2013年度新年聖会 朝拝 2013/01/20
『旅する教会』

民数記9:15-23

 今日は、2013年の新年聖会の主日です。私たちの教会では毎年1月に、礼拝と午後の集いを通して教会の一年の主題の御言葉に聴いて、ともに歩んでいく教会の一年の歩みを整えています。この年、私たちの教会に与えられているのは、旧約聖書民数記の9章、標語としては20節の一部を掲げていますが、実際には15節から23節の御言葉です。
 私たちの教会は2008年に、教会の理念と方向性を示す「私たちのこころざし」を定めました。そこにおいて私たちは自らの拠って立つところを確認し、委ねられた宣教の使命を掲げ、これから先に進んでいく方向を見据えました。この使命に沿って昨年からは礼拝二部制を開始し、一人でも多くの方を主の御許にお招きしたいと願って様々な取り組みを続けています。またこの使命を実現していくための器として、宣教50周年を迎える2015年に新会堂を主におささげしたいとの祈りも積み上げられて来ています。
 しかしながらこれからに向かっての大きな一歩を踏み出すためには、私たちの考えや計画によってではなく、主なる神ご自身による確かな導きをいただかなければなりません。そこで私たちが見つめたいのが、あの出エジプトを遂げたイスラエルの民が四十年に及ぶ荒野の旅路を歩んだ際の大切な原則、すなわち主の臨在を現す雲の柱、火の柱に導かれて歩むという姿です。この朝、私たちも生きておられる主なる神の御臨在の導きによってのみ決断していく信仰を、ともに養っていきたいと願います。

(1)荒野のイスラエル
 この朝開かれている民数記は、奴隷状態であったイスラエルの民がモーセに率いられてエジプトを脱出し、約束の地カナンを目指すにあたって実に四十年もの長きにわたって放浪した荒野での年月が記される書物です。ヘブル語旧約聖書では「荒野にて」(ベ・ミドゥバル)と呼ばれるほどで、まさに本書の舞台を表す書名と言えるでしょう。この書物の主題は、イスラエルの民がなぜ四十年もの長い時間をかけて荒野を旅し続けなければならなかったのか、そこに露わにされる民の不信仰の姿と、彼らを訓練し、整えて、約束の地へと導かれる主なる神の真実を示すことにあったと言えるでしょう。彼らが約束の地カナンに入るためには、この荒野の期間がどうしても必要であったのであり、それは私たちの神の国を目指す旅路の進み方にも大切な示唆を与えるものと言えるのです。
 15節、16節。「幕屋を建てた日、雲があかしの天幕である幕屋をおおった。それは、夕方には幕屋の上にあって火のようなものになり、朝まであった。いつもこのようであって、昼は雲がそれをおおい、夜は火のように見えた」。今日の御言葉は、彼らの一見脈絡なくさまよい、さすらうばかりに見えるこの荒野の旅路が、実は主なる神の確かな守りと導きのうちにあったことを示している箇所です。この主なる神の守りを象徴的に表していたものが「雲」でした。この雲はイスラエルの民が進む時には彼らを敵の手から守り、彼らが定住するときには、その中心である幕屋をおおうもので、幕屋の中に収められていた神の箱と同様に、主なる神御自身の聖なるご臨在を表していました。そしてこの臨在の雲は、昼だけでなく夜も火のようになって民の前にあり、片時も離れることなく彼らの上にとどまり続けていたというのです。こうして彼らはいつでも、どこでも、誰であってもはっきりと、主なる神の守りを毎日その目で確かめることができたのです。臨在の雲はいつも民とともにあった。主なる神のみこころをたずね求めていくにあたっての大前提は、主なる神は絶えず我らとともにいてくださるお方であるという、主なる神に対する確信と信頼であるということなのです。

(2)立ち上がる勇気、とどまる忍耐
 続いて17節、18節。「雲が天幕を離れて上ると、すぐそのあとで、イスラエル人はいつも旅立った。そして、雲がとどまるその場所で、イスラエル人は宿営していた。主の命令によって、イスラエル人は旅立ち、主の命令によって宿営した。雲が幕屋の上にとどまっている間、彼らは宿営していた」。さらにこの雲の存在は、主なる神の守りと臨在のあかしであるばかりでなく、老いも若きも男も女も含めた大群衆を約束の地へと正しく導くための唯一の道しるべでもありました。雲が上れば彼らは大移動を始め、雲が止まれば彼らはそこに定住しました。そして再び雲が上るまではそこに止まり続け、そしてまた雲が上ればすぐさま彼らは旅立ったのです。彼らはこの雲に我らを導きたもう神の御心を見出し、その雲に導かれて荒野の旅を続けていったのでした。
 主なる神の定めたもう時は、しばしば私たちの時の尺度とうまくかみ合わないようなことがあります。降って湧いたような唐突な時の訪れがあるかと思えば、もう忍耐の限界を越えてしびれを切らし、ようやくといったような時の訪れもあります。イスラエルの民にとっても、この地に留まり続けたいと思うような時に雲が上ってしまうこともあったでしょうし、あるいはすぐにでも旅立ちたい、外の場所に移りたいと思う時に、いっこうに雲が上る気配もないというような時もあったと思うのです。やっとその土地で落ち着いた生活が始まろうとする矢先に、雲が上ってまた他の土地に旅を続けて行くことは、多くの民にとって、殊に年老いた者、病気の者、幼子を抱えた者にとっては困難極まりないものだった違いありません。また一体次はどこに行くのか、落ち着く当てもないままに出発して行くのには大きな決断と勇気が必要だったでしょう。しかし彼らはそれがたとえ昼でも夜でも、一日でも二日でも、そこがどんなに自分達にとっての快適な場所であったとしても、雲が上ると直ちに旅立って行ったのでした。
 さらに19節から22節。「長い間、雲が幕屋の上にとどまるときには、イスラエル人は主の戒めを守って、旅立たなかった。また雲がわずかの間しか幕屋の上にとどまらないことがあっても、彼らは主の命令によって宿営し、主の命令によって旅立った。雲が夕方から朝までとどまるようなときがあっても、朝になって雲が上れば、彼らはただちに旅立った。昼でも、夜でも、雲が上れば、彼らはいつも旅立った。二日でも、一月でも、あるいは一年でも、雲が幕屋の上にとどまって去らなければ、イスラエル人は宿営して旅立たなかった。ただ雲が上ったときだけ旅立った」。自分なら「なぜ神は私をこんなところに置かれるのか」、「自分の計画とまるで違う」、「こんな人生を歩むはずではなかった」、こんな言葉が次々と浮かんできます。けれども民は雲が上るまでは決して旅立ちませんでした。雲が止まり続けている限りは一年でも二年でもその地に止まり続けたのです。そこには深い忍耐が必要とされていました。

(3)主の臨在に導かれて
 このような彼らの決断と忍耐を支えていたものはいったい何だったのでしょうか。それが次の御言葉に見事に言い表されています。23節。「彼らは主の命令によって宿営し、主の命令によって旅立った。彼らはモーセを通して示された主の命令によって、主の戒めを守った」。彼らは主の命令に従った。実に単純に、しかし徹底的に主の命令に従ったのです。彼らは雲が動き出すのはいつで、次に向かう先はどこで、そうなるのはなぜか、ということは一切知らされていません。御心は神のみがご存じであり、彼らはただ雲の動きに従うだけです。しかし民はこの旅の最終的な目的地は約束の地カナンであるということ、そして自分たちはそこまでの旅路をこの雲によって導かれて行くのだということは知っていました。そして何よりも彼らの確信の根拠には「この雲は神のご臨在である」という信仰にありました。だからこそ彼らは自分たちに知らされている事柄の中に、神の御心を見い出し、その御心を神の命令と受けとめて従順に従っていったのです。
 私たちにとって「主の臨在に導かれる」とは、いかなることを意味しているのでしょうか。荒野を旅する神の民にとって雲の柱、火の柱となってあらわれた主なる神の御臨在は、今の時代を生きる私たちにはどのように示されるのでしょうか。旧約のイスラエルと今の私たちとの間の違いや隔たりを超えて、それでもなお私たちが主の臨在のもとに生かされていることを知るのは、聖霊のお働きによるものであることを覚えましょう。主の臨在に導かれるとは、父と御子の霊である聖霊に導かれることです。父なる神は、私たちに救い主、御子イエス・キリストをお与えくださり、御子の十字架の贖いによって私たちに救いを与えてくださいました。そうして罪赦され、神の子とされ、神の教会に結び合わされた私たちは、聖霊によって父と子の御心を知る者とされ、神の子どもたちとして、神の御心に従って生きる者とされています。そして御子イエス・キリストは私たちに今、助け主なる聖霊を送ってくださり、聖霊は御言葉を通して私たちに語りかけ、主の臨在のもとに生きる者としていてくださるのです。ですから聖霊に導かれるとは、先ず何よりも御言葉に導かれることにほかなりません。ヘブル書1章1節、2節に「神は、むかし先祖たちに、預言者たちを通して、多くの部分に分け、また、いろいろな方法で語られましたが、この終わりの時には、御子によって、私たちに語られました」とあります。ここには主なる神が私たちに対してご自身の救いの御心を明らかにしてこられた語りの歴史がまとめられています。旧約聖書は天地創造の時から、アブラハムとの契約を経て、イスラエルの民の歴史の中で神が預言者たちを通して語ってこられた救いの御心が記されています。
このようにかつて旧約の時代には預言者によって、そして新約の時代には御子イエス・キリストによって語ってくださった神は、今私たちにどのように語りかけておられるのでしょうか。もうイエス・キリストは天に挙げられて、今は私たちの前にはおられません。では私たちはもうその御声を聞くことはできず、ただその言葉を記録した書物である聖書を繰り返し読むことに過ぎないのでしょうか。16世紀の宗教改革の時代にスイスのチューリヒで活躍したハインリヒ・ブリンガーという改革者が著した『第二スイス信仰告白』の第一章、聖書についての告白の中に次のような一文があります。「我々は聖なる預言者と使徒による正典たる書、すなわち旧・新約聖書が、神のまことの言葉そのものであり、それ自身で十分な権威を持ち、人間によって権威付けられるものでないと信じ、かつ告白する。すなわち、神は自ら父祖たち、預言者たち、使徒たちに語りたまい、今なお書かれた聖書によって我々に語りたもうのである」。ここで第に告白が、神は今もなお書かれた聖書によって私たちに語っていると告白していることに注目したいと思います。そこで決定的なのは聖霊なる神のお働きです。聖霊は今、御言葉とともに働いて、神の語りかける言葉を私たちに聞かしめ、それを悟らしめ、それに従う信仰を与えてくださるお方です。そしてそのために欠け多き罪人である人間を説教者として召し、その説教者を通し、教会の礼拝において、今も語り続けておられるのです。このように、かつて預言者を通して語られた神は、御子イエス・キリストにおいて語られ、そして今はこの御子イエス・キリストが聖霊を通し、御言葉によって、説教者を用いて語っておられる。それが聖書を通しての神の語り方なのです。いつでも御言葉が開かれる度に新しくご自身の御心を明らかにし、私たちを慰め、戒め、励まし、新しい人問として生かすべく聖霊を通して語っていてくださるイエス・キリストと、その父なる神の大いなる語りかけを期待して御言葉を開くのであり、聖書はその度ごとに私たちに新しい言葉をもって語りかけてくださる、まさしく生ける神の言葉です。この御言葉に私たちもまた新しく心開いて聞き、そして信じ従うものとならせていただきたいと願うのです。そこにこそ主の臨在に導かれて進む旅する教会の姿があるのです。
 迎えた2013年、私たちは主の臨在の恵みに溢れる主日礼拝をささげ、主の導きを生ける確かな御言葉の語りかけから受け取り、そして時を通して示される主の導きを見極めて、時に熟慮を積み重ね、時に大胆に勇気を持って決断し、そのようにして旅人の教会としてこの地に責任を果たしつつ御国の完成を目指して進んでいく徳丸町キリスト教会でありたいと願います。



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