2015年度新年聖会朝拝 2015/01/25
『深みに漕ぎ出して』

ルカ福音書5:1-11

 今日は、2015年の新年聖会の主日です。私たちの教会では毎年1月のこの時に、朝の礼拝と午後の集いを通して教会の一年の主題の御言葉に聴き、一年の指針を確認しようとしています。今朝は合同礼拝ということで、普段第一礼拝、第二礼拝に集われている皆さんが一堂に会し、御言葉に聴いていきたいと願っています。
 この年、私たちの教会に与えられている主題聖句は、新約聖書ルカ福音書5章4節の御言葉ですが、実際にはこの朝開かれている1節から11節の全体が今年の主題と言ってよいでしょう。そこで今朝は与えられている5章1節から11節のペテロの召命物語の記事から学び、午後には「神の国の現実を生きる」というテーマで、主イエスが私たちを生かしてくださる神の国の姿をともに学んでいきたいと願っています。御前に招かれた愛するお一人一人の上に主の豊かな祝福がありますように祈ります。

(1)「神の国」とは何か
 今回の教会主題に『神の国の現実を生きる』と掲げました。詳しくは午後の学びで取り上げますが、まず最初に短く聖書の語る「神の国」について触れておきたいと思います。「神の国」というのは、新約聖書においてとても重要な言葉です。「神の王国」とも訳されますし、また神の御力の及ぶところ、神の御支配を意味する言葉です。神さまの御力の及ぶところはどこでしょうか。あるいはその力が及ばないところがあるでしょうか。この天地万物をお造りになったのは主なる神であり、天と地と海の中にあるすべてのものは主のもの、と聖書は告白します。神の国、それはこの地上の国をも包み込む神さまの全能のご支配を表しています。しかもまた「神の王国」と言われる。王が統べ治められるところ、それが王の国です。それでは神の王国を統べ治められるお方はどなたか。まことの王、油注がれたメシヤであられる神の御子イエス・キリストです。このイエス・キリストが王として統べ治められる国、それを聖書は神の国と呼ぶ。そしてそれが私たちの生きる現実だというのです。
 私たちはこの地上の国に生きながら、しかしすでに神の国、神の王国の民とされている。天に国籍を持つものとして、この地上では旅人、寄留者として生きながら、しかしその遣わされた地において神さまから委ねられた使命を担い、それぞれの召命に応えて生きていく。それが神の国に生きる私たちの現実だと聖書は語るのです。しかししばしば私たちはこの神の国の現実よりも、いま自分たちの目の前にある現実のほうがより確かで、より固く、動かしがたいものと見てしまいやすいものです。そして社会の常識、自分の過去の経験値、周囲の声、そういうものによって限界を定め、その手前のところで諦めてしまったり、折り合いを付けてしまう。せっかくの生ける神のチャレンジをやりすごし、神の国の現実に生きることを手放してしまうのです。しかし主は私たちに繰り返し、私たちが何者であり、何によって考え、行動し、どなたによって生かされているかを教えようと私たちを御自身の御前に引き出し、御言葉によって語ってくださいます。今日一日、この生きておられる主イエス・キリストの見せてくださる神の国の現実に期待し、聖霊による励ましをいただいて、この年の歩みの一歩をともに歩み出させていただきたいのです。

(2)主の御声に聞く
 この朝開かれている1節から11節はゲネサレ湖における大漁の奇跡が記されるところですが、魚がたくさん獲れた、という奇跡の出来事だけに目を取られてしまうと大切なことを見失うでしょう。これはシモン・ペテロが主イエスの弟子として招かれる召命の出来事であり、さらにここでは神の言葉が語られ聴かれるところに主の弟子としての歩みが始まるということが強調されています。このことを念頭に置きつつ1節、2節を見ましょう。「群衆がイエスに押し迫るようにして神のことばを聞いたとき、イエスはゲネサレ湖の岸べに立っておられたが、岸べに小舟が二そうあるのをご覧になった。漁師たちは、その舟から降りて網を洗っていた」。ガリラヤのナザレから始まった主イエスの福音宣教を通して、多くの人々が神の国の福音とその現れである力ある業の数々に触れ、すでに主イエスが行かれる所はどこも多くの群衆が押し寄せていました。今日の舞台となるゲネサレ湖というのはガリラヤの湖のことです。ガリラヤ湖は旧約ではキネレテ、他の福音書ではテベリヤといくつかの呼び名で呼ばれていたようですが、ヨルダンの渓谷の底で四方を山々に囲まれ、ヨルダン川が流れ込む湖であり、この湖での漁を生業とする漁師たちが数多くいる一方で、春先には山からの雪解け水が山肌を駆け下りる突風とともに押し寄せて嵐となることも珍しくない、そういう湖でありました。
 主イエスは湖の岸辺に押し迫ってくる群衆たちに福音を語るため、ガリラヤ湖の漁師であったシモンの舟に乗り込み、そこから岸に向かって説教をされたのです。3節。「イエスは、そのうちの一つの、シモンの持ち舟に乗り、陸から少し漕ぎ出すように頼まれた。そしてイエスはすわって、舟から群衆を教えられた」。こうして漁師シモンは主イエスを船に乗せ、請われるままに船を出すと、主イエスがそこから群衆に向かって語られる神のことばの傍らにおりました。ところが主イエスは話し終えられるとシモンに言われます。4節。「深みに漕ぎ出して網をおろして魚を捕りなさい」。船の上から教えられる主イエスと、岸にいてその教えに聞き入る群衆の姿。そこでのシモンは後ろに退いた存在、主イエスの影に隠れてしまうような存在です。しかし彼もまた確かに主イエスの語られた神のことばの聞き手の一人でありました。沖へ漕ぎ出す船の中で、主はシモンをご自分の傍らに、あるいは背後にある所から、ご自分の前にある存在へと呼び出されるのです。主イエス・キリストの語りかけの前に、傍観者である人は一人もおりません。主イエス・キリストは私たち一人一人に対して、確かに語りかけ給うお方なのです。

(3)主の御声に従う
 主イエス・キリストの語りかけの前に立つ時、私たちはその御声を前にして一つの決断を迫られます。それが私たちの目の前に現実に生きるのか、それとも神が御言葉において約束してくださる神の国の現実に生きるのか、という決断です。そしてそこで私たちは神の御声に聴き従うことをもって、神の国の現実の中に生きる一歩を踏み出したいと願うのです。シモンは主イエスに向かって言います。5節。「先生。私たちは、夜通し働きましたが、何一つとれませんでした」。シモンはガリラヤ湖で生きてきた男でした。確かに無学な一介の漁師に過ぎませんが、しかし彼はこのガリラヤ湖での漁に関しては説得的に語りうる言葉を持っていたはずです。その彼が「夜通し働きましたが、何一つとれませんでした」というのですから、それなりの根拠のあるシモンの言葉です。しかしその現実の中にとどまっていては決して見ることのできない世界がある。過去の経験や自分の考え、人間の算段やこの世の常識と言われるものの延長線上では決して経験することのできない現実がある。シモンはここで一つの決断を下します。彼は自分のこれまでの人生から汲み取ってきた言葉以上に、今まさに自分の面前にある主イエス・キリストの言葉に信頼を置いたのです。「でも、おことばどおり、網をおろしてみましょう」。
 この「でも」という言葉の持つ力強い響きを受け取りたいと思います。私たちもしばしば信仰生活の中で主イエスに対して「でも」と口にするものです。しかしその「でも」とシモンの「でも」は全く異なる響きを持つものです。私たちの「でも」は往々にして神の約束に対して人間の現実が発する「でも」です。しかしこの時のシモンの「でも」は人間の人生から得てきた知恵や経験の法則を打ち破り、神の現実に生きる者の「でも」です。しかしこの「でも」によって結び合わされる二つの態度の間にある隔たりは大変大きく、また深いものです。信仰と現実と言われるような二つの世界。「確かに信仰はこう。でも、現実は・・・」という大変深刻な世界に私たちもおかれていると言わざるを得ません。しかしここに「現実はこう、でも」と言いうる世界がある。いやむしろ神のそこにおいては「でも」という言葉を差し挟むことすらもはや必要なくなるような圧倒的な神の現実がある。その鍵となるのは「おことばどおりに」という言葉です。この神の約束に生きる時、その約束は現実となります。6節、7節。「そして、そのとおりにすると、たくさんの魚が入り、網は破れそうになった。そこで別の舟にいた仲間の者たちに合図をして、助けに来てくれるように頼んだ。彼らがやって来て、そして魚を両方の舟いっぱいに上げたところ、二そうとも沈みそうになった」。神の国の現実、それは圧倒的なリアリティをもってあらわれる。御言葉の約束に信頼し、決断して深みに漕ぎ出し、網をおろした時に、私たちはこの神の国の圧倒的な現実を経験させていただくことができるのです。

(4)主の弟子となる
 こうして主イエス見せてくださった神の国の圧倒的なリアリティを前にした時、シモン・ペテロのうちに引き起こされたのは神の御前での自らの罪深い姿の認識でした。8節。「これを見たシモン・ペテロは、イエスの足もとにひれ伏して、『主よ。私のような者から離れてください。私は、罪深い人間ですから』と言った」。イエスの足下にひれ伏すペテロの姿は、神の権威に触れた時に人間の中に引き起こされる畏れを表しています。私たちもまた主の御前に立った時に、このような畏れおののきにとらわれます。私たちもまた主の御前に立つことなどできない罪深い者です。しかしペテロが「私のような者から離れて下さい」と叫んだ場所はどこだったでしょうか。それはガリラヤ湖に浮かぶ船の上です。他に離れようのない場所に主イエスご自身が乗り込んで下さり、沖へと船を進めさせ、そこでペテロと向かい合う。しかもそこにはペテロが助けに呼んだもう一艘の船、ヤコブとヨハネの船もある。おそらくペテロの兄弟アンデレもペテロとともにいたのでしょう。とにかく、主はこのようにして罪深い者たちのただ中にご自分をおいて下さった。いやむしろ彼らをご自分の元にお集めになったのではないでしょうか。それは主の招き方であった。我こそは、と名乗りを上げる者を主は弟子にお選びにはならなかったのです。そうではなく、自分のような者から離れて下さいと言うほかないような罪人たちのただ中に立って、彼らから離れることのない場所に立って、そこから彼らを招き、召し出される。それが主の弟子選びの姿なのでした。
 主の弟子と召された者が罪の悔い改めをくぐり抜けてその召しに応答していく姿は、旧約の預言者イザヤの時にも起こったことでした。しかし主がその罪を贖ってくださった時、人は主の弟子となり、主の召しに従って歩み出すことができるのです。主イエスは言われました。10節。「こわがらなくてもよい。これから後、あなたは人間をとるようになるのです」。ここに、主の弟子として新しく生き始める人生への招きがあります。「これから後」という言葉は、直訳では「今から」と言う言葉ですが、神の救いの歴史の中心に立たれる主イエス・キリストが来たらせたもうた特別な時としての「今」です。この今の時から、あなたは人間を漁るようになる。新しい人生の召命に生きるようになる。今までの自分を超え出て、自分の経験、自分の法則、自分の考え、自分の自己像。そういった一切の古きものを打ち砕き、主イエス・キリストにあって新しい者とされた人間として私たちを生かしめる。そのような人生への召命が与えられるのです。この招きに対して私たちはどのように応じるべきでしょうか。その答えは極めて単純明快です。11節。「彼らは、舟を陸に着けると、何もかも捨てて、イエスに従った」。舟から上がった彼らは、もはや以前の彼らではありません。主の召しによって新しい存在として生き始めた主の弟子たちであります。舟を捨て、網を捨て、両親を捨て、安定した生活を捨て、約束された将来を捨て、何もかも捨ててイエスに従った。ここに、もはや自分のためでなく、主イエス・キリストのために生きることのできる新しい人が誕生したのであります。
 私たちもこの年、「深みに漕ぎ出せ」と命じられる主の御声に聞き従うものでありたいと願います。今までの自分を超え出て、主の見せてくださる神の現実の深みに、今なおうめき苦しむこの世界の現実の深みに、そして主が備えておられる魂のもとへと漕ぎ出していく私たちでありたい。しかもなお、この決意は私たちの悲壮感によって支えられるのでなく、神の約束によって全うされることを覚えたいと思います。ゲネサレ湖での大漁の経験は、これから彼らが人間を取る漁師となっていく上での約束と励ましであり、それは今日の教会への励ましであります。福音宣教に召され、日夜その業に励み、時に夜通し働いて何一つ収穫を手にすることができずに倦み疲れそうになる時、なお主は「深みに漕ぎ出せ」とお命じになる。その時私たちは、主の現実と約束を握りしめてはっきりと主に申し上げたいと思うのです。「私たちは夜通し働きましたが、何一つとれませんでした。でもおことばどおり、網をおろしてみましょう」。



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