2012年度新年聖会 朝拝  2012/01/22
『主との交わり、主にある交わり』

Iヨハネ1:1-4

 今日は、2012年の新年聖会の主日です。私たちの教会では、毎年一月の主日、礼拝と午後の集いを通して教会の一年の主題の御言葉に聴いて、ともに歩んでいく教会の一年の歩みを整えています。すでに繰り返されているように、この年私たちの教会に与えられているのは、ヨハネの手紙一1章3節の御言葉です。「私たちの見たこと、聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたも私たちと交わりを持つようになるためです。私たちの交わりとは、御父および御子イエス・キリストとの交わりです」。
 ここからこの朝は、「主との交わり」、「主にある交わり」と題して、ご一緒に御言葉に聴いてまいりたいと思います。主がお一人一人の名前を呼んでこの朝もこの礼拝に招いてくださいました。ここにこの朝、新しく形作られている交わりに感謝し、その交わりを形作るかけがえのないお一人一人の上に、主の豊かな祝福があるようにお祈りいたします。
 
(1)私たちの交わり
 今年の教会の主題を「交わりに生きる教会」としました。「交わり」。教会ではよく使われるなじみ深い言葉ですが、しかし普段の生活の中ではそれほど使う言葉でないように思います。「今日は何時から交わりしようね」とか「明日の二時間目は交わりです」とか、
「おい、今日の晩は交わり付き合えよ」などという言い方はあまりしないでしょう。私たちの普段の語感では「交わり」というのは親しい間柄同士の友人や職場の仲間、先輩後輩の「お付き合い」や、あるいは新しい人と出会うための「交流」といったものであるかもしれません。教会ではどうでしょう。教会で「交わり」というとき、そこでもやはり多くの場合は、教会の皆さんが一緒のお茶を飲んで語り合ったり、ご飯を食べたり、遊んだりということがまずイメージされるのではないでしょうか。初代教会は「愛餐」を大切にしました。一緒に食事をすることを教会は重んじます。そこでは富む人も貧しい人も一緒に食卓について、食事をしながら語り合い、信仰の養いを受けていったのです。
 けれどもそれが果たして教会の交わりの本質かといえば、まだまださらにその奥行きがあるのです。聖書では「交わり」のことを「コイノーニア」と言います。この言葉については午後の集いでさらに詳しく取り扱いたいと思っていますが、結論的なことを申し上げると、「コイノーニア」というのは一つのものを皆が共有している姿、一つのものにともに与っている姿を意味する言葉です。そこでは単に親しい集まりがあるとか、気の合う仲間があるということでなく、中心にあるものに皆が繋がって、それを共有し、それに参与することで、共有し、参与しているお互いもまた繋がっている、それが聖書の教える交わりの姿、コイノーニアの姿なのです。ここから今日の「主との交わり、主にある交わり」という説教題の意図もお分かりいただけるのではないかと思います。私たちの互いの間の交わり、水平の次元の交わり、それこそ「兄妹姉妹」と呼び合い、「家族的」と言われるような交わりは「主にある」交わりであって、その中心には垂直の次元の交わり、すなわち「主との交わり」があるのです。この縦の軸と横の軸との関係をよく理解しておくことは大切です。しばしば教会の交わりでさえもこの縦の軸の交わりが見失われて、人間的な親しさや近さだけが重んじられ、そこから教会が罪人の集まりであることが忘れ去られて、教会の交わりが理想化され、理想化されるがゆえにそうでない交わりの姿に触れてつまづきを覚え、教会には愛がない、真実な交わりがない、という不満や批判が起こってくることがあるのです。

(2)主イエスとの出会いが生み出す交わり
 では神の民の交わりが形作られていくために必要なものとは一体何なのでしょうか。今日はヨハネの手紙一の冒頭の数節の御言葉が与えられています。私たちの教会ではすでに礼拝でヨハネの黙示録を学び、今はヨハネ福音書を学んでいます。福音書の後には、順番は前後しますヨハネの三つの手紙を扱ってヨハネ文書をすべて学びたいと願っていますので、今日はこの手紙自身のことを詳しく学ぶことは控えますが、まずここでヨハネが語る
3節の言葉に耳を傾けたいと思います。「私たちの見たこと、聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたも私たちと交わりを持つようになるためです。私たちの交わりとは、御父および御子イエス・キリストとの交わりです」。ここにはヨハネがこの手紙を書く目的が示されています。この手紙は、長老ヨハネがエペソから小アジアの各地に散らされている諸教会の兄弟姉妹に書き送ったものですが、その頃の教会にはイエスがキリストであることを否定するグノーシス主義と呼ばれる異端思想が蔓延していました。それでヨハネはイエスこそが神の御子、まことの光なるお方、救い主キリストであることをあかしするためにこの手紙を書き送ったのです。まさにヨハネ福音書で描いた神の御子イエス・キリストのことをあらためて紹介するために書き送ったのがこの手紙なのです。
 ヨハネはここで異端の教えに惑わされ、交わりから離れていこうとする人々に向かって、「私たちと交わりを持ってほしい。私たちとの繋がりを切らないでほしい」と訴えているのですが、しかしそこで心に留めたいのは、そのための手段として人間的な情愛に訴えたり、両者の付き合い長さ、古さ、深さといった水平の次元のことを用いようとしない事実です。ではヨハネがそれに代わって用いる手段はなにか。それがイエス・キリストとの出会いの経験ということでした。ヨハネは「私たちの見たこと、聞いたことを、あなたがたにも伝える」と言います。私とあなたがたを結びつけているもの、それは私の見たこと、聞いたこと、その経験の共有だというのです。それが互いの交わりを形作っている中心にあるものなのです。ここでヨハネが「私たちの見たこと、聞いたこと」の経験こそが、1節、2節で語られているものです。1節、2節。「初めからあったもの、私たちが聞いたもの、目で見たもの、じっと見、また手でさわったもの、すなわち、いのちのことばについて、−このいのちが現れ、私たちはそれを見たので、そのあかしをし、あなたがたにこの永遠のいのちを伝えます。すなわち、御父とともにあって、私たちに現された永遠のいのちです−」。この手紙の書き出しを読むと、あの福音書の書き出しを思い浮かべることができます。「いのちのことば」、「いのち」、「あかし」、「永遠のいのち」。いずれもヨハネ福音書で繰り返し登場する大切な言葉です。「いのちのことば」、それは紛れもなく、神の御子イエス・キリストご自身を指しています。このイエス・キリストとの出会いの経験を、ヨハネは「私たちが聞いたもの、目で見たもの、じっと見、また手でさわったもの」と言い、「私たちの見たこと、聞いたこと」と言う。実に味わい深い表現だと思います。ヨハネにとっての主イエスとの出会いの経験、それはまさしく主イエスご自身の言葉を聞き、そのお姿を目で見、主イエスのお体を手で触るような親しい、緊密な経験であり、その主イエスの語られた言葉、為された御業を彼は間近でつぶさに見て、聞いてきた。それらの中での一番の経験が、十字架の死と、そしてその死からからだをもってよみがえられた主イエスとの再会の経験でした。
 グノーシス主義というのは、霊肉二元論です。目に見えない精神的なものを上位において、目に見える物質的なものを低く見て、否定する考えです。ですからそこでは神が肉体をとって人になるということは決して認められるものではなく、まして死んだ肉体が復活するなどということは否定されなければならないものでした。しかしヨハネはここでまさに神の御子イエス・キリストは、肉の体をまとって私たちのもとに来てくださったいのちのことばなるお方であり、そしてまた肉の体をもってよみがえられて、私たちに永遠のいのちを与えてくださるただお一人の救い主であられることをはっきりと語っています。

(3)主にある交わりを形作るもの
 そうであればこそ、「私たちの交わりとは、御父および御子イエス・キリストとの交わりです」という御言葉の意味もまた鮮やかになってまいります。私たちの交わりを形作るもの、それは私たちのお付き合いの近さ、私たちのお付き合いの親しさ、私たちのお付き合いの長さによるものではない。それ以上の確かなものです。人間同士の交わりは、どんなに近く、どんなに親しく、どんなに古い長いものであっても、しかしちょっとしたことであっけなく崩れ去っていくものです。教会もまたその弱さを免れることはできません。教会の歴史を振り返れば、教会がいかに分裂分派を繰り返してきたか枚挙に暇もないほどです。ですからこの朝、はっきりと覚えておきたい。この年私たちが交わりに生きる教会になるというのは、徳丸町キリスト教会をただの仲良し教会にしようというのではない。大切なことは私たちが、私たち一人一人が、十字架に死に、よみがえられた救い主イエス・キリストとの出会いを果たし、その出会いの経験をいつも瑞々しく覚え、しっかりと主イエス・キリストと結ばれて生きるということであり、また私たちを愛し、御子イエス・キリストを十字架につけるほどの愛をもって私たちを愛し抜いてくださり、この御子を死者の中からよみがえらせなさることをもって、私たちに今、まったき罪の赦しと神の子どもとしてのすべての特権と祝福を与え、終わりまで私たちの救いをまっとうしてくださるイエス・キリストの父なる神、そして私たちの父なる神にしっかりと結びついて生きるといことです。これこそが「私たちの交わりとは、御父および御子イエス・キリストとの交わりです」とヨハネが書き送った交わりの本質なのです。
 私は牧師であった父の説教をそれほどきちんと聞いた記憶が数少ないのですが、それでも記憶の中にある言葉の中に、教会の交わりについて教えられた言葉があります。教会の交わりとは傘のようなもので、てっぺんにイエス様がおられ、皆がイエス様に向かって繋がっていて、皆がイエス様に近づいて行けば行くほど、互いの間の距離も近づいていく、そんな言葉でした。お互いが近づかないと交わりが出来ないという声を聞くことがあります。何でも話し合えて、何でも聞いてもらえて、何でも受け入れてもらえる。それがまじわりだと言われます。そういうものがないと教会が冷たいと思ったり、教会の交わりがよそよそしいと感じられたり、あるいはもっと本音で語り合おうというような建前信仰が生まれてきます。しかし私たちに与えられている交わりは、そのような人間の言葉の交わし合いすらも超えたところから来る交わりです。お互いをさらけ出し合い、お互いに思っていることを口にし合えば真実な交わりができると考えるのは、私たちが自分自身の罪を見逃しているゆえの誤りです。

(4)喜びが満ち溢れるために
 私たちは主イエス・キリストにつながって生きるいのちに生かされているのであり、そしてまた主イエス・キリストにつながった私たちがいっしょに生きるいのちに与り、生かされているのです。そこでは誰もが主にあって尊ばれ、喜ばれる存在として認められる必要があります。主にある一致が尊ばれるがゆえにこそ、互いの違いもまた多様性として尊重される必要があります。一人一人がまことに主イエス・キリストに繋がった一人一人として位置づけられる必要がある。主イエス・キリストが十字架にかかって死んでくださったほどの一人として、その存在は愛される存在であり、神の愛のゆえに私たちも互いに愛し、また愛される存在であることを覚えたいのです。
 先週の木曜日に、恩師の宮村武夫先生をお訪ねし、久しぶりに深い語り合いの時に導かれました。先生がいつも口になさるキーワードは「存在の喜び」という言葉であり、「人格が手段とされてはならない」という言葉ですが、今回の語り合いの中でもそのことを繰り返されました。教会もまた人格を手段としてはならない。一人の人のために教会があるのであって、教会のために一人がいるのではない。これは私にとって本当に大切な戒めのような言葉でした。交わりに生きる教会、それは人を手段として扱うような集まりでなく、存在が喜びとなる交わりです。ヨハネは言います。4節。「私たちがこれらのことを書き送るのは、私たちの喜びが全きものとなるためです」。ここで「全きものとなる」と訳される言葉は、直訳すれば「満ち溢れる」という言葉です。主イエス・キリストとの出会いの経験が他者に伝えられていく。教会の交わりが広げられていく。主を信じる民が増やされていく。それを私たちは祈り、願いますが、それはいったい何のためでしょうか。それは、それによって私たちの喜びが満ち溢れるためなのです。昨年、私たちの教会は「いのちの水の流れ出る教会」として歩んできました。その流れはいまなお続いています。主にある出会いの喜びが満ち溢れていく。その喜びの流れの中に新しい交わりが造り上げられていく。この喜びの流れの中に、この年、皆さんお一人お一人が生き、歩んでいっていただきたい。それが父なる神、御子イエス・キリスト、そして聖霊なる神の私たちに対する御心なのです。



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