2017年度新年聖会朝拝   2017/01/22
『新しい戒め』

ヨハネ福音書13:34-35

 2017年の「新年聖会」の朝を迎えました。朝の合同礼拝と午後の聖会を通して、教会のかしらなる主イエス・キリストがこの年私たちに与えてくださった御言葉に聴き、心を一つにして御言葉に従って一年を歩み出す大切な時です。この朝も、主イエスが私たちに何を語ってくださろうとしているのか。このことに大いに期待したいと願っています。
 今年、私たちの教会に与えられている御言葉は、ヨハネ福音書13章34節です。そこで今朝は13章34節、35節を通して、主イエスが私たちに与えてくださる「新しい戒め」について学び、さらに午後の聖会でも「新しい戒めに生きる教会」というテーマで、この年の私たちの歩みへの指針を与えられてまいりましょう。愛するお一人一人の上に、主の豊かな祝福がありますように祈ります。

(1)互いに愛し合いなさい
 ヨハネ福音書において、主イエスは弟子たちに繰り返し「互いに愛し合うこと」を命じておられます。13章1節でご自身の愛を「残るところなく示された」主イエスは、自ら弟子たちの足を洗うことによって、私たちが互いに足を洗い合い、仕え合い、愛し合うようにと「模範」を示してくださいました。この模範にならって私たちが互いに愛し合うことを、主イエスは「新しい戒め」として私たちに与えられたのです。34節、35節。「あなたがたに新しい戒めを与えましょう。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。もし互いの間に愛があるなら、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです」。
 ある説教者がこの御言葉を説きながら次のような問いを立てていました。互いに愛し合えという命令がなぜ新しい戒めなのか。人が互いに愛し合うこと、夫婦が、親子が、兄弟が、友人同士、同僚同士、隣近所同士が仲良くすること、そのようなことは何も新しい戒めなどと言わずとも、どんな世の中でも言われていることではないか。けれども主イエスはここでわざわざ「新しい戒めを与えましょう」と言われる。では、ここで主イエスの命じられる戒めの「新しさ」とは一体どこにあり、何を意味しているのでしょうか。もし聖書が「互いに愛し合いなさい」と言うことだけを教えているとすれば、それならば聖書でなくても言える一般的な友愛の精神に置き換えられてしまっても何の不都合もないかもしれません。
 けれどもここで大事なことは、私たちが互いに愛し合う基準、模範が「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」。と言われている点です。互いに仕え合いなさいと言われた主イエスが、ただ口でそう言われただけでなく、自ら跪いて弟子たちの足を洗ってくださったことで仕え合う模範を示してくださったように、主イエスはここでも「わたしが愛したように」と、愛の基準、愛の模範を示される。それは裏返せば、主イエスが愛してくださった愛がなければ、私たちは本当の意味で互いに愛し合うことなどできない者だという、私たちの愛の限界を示しているのです。主イエスを愛する愛において限界を持つ私たちは、互いを愛する愛においても限界を持っている。このことをわきまえ知ることからしか、主イエスの愛によって互いを愛するという営みは始まっていくことはないのです。
 
(2)愛のリアリティー
 さらにこの戒めの「新しさ」の最も重要な点は、「もし互いの間に愛があるなら、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです」と主イエスが言われたように、互いに愛し合うということは、言葉の問題ではなく、互いの間の具体的な愛のリアリティー、愛の現実の問題だということです。神が愛なるお方であることの一番のしるしは、その愛で愛されている者たちの交わりの中にその愛が表れているかどうかということなのです。
 私たちの交わり、教会の交わりがこの神の愛を表しているだろうか、互いに愛し合うことによってこの愛を証ししているだろうか。この朝、このことを私たちへの問い、徳丸町キリスト教会への問いかけとして聞いておきたいと思うのです。主イエス・キリストは私のため、私たちのために十字架にいのちを捨ててくださった。その愛によって愛されている私たちは、その愛にどれだけ真剣に生きているだろうか。その愛の中にただ安住して、あぐらをかいたまま、愛を受けて当然とばかりにふんぞり返り、その愛だけではなお不足であるかのように不満を述べたり、感謝を忘れたりしているのではないだろうか。言葉や口先だけの美辞麗句で愛を語っておきながら、誰かの重い荷を負ったり、手を差し伸べたり、時間を割いたり、労苦を引き受けたりすることを避けて通ってはいないだろうか。私たちはひとりひとり、主の御前に自らを省みる者でありたいと願うのです。
 そのように自らを省みながら、続く36節以降を読むとき、さらに深い気づきに促されます。「シモン・ペテロがイエスに言った。『主よ。どこにおいでになるのですか。』イエスは答えられた。『わたしが行く所に、あなたは今はついて来ることができません。しかし後にはついて来ます。』ペテロはイエスに言った。『主よ。なぜ今はあなたについて行くことができないのですか。あなたのためにはいのちも捨てます』」。ここには私たちの主イエスに対する愛の限界と、主イエスの私たちに対する愛の無限さが示されています。ペテロは主イエスを愛する覚悟があり、どこまでもついて行く覚悟があると思っている。だから「わたしが行くところへは、あなたがたは来ることができない」と言われた主イエスに反論するように、「主よ。なぜ今はあなたについて行くことができないのですか。あなたのためにはいのちも捨てます」と答える。今の時点ではこれはペテロの偽りのない本心だと思います。しかしだからこそ主イエスは言われます。「わたしが行く所に、あなたは今はついて来ることができません」。確かにペテロの素朴な、しかし純粋な思いはここで偽りのないものですが、だからこそここに人間の愛の限界がある。ですから38節の言葉は私たちの心に深く鋭く刺さります。「わたしのためにはいのちも捨てる、と言うのですか。まことに、まことに、あなたに告げます。鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしを知らないと言います」。ペテロが心から混じりけのない主イエスへの愛の言葉を、献身の言葉を、身を差し出すような思いで語れば語るほど、その愛の限界を私たちはいやというほど思い知らされる。それこそが私たちが覚えなければならない愛のリアリティーなのではないでしょうか。
(3)愛することをあきらめずに
 しかしこの御言葉がここにあることの意味を、この朝深く考えたいと思うのです。ヨハネ福音書は、所詮人間の愛などその程度のものだという冷ややかな思いでこのことを書いているのか、もちろんそうではないでしょう。むしろ人間の愛の限界を思い知らされる私たちのもとに来てくださる助け主、慰め主、励まし主なる聖霊の神の慰めと励まし、支えへと私たちの心を向けさせるのです。そのポイントになるのが36節の「わたしが行く所に、あなたは今はついて来ることができません。しかし後にはついて来ます」。主イエスはペテロの愛が限界のある愛だということをご存知なのですが、けれどもあなたが来ることができないのは「今」だからだ、というのです。そして「後にはついて来ます」と言われる。人間の愛の限界の中では、どんな熱心や自己犠牲の思いを持ってしても主の後に従うことはできないのですが、しかしそんな私たちが主について行く者、従う者となる時が来る。今ではなく、後には。その時こそが助け主、慰め主なる聖霊の来られる時であり、聖霊が私たちのうちに住んでくださってはじめて、私たちは人間の愛の限界を超えて、主イエスに従う本当の弟子となっていくことができるのです。 
 まだ二十代半ばの駆け出しの牧師の頃の、心が痛む苦い思い出があります。当時奉仕していた小さな伝道所に一人の壮年の兄弟がおられました。身体に重い障害を負って、家族を失い、仕事を失い、自暴自棄の生活の中で信仰を持たれましたが、それでもなおその心には大きな傷が残っていて、時にその言葉や態度が周囲に対してひどく攻撃的になる、そんな方でした。時折その方を訪問しては交わりを持っていましたが、あるとき、小さな約束を私が果たし得なかったことをきっかけにして心を閉ざし、攻撃の矛先を向けられるようになったのです。会いに行っては追い返され、そうかと思えば連日の電話で罵詈雑言を投げかけられる。ほとほと参ってしまって、しばらくその方の顔を見ることも、声を聴くこともできなくなり、その状態が数年続いてしまいました。そして再びその方と対面したのは、数年後に彼が病気で倒れ、意識もないまま昏睡状態になった病院のベッドだったのです。その方との関わりにおいて私は自分自身の愛のなさを徹底的に思い知らされ、牧師を続けられないのではないかと思った、まさに愛の限界をいやというほど思い知らされた経験です。
 それでも主はそんな私にこの朝、この御言葉を説くようにと導いてくださった。このことの恵み、励ましを覚えています。私も主イエスの愛を受けた一人の人間として、主イエスの愛によって愛され、罪赦された一人の人間として、この愛に生きる者となりたい。そしてその愛に生きることを呼びかけたいのです。愛のない自分を知ることは必要です。でもそこで諦めてしまわないでいただきたい。開き直ってしまってほしくない。愛のない私だからこそ、主イエスが十字架においていのちがけの愛をもって私を愛してくださった。あなたを愛してくださった。その愛の中に私たちが身を置くとき、そこから新しく、この愛に生きる生き方が始まっていく。それが主イエス・キリストが十字架と復活のいのちによって私たちに与えてくださった新しい戒めなのです。

(4)互いに愛し合い、互いに仕え合う
 ヨハネ福音書13章は、主イエスが弟子たちの足を洗われるという、洗足の出来事から始まっていました。古代教会は、この主イエスによる洗足の出来事を「洗礼」のモデルの一つとして受け取って来ました。主イエスがペテロに、「もしわたしが洗わなければ、あなたはわたしと何の関係もありません」と言われたことは、まさに私たちが主イエス・キリストと結び合わされる洗礼の恵みを指し示していると言えるでしょう。その時ペテロは主イエスのお心がすべて分かっていたわけではない。でもただひたすら主イエスと繋がっていたという願いのもとで私を洗ってくださいと願った。洗礼の恵みにあずかることも同様でしょう。主イエスのついてのすべてのことが分かったわけではない。それでも主イエスに繋がって、主イエスに結びついてこれからの人生を生きて行きたい。そう願って私たちも洗礼を受けて、主イエスとのいのちの交わりに入れられたのです。そうやって主イエスに洗って頂いた者たちの集まり。それが教会ということです。
 水の洗いである洗礼によって教会に加えられるということは、私たちがそれによって誰かに仕えてもらうためではありません。むしろ私たちが互いに仕え合うための模範を主イエスは示してくださいました。誰かがしていてくれる。誰かが担っていてくれる。自分は重荷を負うつもりはない。自分は仕えられる身である。皆がそうやってただ足を投げ出して座っているだけだとしたら、いまもただお一人、主イエスだけが忙しく私たちに仕え続けておられるということになってしまうでしょう。もしそうであるとするならば、私たちは心から悔い改めなければなりません。
 私たちが洗礼によって教会に加えられたのは、私たちが互いに仕え合うためです。教会の交わり、コイノニアは、互いに仕え合う交わり、ディアコニアの交わりによって成り立つものです。互いの弱さを担い合い、互いの必要を知り合い、互いが背負っている重荷について想像を働かせ、そして先ず自分からひざまずいて仕える者となる。そこから互いに仕え合う交わりは始まっていくのです。誰かが仕えてくれたら、誰かがひざまずいてくれたら、誰かが足を洗ってくれたら、そういうお互いが様子見の交わりなのではなく、まず私がしもべとなって来てくださった主イエスの愛に動かされて仕える者となるときに、そこから互いに仕え合う交わりが生まれていきます。
 もちろんそれは教会の交わりの中だけに留まるものではありませんし、またそうであってはならないでしょう。皆さんが今日から遣わされていくそれぞれの場所において、お一人一人がしもべとなられた主イエスの、十字架の辱めをすべて身に引き受け、黙々とその苦しみを忍ばれた主イエスの僕の姿に結び合わされて、まず自分から手ぬぐいを腰にひざまずくときに、そこにある人間関係の中に新しい風が必ずや吹き込んでくるに違いありません。聖霊は皆さんの存在を通して、そこに新しい命の息吹をもたらしてくださるのです。それぞれの伴侶に対して、親に対して、子どもに対して、職場で、学校で、机を並べるあの人、この人に対して、なかなかうまく折り合えないあの人この人に対して、しもべとなって仕える時に、主イエスは新しい御業を始めてくださいます。
 「もし互いの間に愛があるなら、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです」。この主イエスの弟子としての証しに生きる私たち、徳丸町キリスト教会のこの年の歩みをここからスタートしてまいりましょう。



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