2013年度新年聖会 講演 2013/01/20
『主の臨在に導かれる教会』

はじめに
 朝の礼拝に引き続き、この午後の時間は旧約聖書の出エジプト記を取り上げて、そこで教えられる「主の臨在」の姿と、「主の臨在」に導かれるイスラエルの民の姿を通して、今日の教会の姿についてともに教えられていきたいと願います。

1.主の導きを求めて
 私たちの人生には、いくつかの大事な決断のタイミングがあります。分かれ道に立ってどちらを選ぶべきかの選択を迫られる時があれば、いつまでここに留まり続けるべきか忍耐しながら待ち続ける時があり、また、いつ立ち上がって進み出すべきか、決断をくださなければならない時があります。若い時であればどのような学校に進むべきか、進学を選ぶか、就職を選ぶか。どういう職に就くべきか。結婚についてどう決断すればよいか。今の職に留まるべきか移るべきか。将来の住まいをどうするか。自分の人生をどのように主にささげて生きるべきか。人生のあらゆる局面において、主なる神の私たちに対する善き御心と摂理を信じる私たちは、これらの大事な決断の時に、祈りつつ主の導きを求めていくのですが、時にその祈りと判断の結果が、私が願ったようなものでなかったり、あるいはそれとは違った道を行かなければならなくなった時に、私たちのうちには「もしそうでなかったら」、「もしこちらを選んでいなかったら」という思いが湧いてきて、下した決断への確信を揺るがしたり、時には後悔の思いを持ち込んできたりもするものです。
 こういう考えが浮かんでくる背景には、神の摂理についての私たちの誤った理解がある場合が多いのです。私たちは神の摂理や、神の導きというものを、すべて最初に組み込み済みのプログラムのように考えて、人間がどう考えたり、悩んだり、選んだりしてみても、結局はそのプログラム通りにしかならないと考えてしまいやすいのです。しかし主なる神の導きを考えるときに大切なのは、私たちを導かれるお方が「生ける神」であり「父なる神」であられるという事実です。生きておられる私たちの父なる神が、私たちの人生を導かれる。生きておられる主の臨在を仰ぎつつ、私たちはこの方の御前に導きを求め、そして決断を下していくのです。

2.今働く、神の摂理
 かつて祈祷会で学び、今も夕拝で学び続けているハイデルベルク信仰問答の第27問は、主なる神の摂理について教える大事な箇所です。「問:神の摂理について、あなたは何を理解していますか。答:全能かつ現実の、神の力です。それによって神は天と地とすべての被造物を、いわばその御手をもって今なお保ちまた支配しておられるので、木の葉も革も、雨もひでりも、豊作の年も不作の年も、食べ物も飲み物も、健康も病も、富も貧困も、すべてが偶然によることなく、父親らしい御手によってわたしたちにもたらされるのです」。
 ここで目を留めたいのは、摂理が「全能かつ現実の神の力」と言われる点です。他の訳では「全能の現臨の神の力」、「神の全能なる、今働く力」、「全能の神の絶えず働く力」となっています。大切なのは、全能の神の力が今この時も絶えず働いているという点です。私たちは神の摂理という時、すべてがあらかじめ決められたプログラムであり、その既定のレールの上を走らされる人生を考えがちですが、神の摂理の御業は「今働く力」であると言われるのです。もちろん地上で起こる全てのことが神様の御計画の中にあることは確かなことですが、その一方で私たちの父なる神は今、この時も私たちと交わりを持ちたもう「生ける神・契約の神」であられます。そしてその力強い御手をもってこの世界を保ち続け、この世界がやがて終わりの日を迎える時に、新しい天と地としてもたらされることに向けてこれを治め続けていて下さるのです。それゆえに、この世界で起きる全てのこと、大きなことも小さなことも、甚大なことも些細なことも、幸いなことも悲しむべきことも、すべてはこの神様の御手の中にあることなのであって、第27問はこのことを慰め豊かな言葉で言い表しているのです。次に心を留めたいのは、創造の神、全能の神の摂理によって私たちの身に起こるすべてのことを「父らしい御手によって私たちにもたらされる」と表現する点です。これは他の訳では「慈しみ深い父としての神の御手」とあるように、まさしく私たちを愛してやまない主イエス・キリストの父なる神の御手です。この父なる神が、私たちに喜びを与え、楽しみを与えるばかりか、悲しみや試練さえ与えることによって私たちの人生を深みのある色に彩ってくださるのです。
 さらに第28問では次のように教えられます。「問:神の創造と摂理を知ることによって、わたしたちはどのような益を受けますか。答:わたしたちが逆境においては忍耐強く、順境においては感謝し、将来についてはわたしたちの真実な父なる神をかたく信じ、どんな被造物もこの方の愛からわたしたちを引き離すことはでさないと確信できるようになる、ということです。なぜなら、あらゆる被造物はこの方の御手の中にあるので、御心によらないでは動くことも動かされることもできないからです」
 信仰問答は摂理の信仰がもたらす益について、「逆境においては忍耐強く、順境においては感謝する」と語り、また「将来については私たちの真実な父なる神をかたく信じ、どんな被造物もこの方の愛から私たちを引き離すことは出来ないと確信できるようになる、ということです」と語ります。ここには摂理信仰がもたらす「今」と「これから」に対する信仰の構えが教えられています。摂理の信仰は私たちに未来を予測させるものではありません。むしろ摂理の信仰は「今」を生きることに対する励ましであると言えるでしょう。そこでの「今」とは、生ける神の臨在の前での「今」であり、この生ける神の臨在の前にある時に、私たちは忍耐と感謝という人生の構え。それは人生の全てが生ける神から来ることを認める時に与えられる構え、与えられたことを受けとめ、引き受けて生きることの出来る構えを持つことができるのでしょう。

3.聖書における主の臨在
 以上のことを踏まえつつ、主の臨在に導かれていく主の民イスラエルの姿を、出エジプト記の御言葉に沿って確かめて行きたいと思います。まず出エジプト記3章には、主なる神の臨在に触れたモーセの経験が記されています。ミデヤンの地で祭司レウエルの娘を妻にめとり、安定した生活を営んでいたモーセに、主は出会われるのです。ホレブの山で、燃える柴の中からモーセは神の使いの声を聞き、そして神ご自身の声を聞くのです。「神は柴の中から彼を呼び、『モーセ、モーセ。』と仰せられた。彼は『はい。ここにおります。』と答えた。神は仰せられた。『ここに近づいてはいけない。あなたの足のくつを脱げ。あなたの立っている場所は、聖なる地である。』また仰せられた。『わたしは、あなたの父の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。』モーセは神を仰ぎ見ることを恐れて、顔を隠した」(4-6節)。
 主の臨在の前に立ったモーセの反応は、「神を仰ぎ見ることを恐れた」というものでした。主と私たちとの関係は「恐れ」から始まる、ということを覚えたいと思います。しかしそのようなモーセに主なる神は「エジプトにいるわたしの民の悩みを確かに見」、「彼らの叫びを聞き」、「彼らの痛みを知っている」と言われ、「見よ。今こそ、イスラエル人の叫びはわたしに届いた。わたしはまた、エジプトが彼らをしいたげているそのしいたげを見た。今、行け。わたしはあなたをパロのもとに遣わそう。わたしの民イスラエル人をエジプトから連れ出せ」(9-10節)と仰せになります。それでもなお恐れて尻込みするモーセに主はこう言われるのでした。「わたしはあなたとともにいる。これがあなたのためのしるしである」(12節)。また神はご自身の名を尋ねるモーセに「わたしは、『わたしはある。』という者である」、「あなたはイスラエル人にこう告げなければならない。『わたしはあるという方が、私をあなたがたのところに遣わされた』と」。「あなたがたの父祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、主が、私をあなたがたのところに遣われた、といえ。これが永遠にわたしの名、これが代々にわたってわたしの呼び名である」と言われるのです。
 聖書における主の臨在の基本的な理解がここに示されます。すなわち「わたしはある」は単なる無時間的な存在ということでなく、「わたしはあなたとともにいる」、「わたしはあなたとともに行く」という約束を伴った臨在なのです。

4.荒野のイスラエル
 続いて出エジプト記は、13章以降でモーセに率いられたイスラエルの民の荒野の旅路の姿を描きます。「出エジプト記」は英語では「エクソダス」、「〜の道から」、エジプトの道からの脱出を意味します。12章37節、38節には「イスラエル人はラメセスから、スコテに向かって旅立った。幼子を除いて、徒歩の壮年の男子は約六十万人。さらに、多くの入り混じって来た外国人と、羊や牛などの非常に多くの家畜も、彼らとともに上った」とあり、壮年男子だけでも六十万、ある説では老人、女性、子どもも含めると三百万人近い一大民族移動が始まります。13章17節、18節にもこの時の光景が繰り返されています。「さて、パロがこの民を行かせたとき、神は、彼らを近道であるペリシテ人の国の道には導かれなかった。神はこう言われた。『民が戦いを見て、心が変わり、エジプトに引き返すといけない。』それで神はこの民を葦の海に沿う荒野の道に回らせた。イスラエル人は編隊を組み、エジプトの国から離れた」。イスラエルの民の出発点ラメセスが今のエジプトのどの場所であったかは特定が難しく、彼らが進んだルートにもいくつかの説があります。シナイ半島の北を地中海に沿って西から東に進む北ルート説、スエズ湾の北端からシナイ半島中程を東西に突っ切る中央ルート説、そしてスエズ湾沿いを南下し、半島の南をぐるりと回ってアカバ湾沿いを北上する南ルート説などいずれも確定することはできません。むしろ大切なのはこの道筋が主なる神ご自身の導きの中で開かれていったということです。
 この荒野の旅路の中で繰り返される描写が21節、22節です。「主は、昼は、途上の彼らを導くため、雲の柱の中に、夜は、彼らを照らすため、火の柱の中にいて、彼らの前を進まれた。彼らが昼も夜も進んで行くためであった。昼はこの雲の柱、夜はこの火の柱が民の前から離れなかった」。この主の臨在に導かれて、イスラエルの民は荒野の旅路を進んで行くのでした。
 
5.マナの経験
 エジプトからの脱出を遂げたイスラエルの民は、主の臨在の雲の柱、火の柱に導かれ、モーセに率いられながら約束の地カナンを目指して荒野の道を進みますが、それは決して平坦な道のりではなく、むしろ文字通り多くの困難の続く「荒野の道」でありました。そしてこの旅路自体がイスラエルの民が真により頼むべきお方を知り、そしてこのお方に従っていくための、主なる神ご自身が与えられた訓練の経験でもあったのです。この主の臨在による訓練の経験で重要なのが、出エジプト記16章に記される「マナ」の経験でした。「そのとき、イスラエル人の全会衆は、この荒野でモーセとアロンにつぶやいた。イスラエル人は彼らに言った。『エジプトの地で、肉なべのそばにすわり、パンを満ち足りるまで食べていたときに、私たちは主の手にかかって死んでいたらよかったのに。事実、あなたがたは、私たちをこの荒野に連れ出して、この全集団を飢え死にさせようとしているのです』」(2-3節)。
 荒野でのイスラエルを一言で言い表すなら「不平、不満を言う民」ということです。彼らはこの旅路の途上で幾度となく主への不満を口にします。イスラエルは荒野において苦しい現状に直面するとすぐに過去を振り返り、過去を美化し、その中に逃げ込もうとする。そして苦しい現状の原因を神のせいにして不平不満を述べるのです。このようなイスラエルの態度に対して主は答えられます。「見よ。わたしはあなたがたのために、パンが天から降るようにする。民は外に出て、毎日、一日分を集めなければならない。これは、彼らがわたしのおしえに従って歩むかどうかを試みるためである。六日目に、彼らが持って来た物を整える場合、日ごとに集める分の二倍とする」(4-5節)。こうして主は天からパンを降らせて彼らを養ってくださるというのです。しかもこのことを通して、主はイスラエルのつぶやきが単にモーセやアロンという指導者に対するものにとどまらず、それは主ご自身に対するつぶやきであることを教えようとなさるのでした。「あなたがたのつぶやきは、この私たちに対してではなく、主に対してなのです」(8節)とあるとおりです。
 こうして主が約束してくださったとおり、天からの食物が降り注ぎます。「それから、夕方になるとうずらが飛んで来て、宿営をおおい、朝になると、宿営の回りに露が一面に降りた。その一面の露が上がると、見よ、荒野の面には、地に降りた白い霜のような細かいもの、うろこのような細かいものがあった。イスラエル人はこれを見て、『これは何だろう』と互いに言った。彼らはそれが何か知らなかったからである。モーセは彼らに言った。『これは主があなたがたに食物として与えてくださったパンです。主が命じられることはこうです。「各自、自分の食べる分だけ、ひとり当たり一オメルずつ、あなたがたの人数に応じてそれを集めよ。各自、自分の天幕にいる者のために、それを取れ」』」(13-16節)。
 こうして主が与えてくださった天からの食物がマナです。「イスラエルの家は、それをマナと名づけた。それはコエンドロの種のようで、白く、その味は蜜を入れたせんべいのようであった」(31節)。このマナは不平不満のような祈りにも答えてくださる主の恵みのしるしであり、イスラエルの民を見捨てずに養い続けてくださる主の真実のしるしであり、そして何よりも主の救いの御業の原点を思い起こさせてくださるしるしでありました。イスラエルの民が「これは何だろう」と語った言葉、これが「マナ」という言葉です。すなわちそれは単に天からの食物を差して言う「これは何だ」にとどまらず、主がイスラエルの民に為してくださった救いの御業の全体を見渡して「これは何だ」と繰り返し思い起こすための「マナ」なのでした。
 このマナには天からの食物としての不思議な特徴がいくつかありました。一つ目は毎日その日の分だけを集めるということ、二つ目はそれでも決して余ることなく、足りないことがないということ、三つ目は安息日の分は六日目にきちんと与えられるということでした。しかしここにも人間の罪深さがすぐに表れます。主が一日分といってもそれを聞かないで翌日まで取っておく者があり、また安息日である七日目にも集めに出る者があったのです。しかし私たちはこのマナの見るときに、そこに大切なメッセージを受け取ることができるのではないでしょうか。マナは私たちに日ごとの糧を与えてくださる主の臨在の恵みを物語っています。その日、その日に必要な糧を主は与えてくださる。主に信頼して従う者を決して飢えさせず、必ず養ってくださるとの約束の食物です。この主の真実を疑う時、私たちは自分で自分の倉を満たそうとする欲望が生まれてきますし、他人の物を欲しがる盗み心やむさぼりの心が起きてくるのです。しかし私たちの主は私たちを日ごとのパンで養い、生かしてくださるお方なのです。さらにマナは私たちに主なる神の救いを語っています。それは主の救いの御業を覚えるためのパンなのです。32節に「それを一オメルたっぷり、あなたがたの子孫のために保存せよ。わたしがあなたがたをエジプトの地から連れ出したとき、荒野であなたがたに食べさせたパンの彼らが見ることができるために」とあるように彼らはこのマナを通して主の救いの御業を思い起こし続けるのです。
 
6.契約の民として
 続いて19章5節、6節で「今、もしあなたがたが、まことにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るなら、あなたがたはすべての国々の民の中にあって、わたしの宝となる。全世界はわたしのものであるから。あなたがたはわたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる」と主なる神がイスラエルとの間に契約を結ぼうとされ、20章ではこの契約の本体となる十の戒めが与えられ、21章から23章にかけてはこの十戒の応用、適用篇ともいうべき様々な定めとおきてが与えられ、それを受けて24章では主なる神とイスラエルの民との間で契約の締結が行われます。
 モーセは契約締結のために祭壇を築き、礼拝の準備を整えます。「そうしてモーセは、翌朝早く、山のふもとに祭壇を築き、またイスラエルの十二部族にしたがって、十二の石の柱を立てた。それから、彼はイスラエル人の若者たちを遣わしたので、彼らは全焼のいけにえをささげ、また、和解のいけにえとして雄牛を主にささげた。モーセは血の半分を取って、鉢に入れ、残りの半分を祭壇に注ぎかけた。そして、契約の書を取り、民に読んで聞かせた。すると、彼らは言った。『主の仰せられたことはみな行い、聞き従います』。そこで、モーセはその血を取って、民に注ぎかけ、そして言った。『見よ。これは、これらすべてのことばに関して、主があなたがたと結ばれる契約の血である』」(4-8節)。こうして主なる神は御自身の民イスラエルとの間に契約を結ばれました。この契約とは主なる神が御自身の民に対して恵みと祝福の約束を与えてくださる。イスラエルはこの神のおきてと定めに聴き従うというものでした。ここには主なる神とイスラエルの民との基本的な関係が、「語りかけてくださる神と聴き従う民」であったことが明らかにされます。
 契約締結の場面に続いて、非常に印象深い光景が記されます。「それからモーセとアロン、ナダブとアビフ、それにイスラエルの長老七十人は上って行った。そうして、彼らはイスラエルの神を仰ぎ見た。御足の下にはサファイヤを敷いたようなものがあり、透き通っていて青空のようであった。神はイスラエル人の指導者たちに手を下されなかったので、彼らは神を見、しかも飲み食いをした」(9-11節)。主なる神が語ってくださり、民がその御声に聴き従うという信仰をはっきりと言い表した時、「彼らはイスラエルの神を仰ぎ見た」というのです。神の御声に聞く民は、神の臨在を仰ぎ見ることがゆるされる。それは生ける神を信じ、その御声に聴き従う決断をくだした民への神の特別の顕現であり、祝福のしるしです。私たちもこの礼拝において主なる神の御声を聞き、その御声に聴き従う時、神の臨在を仰ぎに見ることが許されている。主イエス御自身が「わたしを見た者は、父を見たのです」とおっしゃってくださった通り、今や聖霊によって私たちもこの礼拝において主イエス・キリストの臨在を仰ぎ、主イエス・キリストの父なる神の栄光を仰ぎ見ることができるのです。
 
7.幕屋の礼拝
 次に出エジプト記における「主なる神の臨在」を考える上で、重要な意味を持つ幕屋の建立の様子を見ておきましょう。25章以降、詳細な幕屋の図面とその調度品や祭司の装束についての仕様が示され、36章以降では、その仕様に基づいて実際に工事が進められていく様子が記されます。幕屋の造りはアカシヤ材で組み上げた骨組みの上に四重に幕を覆い被せるというもので、全体の大きさは入口側から見て幅が10キュビト、高さが10キュビト、奥行きが30キュビト、すなわちおよそ幅4メートル、高さ4メートル、奥行き12メートルほどの四角いテントのようなものでした。
 幕屋の内側に入ると、手前から20キュビト、すなわち約8メートルのところに仕切りの垂れ幕があり、手前側が聖所、奥側が至聖所と呼ばれる部分となっていました。ちょうど手前の聖所と奥の至聖所の割合は二対一で、至聖所は縦、横、高さが10キュビト、約4メートル四方の正立方体です。この至聖所の構造は主なる神の完全さをあらわしていたとも考えられています。さらに31節から35節に次のように記されます。「青色、紫色、緋色の撚り糸、撚り糸で織った亜麻布で垂れ幕を作る。これに巧みな細工でケルビムを織り出さなければならない。これを、四つの銀の台座の上に据えられ、その鉤が金でできている、金をかぶせたアカシヤ材の柱につける。その垂れ幕を留め金の下に掛け、その垂れ幕の内側に、あかしの箱を運び入れる。その垂れ幕は、あなたがたのために聖所と至聖所との仕切りとなる。至聖所にあるあかしの箱の上に『贖いのふた』を置く。机を垂れ幕の上に置き、その机は幕屋の南側にある燭台と向かい合わせる。あなたはその机を北側に置かなければならない」。
 イスラエルの民は、この幕屋を担って荒野の旅を続けました。彼らにとっての礼拝とは定まった一つの場所に集まってくるということでなく、ともに歩まれる主なる神のもとにいつも集まるということでした。主の臨在は実に自由なものであり、その自由なる導きに従って歩むことが彼らの生きた信仰の養いであったのです。出エジプト記の終わりの40章では、その幕屋での最初の礼拝の様子が描かれていきます。第一の月の第一日、彼らは主の指示通りに建てられた幕屋において礼拝をささげるのです。こうしてついに幕屋が完成したときに、主の栄光が満ちあふれます。「そのとき、雲は会見の天幕をおおい、主の栄光が幕屋に満ちた。モーセは会見の天幕に入ることができなかった。雲がその上にとどまり、主の栄光が幕屋に満ちていたからである」(34-35節)。この雲は主なる神の御臨在のしるしであり、主がイスラエルとともにあることのしるしでありました。そして彼らはこの神の臨在の雲に導かれて新たな旅立ちをするのです。「イスラエル人は、旅路にある間、いつも雲が幕屋から上ったときに旅立った。雲が上らないと、上る日まで、旅立たなかった。イスラエル全家の者は旅路にある間、昼は主の雲が幕屋の上に、夜は雲の中に火があるのを、いつも見ていたからである」(36-38節)。
 この神の臨在の雲に導かれる姿は、これから先のイスラエルの荒野の旅路において繰り返し現れる姿です。そこで彼らは主の時の中を生きる訓練を受けていきました。旅人、寄留者として生きる私たちも、主なる神の御心をたずね求めながら、その御心に従って歩んで行きたいと願います。主が立てと言われる時に立ち上がり、主がとどまれと言われる時にとどまり、主が旅立てと言われる時に旅立つ。この主への信頼と服従をもって、主の臨在に導かれながら、ここからまた新しく旅路の一歩を踏み出してまいりたいと願います。

おわりに−神とイスラエルとの遊びとしての臨在
 旧約学者のウォルター・ブリュッゲマンは『古代イスラエルの礼拝』(大串肇訳、教文館、2008年)という著書の最終章で、「礼拝 遊びにおけるイスラエル」という興味深い章を立てて論じています。ブリュッゲマンは、ここで「イスラエルの礼拝にははっきりと確定できない曖昧さがある」とし、「このことが礼拝に大きな影響を与え、ヤハウェとイスラエルとの間で交わされる契約上のかかわり合いを示す特徴にもなっている」と言います。ブリュッゲマンの言う「遊び」とは「娯楽、余暇、あるいは気晴らしや、楽天的で、はめをはずした自己表現としての『遊び』」のことでなく、「ここで言及する『遊び』とは、自動車のハンドルを切るときの、ハンドルの『遊び』と呼ばれている『ずれ』のことである」とし、それをもって「イスラエルの礼拝はもっぱら契約者同士の間だけでなされているが、その契約の本質は、中身の濃い、いくつもの意味が込められた、意図的な、新しい可能性を担う、相互のやりとりにあり、そのやりとりにはある種の融通が許されており、両者間の決まりごとだけではなく、互いの自由が重んじられているということである」(111-112頁)というのです。
 その上でブリュッゲマンは「神の臨在と不在との間の遊び」という表現を用いて、イスラエルの礼拝が、この神の臨在と不在の間を行き来するものであり、そこにおいて神の自由が現され、神と民との契約の関係が示されていることを指摘します。この神の「自由」を見ることは重要です。ブリュッゲマンは次のように言います。「その自由は神の臨在が機械的に肯定されるような『仕組み』によって、大路絵の人々がなるべく容易に受け入れやすいように扱われてはならない。問題はかなり深刻である。その原因は、そもそもヤハウェ自身の特性による。つまり、ヤハウェはイスラエルと契約に基づく相互関係にあると同時に、イスラエルを支配する、非常に厳格で、かつ絶対無比なる関係にあるということである。これらを調整することを通して、礼拝に対して全幅の信頼を寄せることが可能になる。この信頼こそ、イスラエルの大胆さと安定にとってどうしても必要であった。そして同時に、イスラエルがヤハウェ自身の命の神秘をすべて見抜いていたという可能性はすべて排除されたのである」(130頁)。
 この神の遊びをきちんと認めることが、私たちが主の臨在に導かれて進む時の大事な心構えとなるでしょう。主なる神の導きを私たちは法則化することはできませんし、主なる神の臨在を私たちが管理し、操作することはできません。だからこそ私たちは常に新しく主の御声に聴き、それに従う信仰の決断を繰り返し、生ける神を仰ぎ見て一歩一歩進んでいくほかないのです。



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