涙の預言者」とさえ呼ばれるのです。

(2)エレミヤの告白
 このようなエレミヤとその時代を見つめる時、神のことばを託されて生きることの責任の重さ、みことばに生きることの過酷さということを思わずにおれません。一昨年の8月の平和主日の午後、第29回教会セミナーで矢内原忠雄を取り上げてご一緒に学びました。その際に、矢内原が1933年(昭和8年)3月26日、内村鑑三召天三周年記念講演会で語った『悲哀の人』という講演を取り上げました。矢内原はこの講演の中で、預言者エレミヤを取り上げてこう語っています。「エレミヤが悲哀の人でありました。・・・国民が皆虚偽の宣伝によりいい気になって、自分の国の正義と繁栄とを過信していた時、エレミヤ一人ことの真実を見分け、彼一人真実を語りました。しかし真実の人の運命がいつもそうであるように、彼も国民に受け容れられませんでした。彼は殴られ、唾せられました。彼は悲哀の人でありました」。「預言者は人の安逸に耽るときすでに危険を見、人の絶望に陥らんとするときすでに希望を認める」と。
 この講演で矢内原は、悲哀の人としてイエス・キリストを語り、エレミヤを語り、師内村鑑三を語り、そしてキリスト者一人一人が「悲哀の人」であると語ります。そこでの「悲哀の人」とは「預言者」と言い換えても良いでしょう。そしてこれらの人々の中に、矢内原は自分自身の姿を重ね合わせて語っていると思われます。実際、矢内原は日本の軍国主義化が進み、大陸進出と戦争の気配が色濃くなる1936年頃から、日本の政治状況への怒りと憂いの思いを深め、毎週土曜日の聖書講義でイザヤ書、エレミヤ書を取り上げるようになります。その講義を聴いた人々は、イザヤ、エレミヤを説く矢内原自身のうちに預言者としての姿を見たのです。しかし同時に矢内原自身もまた「悲哀の人」でした。彼は1937年10月に語った「神の国」という講演で、日本の中国大陸進出と戦争への姿勢を公然と批判したことをきっかけに大きな批判を浴びるようになり、ついにその年の12月に東京帝国大学辞職に追い込まれます。そのような預言者の悲哀を彼もまた預言者の悲哀を味わった一人だったのです。
 この朝、開かれているエレミヤ書15章10節から21節までの箇所は、まさにエレミヤの悲哀の言葉が記されるところです。10節。「ああ、悲しいことだ。私の母が私を産んだので、私は全地にとって争いの相手、また口論する者となっている。私は貸したことも、借りたこともないのに、皆が私を呪っている」。エレミヤ書の中には、一人称単数の「私」を主語にして、預言者の心情が吐露されるような箇所が五カ所出てきます。これらは通常「エレミヤの告白」と呼ばれるもので、一つ目が11章18節から12章6節、二つ目が今日の15章10節から21節、三つ目が17章14節から18節、四つ目が18章18節から23節、そして五つ目が20章7節から18節です。この「エレミヤの告白」の全体像を見ることで、今日の15章のみことば、特に今年の主題聖句の16節の意味が一層鮮やかに見えてくるように思います。今日多くの旧約聖書学者たちは、「エレミヤの告白」は内容からすると書かれた順序が聖書の配列の通りではなく、最初に11章、次に18章、そして20章、そこから17章に戻り、最後が今日の15章という順序であっただろうと考えます。
 今日はそのすべてを読むことはできないのですが、12章1節では「主よ。私があなたと論じても、あなたのほうが正しいのです。それでも、私はさばきについてあなたにお聞きしたいのです。なぜ、悪者の道が栄え、裏切りを働く者がみな安らかなのですか」との切実な問いが発せられ、18章19節では「主よ、私に耳を傾け、私と争う者の声を聞いてください。善に悪をもって報いてよいでしょうか。まことに彼らは、私のいのちを取ろうとして穴を掘りました。私が御前に立って、彼らへのあなたを憤りをやめていただくために、彼らについて良いことを語ったことを、思い起こしてください」と訴えます。そして最も知られたエレミヤの悲しみの告白が20章7節から9節です。「主よ。あなたが私を惑わしたので、私はあなたに惑わされました。あなたは私をつかみ、思いのままにされました。わたしは一日中笑いものとなり、皆が私を嘲ります。私は、語るたびに大声を出して『暴虐だ。暴行だ』と叫ばなければなりません。主のことばが、一日中、私への嘲りのもととなり、笑いぐさとなるのです。私が、『主のことばは宣べ伝えない。もう御名によっては語らない』と思っても、主のことばが私の心の内で、骨の中に閉じ込められて、燃えさかる火のようになり、私は内にしまっておくのに耐えられません。もうできません」。
 神から託された言葉を語るほどに、疎まれ、憎まれ、虐げられ、嘲られていく。そんな中であろうことか「もう語るまい」と決心する預言者。しかし主のことばが彼の中で燃え上がり、留め置くことが出来なかったというのです。そして17章14節では「私を癒やしてください、主よ。そうすれば、私は癒やされます。私をお救いください。そうすれば、私は救われます。あなたこそ、私の賛美だからです。ご覧ください。彼らは私に言っています。『主のことばはどこへ行ったのか。さあ、それを来させよ。』しかし私は、あなたに従う牧者になることを避けたことはありません。癒やされない日を望んだこともありません。あなたは、私の唇から出るものが、御前にあることをよくご存じです」と言って、主なる神の前にもう一度立ち戻っていくのです。このようなエレミヤの告白を見るとき、預言者という存在が、ひたすら神の召命によって生きる人であることがひしひしと伝わってきます。自分がしたいかしたくないかということを超えて、上からの召しによって生かされる存在。それが預言者の姿なのです。

(3)神の民の回復、預言者の癒やし
 こうして「エレミヤの告白」の最後に位置するのが、今日の15章です。11節から21節をお読みします。「主は言われた。『必ずわたしはあなたを解き放って、幸せにする。必ずわたしは、わざわいの時、苦難の時に、敵があなたにとりなしを頼むようにする。人は鉄を、北からの鉄や青銅を砕くことができるだろうか。わたしは、あなたの財宝、あなたの宝物を、あなたの領土のいたるところで、戦利品として、ただで引き渡す。あなたの罪のゆえに。わたしはあなたを、あなたが知らない地で敵に仕えさせる。わたしの怒りに火がつき、あなたがたに向かって燃えるからだ。』『主よ、あなたはよくご存じです。私を思い起こし、私を顧み、迫害する者たちに、私のために復讐してください。あなたの御怒りを遅くして、私を取り去らないでください。私があなたのためにそしりを受けていることを知ってください。私はあなたのみことばが見つかったとき、それを食べました。そうして、あなたのみことばは、私にとって楽しみとなり、心の喜びとなりました。万軍の神、主よ、私はあなたの名で呼ばれているからです。私は、戯れる者がたむろする場に座ったり、喜び踊ったりしたことはありません。私はあなたの御手によって、ひとり座っていました。あなたが私を憤りで満たされたからです。なぜ、私の痛みはいつまでも続き、私の打ち傷は治らず、癒えようもないのでしょう。あなたは、私にとって、欺く小川の流れ、当てにならない水のようになられるのですか。』それで、主はこう言われた。『もし、あなたが帰って来るなら、わたしはあなたを帰らせ、わたしの前に立たせる。もし、あなたが、卑しいことではなく、高貴なことを語るなら、あなたはわたしの口にようになる。彼らがあなたのところに帰ることがあっても、あなたは彼らのところに帰ってはならない。この民に対して、わたしはあなたを堅固な青銅の城壁とする。彼らは、あなたと戦っても勝てない。わたしがあなたとともにいて、あなたを救い、あなたを助け出すからだ。主のことば。わたしは、あなたを悪しき者たちの手から救い出し、横暴な者たちの手から贖い出す』」。
 細かなことは抜きにして結論的に申し上げると、エレミヤの告白は預言者としての挫折から回復への道筋を辿っており、15章はまさにその回復への姿を示しています。しかもここはエレミヤと主なる神の対話の形になっており、15節から18節が「主よ」と呼びかけるエレミヤの告白であるのに対し、11節から14節、19節から21節が神の応答となっています。しかも注意して読むと、ここで神が応答して語りかけられる「あなた」は単にエレミヤ個人を指すばかりでなく、神の民イスラエルへの語りかけ、しかも赦しと回復の語りかけとなっているのです。11節で「必ずわたしはあなたを解き放って、幸せにする。必ずわたしは、わざわいの時、苦難の時に敵があなたにとりなしを頼むようにする」。19節。「もしあなたが帰って来るなら、わたしはあなたを帰らせ、わたしの前に立たせる」。21節。「わたしは、あなたを悪しき者たちの手から救い出し、横暴な者たちの手から贖い出す」。
 こうしてみると、16節で預言者エレミヤが「私はあなたのみことばが見つかったとき、それを食べました。そうして、あなたのみことばは、私にとって楽しみとなり、心の喜びとなりました」と告白する時、そこでは彼の置かれた状況が好転したとか、彼の溜飲が下がったとか、そのような個人的な経験ではなく、むしろ彼が涙ながらに語り続けた民、しかも預言者の言葉に聞こうとせず、偽預言者の言葉にすがり、預言者を退けてきた民が悔い改めの中で神の声に聞くようになる、その神の民の悔い改めと回復によって、預言者エレミヤもまた癒やされ、あれほどつらく重かったみことばを、今や楽しみ、心の喜びとして取り戻しているという事実を教えられます。まさにみことばがもたらす楽しみ、喜びとは、まことに神のことばが語られ、聞かれ、それによって生き方の変革、明確な悔い改めが起こるところに引き起こされるものなのです。

(4)みことばに生きる悲しみと喜び
 この年、私たちも日々のみことばの生活において、また主の日の礼拝でみことばの説き明かしを聞く中で、みことばを通して生ける神の御前に引き出され、そこで生き方の変革が起こるほどのみことばの力を経験してまいりたいと願います。みことばに生きることにともなう悲しみと喜び。その両面を深く味わうものでありたいと願うのです。この年、私たちの社会はどのように進むでしょうか。年が明けてもなおこの国の状況に明るい兆しは見えてきません。沖縄では若者が民主主義が守られることを求めてハンストを続けています。中央省庁ではまたしてもデータの偽装、ねつ造、資料の廃棄といった出来事が続いています。マスコミの報道も真実を語ることよりも、権力者におもねるプロパガンダが垂れ流され、巷では人を貶め、傷つけ、揶揄し、いのちを奪うような言葉の暴力が席巻しています。まさに預言者アモスが叫んだ「主のことばを聞くことの飢饉」の時代です。
 このような時代の荒波の中に漕ぎ出していく主の教会は、何によって生きるのか。このことをこの年のはじめに明確にしておきたいと願います。私たちは神のことばで生きる。そうハッキリと言い切る者とならせていただきたいのです。預言者エレミヤに託された主の言葉はこうでした。「見よ。わたしは、わたしのことばをあなたの口に与えた。見なさい。わたしは今日、あなたを諸国の民と王国の上に任命する。引き抜き、引き倒し、滅ぼし、壊し、建て、また植えるために」。『エレミヤ書を読もう 悲嘆からいのちへ』という優れた説き明かしを著された、青山学院大学教授で、美竹教会牧師の左近豊先生は、この神の言葉の中に決定的な歴史の転換点、さばきと救いの転換点があると言われます。
 「引き抜き、引き倒し、滅ぼし、壊し」という神のさばきが、「建て、また植える」という神の救いへと転換されていく。そこに古き世に終わりを告げ、新しい世をもたらす神の壮大な救いの御業が約束されているというのです。今日、私たちに託されている神のみことば、それはまさにこの時代を切り拓き、歴史を転換する神の救いのことばに他なりません。それほどの力を持つみことばを私たちは今日、いただいている。だからこそ、私たちはこのみことばを「食べ、楽しみ、喜ぶ」、神のことばのもたらすさばきを語る悲しみを知るゆえにこそ、神のことばのもたらす救いの喜びを、それ以上のものとして受け取った私たちとして、この時代と社会に向かって、光を掲げて、良き知らせの伝令として遣わされて行く者とならせていただきましょう。



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