新年聖会 朝拝 2009/01/18
『私たちのうちに働かれる神』

ピリピ人への手紙2:13

 2009年の新年聖会の主日を迎えました。この朝の礼拝と午後の集いを通して、この年、私たちの教会に与えられている主題の御言葉を中心に、「主のこころざしに生きる教会」という年間テーマについてともに学んでまいりたいと思っています。そこで今朝の礼拝ではピリピ書2章13節の御言葉から、私たちのうちに生きて働き、御業をなさせてくださる主なる神様の恵み深いお働きについて、ともに教えられてまいりたいと思います。

(1)生きて働く神
今日の午後の集いでは「主のこころざしに生きる」という私たちの教会のこの年の指針をご一緒に確認したいと願っていますが、私たちのあり方を考えるに先だって、まずその前にしなくてはならないこと、それが私たちのうちに働いてくださる神ご自身へと目を向け、心を向けることです。神がどのような御方であり、いかなることをなしてくださる御方でいらっしゃるのか、それを知ることなしに、私たちが自分たちのあり方を考えることはできません。いつでも先ず最初に神、そして次に人、この順序を忘れずにおきたいと思うのです。そこで13節。「神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださるのです」。この御言葉を原文そのままに直訳してみますと、一番最初に記されるのは「神は働かれる方である」という言葉です。私たちの信じる神は、生きて働かれる神であられる。ここで「働く」と訳されているのは、「エネルギー」の語源となった「エネルゲイン」という言葉ですが、この言葉が聖書の時代にどのように使われていたのかを調べていきますと、大変興味深いことが分かってまいります。すなわち、古代ギリシャにおいては、宇宙や世界を支配する法則、自然の中に働く様々な力やその秩序を指していたというのです。そして多くの場合、これらの宇宙の法則や自然の諸力をもって「神」と呼びならわしていたというのです。
 古代ギリシャの最も知られた哲学者の一人アリストテレスは、この世界の営みはすべて「原因と結果」の法則の中にあり、結果から原因へと遡っていって、これ以上遡ることの出来ない存在に行き着くことを考えました。ちょうど将棋倒しの駒が、その一つ前の駒によって倒されていくように、どんどんそれを遡っていくことで世界の一番の原因、究極の原因に辿り着けるとしたのです。そうやってアリストテレスは、万物の行き着くところの存在、万物の原因となる存在は、自分は何者によっても動かされず、しかし他を動かす存在であるはずとし、これを「不動の動者」と呼びました。しかしそのような存在はもはや生ける人格的な存在とは呼べず、むしろそれこそ非人格的な宇宙を支配する法則、機械仕掛けの神となってしまうでしょう。しかし私たちの信じる神は、そのような宇宙の法則や自然のエネルギーというようなものではありません。むしろ旧新約聖書は一貫して、ご自身の「ことば」をもって世界を創造し、今もこの世界を御手をもって統べ治め続け、契約の愛をもって私たちを愛し、導き、私たちに救いを賜る「生ける神」、そしてそのために今日もまどろむことなく、眠ることなく、ご自身の御心に従ってその御手の業をなし続けていてくださる「働く神」を証しし続けています。Iコリント8章6節でパウロが次のように語る通りです。「私たちには、父なる唯一の神がおられるだけで、すべてのものはこの方から出ており、私たちもこの神のために存在しているのです。また、唯一の主なるイエス・キリストがおられるだけで、すべてのものはこの主によって存在し、私たちもこの主によって存在するのです」。

(2)事を行わせる神
次に御言葉は、生きて働かれる神は、「事を行わせてくださる」神であられると記します。このあたりのことは午後の集会の時にもう少し詳しくお話ししたいと思っていますが、ひとまずこの13節の御言葉をいろいろな翻訳聖書で読み比べてみますと、その意味するところがさらによく伝わってきます。たとえば新共同訳聖書では「行わせておられる」と訳して、今まさに働いておられる神の御業が教えられます。口語訳聖書の「実現に至らせる」、カトリックのフランシスコ会訳の「実行に移させる」という訳は、いずれもすでにある神の御心が、私たちの中で実現していくというニュアンスが込められています。さらに岩波から出ている青野訳では「働きをなさしめる」として、私たちに働きかけ、私たちを用いようとされる神の御業があらわれています。つまりここでは「私たちの存在」が問題となっているということなのです。
 生きて働かれる主なる神は、私たちと全く無関係に宇宙の彼方でこの世界を操作しているような支配者のような御方ではありませんし、私たちの事情や私たちの心の思いなど全くお構いなしに、何でも勝手にどんどんと事を進められるような、暴君のような御方ではありません。もちろん聖書の啓示する主なる神は全知全能の御方、永遠にして不変、無限の御方であられますが、同時に私たちを愛し、私たちをしてご自身を「父よ」と呼ぶことをお許しになる御方、「わたしはあなたの神となり、あなたはわたしの民となる」と仰せくださって、私たちとの間に恵みの契約を立て、その契約にどこまでも真実に尽くしてくださる契約の主なるお方です。その神がご自身の御業を行われるにあたり、私たちの存在を用いられるというのです。そこには神の隠れた愛のお心遣いがあり、様々な配慮や道備え、それに後始末までもが込められています。そして何と言ってもそれを支えるのは神の大いなる忍耐ということでしょう。よく子どもたちはお母さんのお手伝いをしたがることがあるでしょう。親としてはうれしいことですし、またそうやって少しずつ生活の知恵が受け継がれていくというがあるでしょうが、時に、いろいろと時間が立て込んでいる時などは特にそうですが、お手伝いはうれしいけれど、今はそんな余裕がない。子どもたちに一つ一つ手取り足取り教えることがまどろっこしくなって、一気に片付けてしまいたいという時もあるのではないでしょうか。誰かに何かをさせるというのは、なかなか容易なことではありません。
 主に仕える奉仕ということを考えても、同じようなことを時に思います。私たちは主にお仕えしている、主の御用をしている、と思いながら、特に伝道者などはそこにいささかの自負を感じつつ働きを進めていくということがありますが、しかし時にふと立ち止まって考えてみると、神様からすれば、私たち人間を用いてご自身の働きを進めることは、実際はずいぶんと手間暇が掛かり、時間も掛かり、忍耐を強いられていることなのではないか。ご自身で全部なさってしまわれたほうが、よほど無駄もなく、確実で、スピーディーなのではないか。神様のお役に立っているなどとは、まことにおこがましいことで、実は神様にそれこそ要らぬ時間やエネルギーを使わせてしまっているのではないか。そんな思いに駆られるのです。
 けれども生きて働かれる神は、私たちを用いて事を行われる神であられます。そのことを私たちは特に福音の宣教ということを中心に受け取っておきたいと思うのです。かつて旧約の時代、主なる神はご自身のみこころを示し、事を行うにあたり、いつもご自身のしもべを召し、預言者をお立てになりました。アモス書3章7節に「まことに、神である主は、そのはかりごとを、ご自分のしもべ、預言者たちに示さないでは、何事もなさらない」と記されるとおりです。そしてそのような神のお働きの最もはっきりした表れを、私たちは預言者イザヤの召命の出来事の中に見ることができるでしょう。イザヤ書6章8節。「私は、『だれを遣わそう。だれが、われわれのために行くだろう。』と言っておられる主の声を聞いたので、言った。『ここに、わたしがおります。私を遣わしてください』」。主は私たちを必要とし、私たちを用いようと願っていてくださる。私でなければ届くことのできない人々のもとに私たちを遣わし、私の言葉でなければ聞くことできない人々に、この貧しい口を通して福音の言葉を聞かせ、私のこの小さい存在を用いて、ご自身の大いなる救いの恵みと愛を証ししてくださる。この年、私たちは一人一人がそのような主の恵みの証し人として、それぞれに主の御業の現れをこの身に担いながら、遣わされていくものでありたいと願うのです。

(3)私たちのうちに働かれる神
 最後に、この生ける神の働きがどのような道筋を通ってのことであるのかを確かめておきたいと思います。もう一度13節をお読みします。「神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださるのです」。このように、神はあなたがたのうちに、私たちのうちに、生きて働いてくださると御言葉は語ります。そこで、この「あなたがたのうちに」と訳された短い文章についていろいろと調べていきますと、この言葉をどのように読むかを巡って大きく二つの立場があることが分かってまいります。一つの読み方は「あなたがたのうちに」をそのまま一人一人の心の内側に、という意味に受け取る読み方、いま一つは「あなたがたのうちに」を「あなたがたの間で」として、これを人々の集まりの中で、すなわち教会の中で、という意味に受け取る読み方です。例えば2章5節の「あなたがたの間では、そのような心構えでいなさい」という時の「あなたがたの間で」も同じ表現が使われています。このように、二つの読み方をそれぞれの意味を汲み取りながら読んでみますと、それぞれに「なるほど」と納得させられ、教えられるところがあり、御言葉の世界は深いことを実感させられます。そこで、ここはどちらか一方だけが正しいというよりも、それぞれの持つ豊かな意味合いを受け取ることが許されると思いますし、またそのようにして御言葉の深みから恵みを汲み取っておきたいと思うのです。
 「私たちのうちに働かれる神」、私たちの交わりの中で、教会の中で生きて働いていてくださる神。このお方に導かれて進む教会の歩みは、様々な試行錯誤や一進一退を繰り返し、時には足踏みと停滞の時を忍ぶことを強いられるとしても、それでも、主が御言葉と御霊の御支配を通して私たち一人一人の存在をとらえ、その豊かな個性と多様な賜物を用いて働いてご自身の御業を進めて行かれる。互いの様々な考えや意見を用い、またそれらを越えて、ご自身の確かな御心の中に私たちを招き入れてくださる。教会が会議や話し合いを重んじるのも、まさにこのような教会の中に働かれる神の御業を信頼するがゆえです。今日のこの礼拝の後、懇談会が開かれますし、来月の教会総会に向けての準備も大詰めを迎えています。これらは決して単なる人間の計画ということでなく、私たちの間で、教会の中で働いてくださる神の御業の表れです。この年、私たちは主イエス・キリストをかしらとするご自身のみからだなる教会として、私たちの間に働いてくださる神の御業を待ち望み、その明らかにされたところに喜んでお従いしていくものでありたいと思います。
 さらに「私たちのうちに働かれる神」、私たちのうちに志を立てさせて、ご自身の御心を行わせるために、私たち一人一人の、そして私の心の中に働いてくださる神。このお方に導かれて進む教会の歩みは、一人一人が主の御前にその心のうちを深く取り扱われ、祈りと御言葉の生活の中で、聖霊の神に導かれて御心を確信していく歩みにおいて実現していくことです。今年の元旦礼拝では箴言16章の御言葉が開かれました。その1節、2節にこうあります。「人は心に計画を持つ。主はその舌に答えを下さる。人は自分の行いがことごとく純粋だと思う。しかし主は人のたましいの値うちをはかられる」。聖書は私たちが心に計画を持つことを決して否定しません。人間の罪が入って以来、人間の思い図ることはすべて神から離れ悪へと傾いているのですが、しかし主なる神はだからといって人間の内から、計画を持つ自由、意志の自由そのものを奪い去ることはなさいませんでした。私たちがあれこれと思い巡らし、考えを吟味し、計画を立て、その実行のために算段をし、最終的に決断して事を行っていく。この営み自体は私たちに今もなお許され、与えられていることに間違いはないのです。それゆえにこそ、私たちは私たちのうちに起こされる思いを聖いものとしていただき、さらにその思いの中から導かれる事柄を主なる神に委ねしていきたいと思うのです。3節にこうある通りです。「あなたのしようとすることを主にゆだねよ。そうすれば、あなたの計画はゆるがない」。
この2009年、私たち一人一人が主の御前に深く取り扱われ、私たち一人一人のうちに与えられる思いと願い、こころざしのすべてが主の御心に適うものであるようにと祈ります。そしてその一人一人のうちに与えられたこころざしが、聖霊のお導きの中で、私たちの間で、教会の中で一つのこころざしとして整えられ、建て上げられて、主の御前にささげられていくようにと祈ります。その時に主なる神は、この群れを通し、お一人一人の主のしもべたちの歩みを通して、ご自身の素晴らしい御業と、その輝く御栄光をあらわしてくださると信じます。この信仰にしっかりと立ち、心寄せ合い、こころざしを合わせ、互いの歩調を整えて、主と共に歩んでまいりたいと願うものです。
 「人の歩みは主によって確かにされる。主はその人の道を喜ばれる」(詩篇37:23)。



日本同盟基督教団 徳丸町キリスト教会
〒175−0083
東京都板橋区徳丸6−24−10
TEL 03−3935−3405
FAX 03−3935−3445

メールでのお問い合わせ
管理人


Copyritht ©The Evangelical Alliance Mission Tokumarucho Christ Church All Rights Reserved.