新年聖会 朝拝  2010/01/17
『あなたは神の栄光を見る』

ヨハネ11:30-22

 この朝も、主が愛してやまない皆さんお一人一人を、その名前を呼んで招いてくださいました。ここに集われた愛する兄弟姉妹の皆さんたちの上に主の祝福があるように祈ります。また願いつつもこの場に集うことができず、病いや痛みとともにある兄弟姉妹たち、この世の働きに従事しなければならない兄弟姉妹たち、信仰の試みの中で礼拝に来ることができずにいる兄弟姉妹たちのことをも覚えたいと思います。そして私たちがここに招かれてあることの恵みを覚えつつ、主イエス・キリストの御言葉の恵みがそのようなお一人一人にも届けられることを願いつつ、この朝私たちに語りかけられているいのちの御言葉に耳を傾けてまいりたいと思います。

(1)神を信じるということ
 この主の日を、私たちはこの年に与えられた御言葉、「もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る、とわたしは言ったではありませんか」、この御言葉を深く味わう日として過ごしたいと願って備えてまいりました。とりわけこの朝、私たちは「神を信じる」者とされ、それによって「神の栄光を見る」者とされていきたいと思うのです。「もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る」と主イエスは言われます。皆さんはいかがでしょうか。今すでに主イエスを救い主と信じて歩んでおられる兄弟姉妹たちにお尋ねしたいと思います。皆さんは神の栄光を見たでしょうか、そして今、神の栄光を仰いでおられるでしょうか。この礼拝には主イエスを信じようと願って誠実に御言葉に聞き続けておられる方々もあります。その方々に「信じるなら、神の栄光を見ることができる」と確信をもってお伝えすることができるでしょうか。むしろ私たちは、信じていてもなお信じる心が激しく揺さぶられるような経験をさせられるのです。神がおられるのにどうしてこのような悲惨なことが起こるのか、そう問わずにおれないような出来事が私たちの周りに起こってきます。信じる心が根こそぎ引き抜かれてしまいそうな信仰の危機が訪れることがあるのです。今日、1月17日は十五年前に阪神淡路の大震災が起こった日です。あの日、五千人以上の人々がいのちを落とし、さらに多くの人が家を失い、仕事を失いました。その後も、家族を亡くし、生きる望みを絶たれて自ら死を選んだ人々も多くありました。ハイチで起こった大地震では、今もまだ被害の全貌がつかめず、死者は二十万人を超えるとの報道もされています。どうしてこんなことが次々に起こるのか。また私たちの交わりの中にも、愛するご家族を亡くされた方がおられます。信仰を持ってまもなくにどうしてこのような出来事が起こるのか。信じていても、痛みや悲しみ、死の闇の力が私たちの心を覆い尽くそうとするのです。
 しかしそのような私たちに対して、なおも主イエス・キリストは「あなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る」と言われるのです。そうであるならばもっと主を信じる者とされたい、もっと主に信頼する者とされたい。そうしてまだ私たちがはっきりと見えていないかもしれない神の御栄光をともに拝する者とされたいと願うのです。
 
(2)もしあなたが信じるなら
 ここに、そのような死の悲しみの中にある女性たちがあります。愛する兄弟ラザロを失ったマルタとマリヤの姉妹です。主イエスは彼らベタニヤの三人をことのほか愛しておられました。彼女たちもその主イエスの愛を疑ってはいません。それで病に苦しむラザロの癒しを主イエスに願うのです。3節。「主よ。ご覧ください。あなたが愛しておられる者が病気です」。しかし主イエスはその求めを受けてもすぐにラザロの元に行こうとはなさいませんでした。6節に「イエスは、ラザロが病んでいることを聞かれたときも、そのおられた所になお二日とどまられた」とあるとおりです。その上で11節になってようやく「わたしは彼を眠りからさましに行く」と言われます。しかしこうしている間にラザロは臨終を迎え、墓に納められてしまいました。そして主イエスご自身もその死をすでに知っておられたような口ぶりをなさるのです。ここでの主イエスの振る舞いをどのように受けとめたらよいのでしょうか。
 この出来事はヨハネ福音書のちょうど真ん中の11章1節からはじまって12章の終わりまで続くもので、この福音書の中で大切な意味を担う出来事です。今、春からのヨハネ福音書の連続講解説教のための予習を少しずつ始めているのですが、ブラウンという聖書学者がヨハネ福音書の枠組みは大きく二つに分けられているとして、前半の1章から12章までを「しるしの書」、後半の13章から21章までを「栄光の書」と位置づけています。前半は主イエス・キリストが神の救いをもたらす神の「ことば」、私たちに永遠のいのちを与えるまことの「いのち」、私たちの罪の闇を照らす「光」であることをさまざまなしるしをもって明らかにされる姿が描かれ、後半は主イエス・キリストが十字架と復活、そして昇天を通して、主イエスを信じる者たちに神の栄光を示す姿が描き出されているというのです。そしてこの二つの枠組みを繋ぐ役割を果たすのが、主イエスのなさった大いなるしるしであり、またご自身の栄光の御業の先取りでもある今日の出来事でした。つまり主イエスは死んだラザロのよみがえりを通してご自身の栄光のお姿を示そうとされているのです。
 しかしそこに至るまでには、私たちはなお信仰の深みへと導かれていかなければなりません。主イエスは私たちの信仰を、まことの信仰、神の栄光を見る信仰へと導いていってくださるのです。ここでマルタとマリヤがそれぞれに口にする一つの言葉に目が留まります。21節ではマルタが言います。「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに」。そして32節ではマリヤも言います。「主よ、もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに」。確かにこの間に、主イエスとマルタとの間の極めて重要な言葉の交わし合いがありました。23節から27節。「イエスは彼女に言われた。『あなたの兄弟はよみがえります。』マルタはイエスに言った。『私は、終わりの日のよみがえりの時に、彼がよみがえることを知っております。』イエスは言われた。『わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか。』彼女はイエスに言った。『はい。主よ。私は、あなたが世に来られる神の子キリストである、と信じております』」。ここには実にはっきりとした主イエスのいのちの宣言があります。いのちのいのちなる主イエスが、わたしを信じる者は死んでも生きると宣言してくださったのです。そしてこれに応答するようにして実に見事なマルタの信仰の告白があります。はい、主よ、信じておりますと彼女はその信仰を言い表すのです。
 けれどもそのように主イエスが語ってくださっていてもなお、私たちの中には「もしあなたがいてくださったら」と嘆く心があり、訴えたい心が起こってくる。マルタもこのように主イエスにあるラザロのよみがえりを信じると言いつつも、いざ主イエスがラザロを墓の中から呼び出そうとなさると「主よ。もう臭くなっておりましょう。四日になりますから」と主の振る舞いを引き留めようとするのです。マルタとマリヤの「もし」は死の力の前に絶望した人間のあきらめの言葉です。「もしあなたがいてくれたら私の愛するラザロは死なずにすんだだろうに、どうしてすぐに来てくれなかったのですか。今となってはもう手遅れです。あなたの言葉はやがての時のこととして、今はただ慰めとして受け取っておきます」。そんな主イエスへの複雑な心が言わせた言葉のように聞こえてきます。しかしそのような人間の「もし」に対して、いのちの主なるイエス・キリストは断固としてこう言われるのです。「もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る」と。これは信仰の揺らぐ私たちに対する主イエス・キリストからの断固とした呼びかけです。この「もし」は死の力に飲み込まれた人間の心をそこから救いだし、引き出す神の招きの声なのです。この「もし」はそれによってどうなるか分からない、あなたの信心次第、信仰の強さ、熱さ次第というようなものではない。主は言われます。わたしを信じなさい。そうすれば必ず、確かにあなたは神の栄光を見るのだ、と。
 
(3)あなたは神の栄光を見る
 このように主が宣言してくださる「神の栄光を見る」とはいかなることがらなのでしょうか。ヨハネ福音書を読み進めてまいりますと、先に申し上げたとおり主イエス・キリストを通してあらわされる神の栄光ということが一つの重要なポイントとなっていることが分かります。7章39節を見ますと「イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊はまだ注がれていなかったからである」と記されます。そして今日の出来事の後の12章23節では主イエス自ら「人の子が栄光を受けるその時が来ました」と言われます。その間に挟まれて、今日のラザロの出来事がある。それで主イエスは11章4節で「この病気は死で終わるだけのものではなく、神の栄光のためのものです。神の子がそれによって栄光を受けるためです」と言われるのです。これらの意味を私たちが十分に悟るために大切な旧約聖書の御言葉に聞きたいと思います。民数記21章8節、9節。「主はモーセに仰せられた。『あなたは燃える蛇を作り、それを旗ざおの上につけよ。すべてかまれた者は、それを仰ぎ見れば、生きる。』モーセは一つの青銅の蛇を作り、それを旗ざおの上につけた。もし蛇が人をかんでも、その者が青銅の蛇を仰ぎ見ると、生きた」。これは出エジプトのイスラエルが荒れ野の旅の途上で主なる神につぶやいたために裁きとして蛇を送られた時の出来事ですが、そこで旗ざおの上に掲げられた青銅の蛇を仰いだ者はみな生きることができたのでした。そしてこの出来事をヨハネ福音書は救い主イエスを示すしるしとして次のように語るのです。ヨハネ3章14節、15節。「モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子もまた上げられなければなりません。それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです」。
 私たちの主イエスは、ご自身が木の上に挙げられたお方、つまり十字架にかけられて私たちの罪の身代わりとなって死んでくださいました。そして三日目によみがえられて、その後、天に挙げられて、今は父なる神の右の座に着かれてそこから聖霊を私たちに送り、私たちを救いの中に招いていてくださいます。主イエスは確かに死なれたけれども、よみがえられて、今生きておられる私たちの救い主です。そしてこの私を仰ぎ見るならば生きるのだと今日も宣言していてくださるのです。主イエスは墓の中におさめられて四日もたっていたラザロに「ラザロよ。出て来なさい」と命じられました。死んでいたラザロを生き返らせた主イエスはご自身が死んでよみがえられたお方として、今日も私たちに、さあ死の闇の中から出て来なさいと命じていてくださいます。私たちを縛る死の力、私たちの心を覆う闇の力、私たちを光から引き離そうとするあらゆる罪の縄目を解き放って、さあ墓から出てこいと招いてくださるのです。私たちはみな罪の中に死んでいたラザロです。誰も例外はいない。主イエスが呼んでくださらなければ、誰も主イエスの元にいくことはできない。主イエスの十字架がなければ、誰も生きることができない。主イエスを信じることがなければ、主の栄光を拝することができないのです。
 けれども「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです」と主イエス・キリストは今日も語りかけてくださっています。そしてまことのいのちに今日も生きておられるキリストが、この朝、私たちにも信じて、生きよ、と命じていてくださる。信じて、神の栄光を見よ、十字架に付けられたキリストを通して、救いの神の栄光を見よと招いていてくださいます。この主イエス・キリストを信じて、神の栄光を仰ぐ者とさせていただきましょう。ぜひこの年、イエス・キリストを救い主と信じ、その信仰を告白して、洗礼を受け、教会の交わりに加わる方が一人でも多くおこされるよう主にあって心からお招きします。また先に教会の一員とされている皆さんも、この年、あらためて神を信じる者の集いとして新しくされ、神の栄光を仰ぐ喜びをともに味わいたいと願います。私たちの前に突きつけられる人生の悲しみ、苦しみ、愛する者との死別、世界で起こる悲惨な出来事、しかしそれらをもってしても、私たちは決して死の力に飲み込まれるものではありません。死に打ち勝ちたもうた主イエス・キリストが、今日も私たちに繰り返しご自身のお約束の言葉を語っていてくださるからです。「もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る、とわたしは言ったではありませんか」。



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