新年聖会 朝拝 2008/01/20
『死に至るまで忠実であれ』

ヨハネ黙示録2:10

 新年聖会の主日を迎えました。この朝の礼拝と午後の講演を通して、今年私たちの教会に与えられている主題聖句を中心に、「終わりまで忠実に歩む教会」という年間テーマについてともに学んでまいりたいと思っています。そこで今朝の礼拝では黙示録2章10節の御言葉から、いのちの冠を賜る主イエス・キリストに忠実に従って歩む信仰者の姿について、ともに教えられてまいりたいと思います。

(1)主の真実、主への忠実
 10節の後半をお読みします。「死に至るまで忠実でありなさい。そうすれば、わたしはあなたにいのちの冠を与えよう」。今日の御言葉は、本来ならば8節から11節にかけてスミルナの教会に向けて語られたものですが、テキストに沿った説き明かしはいずれこのところにさしかかった際に詳しくすることにして、今日はこの一つの御言葉に心を寄せておきたいと思います。そこでまず最初に心に留めたい言葉が「忠実さ」ということについてです。ここで「忠実」と訳されている言葉ですが、これはもともと「信仰」と訳される言葉から出てきたものです。「信仰」と訳される「ピスティス」という言葉は、他に「真実」、「信頼」、「約束」などと訳されますが、そこから今日の言葉は「信仰深い」、「真実な」、「信頼すべき」、「確かな」、そして「忠実な」という意味に用いられるようになっています。これを新約聖書における使い方と照らし合わせてみますと、主なる神あるいは主イエス・キリストが私たちに対する働きかけとして用いられる際には「真実」となり、私たち人間から神へと向かう姿勢として用いられる際には「信仰」そして「忠実」となるのです。主イエス・キリストの御真実が、私たちの主への忠実さを生み出し、導き上げてくださると言ってよいのだと思います。
 このように、ここで求められている忠実さとは、主なる神が私たちに示してくださった御真実によって導かれ、応答として引き出された、私たちの主なる神に対する信仰の姿勢と深く結びついたものです。ちなみに日本語の辞書で「忠実」を引くと、「真心をもって仕えること。真心をもってつとめること。少しの誤りやいつわりもなく正確であること」などと説明されます。そこではいわゆる信仰心、神への姿勢という意味合いは見られませんが、例えば英語で忠実さは「フェイスフル」ですから、まさに信仰の姿勢と重なるものとして「忠実さ」がとらえられていることがわかるでしょう。誰も見ていなくても、神の眼差しの前で心を尽くして自分にゆだねられた務めを果たすこと。そこに神への信仰の心を働かせること、神の真実に支えられ、励まされて、祈り心を持ってひたすらに進むこと。このようなことにも聖書の語る「忠実さ」の意味が表されていると言えるでしょう。しかも「忠実であれ」との命令形は、「忠実に何々をせよ」ということでなく、あらゆる私たちの振る舞いの基本となるべき信仰の姿勢、生き方の姿勢の要求です。それはかつて使徒パウロがIコリント書10章31節で「あなたがたは、食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現すためにしなさい」と命じた言葉と響きあって、私たちの生活のあらゆるところ、あらゆる場面において、神のしもべとして、また神の子どもとして主なる神に従うという姿勢をあらわしていると言えるのです。

(2)「死に至るまで」の地平
 次に心に留めたいのは、御言葉が求める忠実さが「死に至るまで」と言われるところです。これはヨハネ黙示録を学び始めてすでに繰り返し申し上げているところですが、黙示録において「忠実さ」は特に迫害の時代にあって信仰の故にいのちを捨てることになる、いわゆる殉教の死との関わりで語られる言葉です。先週開かれた1章5節で主イエス・キリストについて「忠実な証人」と言われるとき、「証人」という言葉には殉教者という意味も込められていること、殉教の死に際しても自らの証しに忠実であった主イエスのお姿を見たわけです。そしてこの忠実な証人イエス・キリストのお姿が、後に続く主に従う信仰者たち、キリストの証し人として歩む彼らの一つの模範となっていったのです。そこでの彼らの姿勢は、例えばIペテロ書2章21節に「キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残されました」とあるように、またヘブル書13章12節、13節に「イエスも、ご自分の血によって民を聖なるものとするために、門の外で苦しみを受けられました。ですから、私たちは、キリストのはずかしめを身に負って、宿営の外に出て、みもとに行こうではありませんか」とあるように、まさに自らのいのちをかけた歩みであったのです。そして黙示録の時代、殉教は現実のものとなって行きました。ヨハネ黙示録2章13節においてこう語られている通りです。「わたしは、あなたの住んでいる所を知っている。そこにはサタンの王座がある。しかしあなたは、わたしの名を堅く保って、わたしの忠実な証人アンテパスがサタンの住むあなたがたのところで殺されたときでも、わたしに対する信仰を捨てなかった」。
 私たちはこの朝、「死に至るまで」という言葉をどのように受け取り、これについて考えることができるのでしょうか。確かに今、私たちは信仰のゆえに迫害を受けて捕らえられ、いのちを奪われるというようなことはないかもしれません。しかし今そのようなことがないから、これからも起こらないということではないでしょう。むしろ今のような時に私たちは本当に信仰の足下を踏み固め、その基礎をしっかりと深く御言葉に打ち込んでいなければ、やがてそのような迫害の時代が来たときに、脆く崩れ去ってしまうでしょう。来月の11日には「信教の自由を守る日」を迎えますが、まさに今、信仰の自由は私たちの足下から脅かされている時代です。少数者の声はこの国を支配する「空気」の中に取り込まれ、それに対して異を唱える声を上げるならば、はじき出されてしまうような時代になってきているのです。そのような中で私たちはこの「死に至るまで」という言葉を、何か大上段に振りかぶった大げさで悲壮感溢れる言葉としてでなく、しかし日々の歩みの中にしっかりと地に足のついた信仰者としての生き方の基本的な姿勢として、この朝一人一人の心に刻みつけておきたいのです。それは「やがての」終わりを覚えながら生きることであり、同時に「いつも」終わりを覚えながら生きることと言えるでしょう。やがて私たちに必ず訪れる地上の生涯の終わりを見据えながら、そこから逃げず目を背けず、信仰の生涯の先に天へと開かれたところとして死に備えて生きていくことであり、同時にいつでも主イエスの死をこの身に帯びた者として、目覚めた者として生きることでもあるのです。
 黙示録が記された約百年後、スミルナの地で殉教を遂げた司教ポリュカルポスの最後の様子が書き残された書物があります。彼はヨハネの弟子として生きた人物と言われていますが、まさにスミルナの教会に宛てて語られたこの命令の通りに生き、そして殉教の死を遂げた姿は胸を打つものがあります。そこではローマの官憲との間に次のようなやりとりがありました。地方総督は彼に棄教を迫ります。「自分の年齢を考えてはどうか。改心して無神論者ども失せてしまえと言え」。しかし彼は異教徒の群衆に向けて「無神論者ども失せてしまえ」と叫ぶのです。さらに「誓いをしたら、おまえを釈放してやろう。キリストを呪え」、「八十六年も私は彼のしもべでした。彼は私に対して何一つ悪いことをなさらなかったのです。どうして私を救ってくださった主を冒涜できるでしょうか」。「改心しなければ、お前を野獣に与えてもよいのだ」。「どうぞ連れてきてください。私たちには良い状態から悪い状態への改心などあり得ないのです」。「火刑にするぞ」。「あなたは、ひとときしか燃え続かず、すぐに消えてしまう火で私を脅かすつもりですか。それは、あなたが来るべき審判と永遠の処罰の折に邪悪な者を待ちかまえている火を知らないからです」。こういってことごとく官憲の説得や脅迫を斥けたポリュカルポスは「彼はキリスト者であると告白した」という宣告の後に火刑に処せられていったのでした。ここにも「死に至るまで忠実であれ」との命令に生きた一つの証しがあるのです。

(3)いのちの冠の約束
 教会の歴史にはこのような殉教者の数々の記録が残されていますし、「殉教者列伝」と呼ばれる書物も書き記されています。けれども最後に私たちがよくよく注意しておきたいのは、殉教の問題をいわゆる英雄的な武士道的精神のように、あるいはお国のためにいのちを投げ出すことを美学とするような靖国の精神のようなものにすり替えてしまってはならないということです。聖書は一貫してそのような人間の側の勇ましい心意気については実に醒めた眼差しを持っています。あなたのためなら牢獄も死さえも覚悟はできていると大見得を切りつつも、はかなく躓いたペテロの姿を忘れてはならないでしょう。むしろこの信仰を支えるのは、「そうすれば、わたしはあなたにいのちの冠を与えよう」とお約束くださった主イエス・キリストの御真実であり、約束されているいのちの冠の希望であるということをしっかりと覚えておきたいのです。
 「いのちの冠」ということについてヤコブ書1章12節ではこう教えられています。「試練に耐える人は幸いです。耐え抜いて良しと認められた人は、神を愛する者に約束された、いのちの冠を受けるからです」。また少し表現は違いますがパウロも、この栄冠を目指して走り抜いた人です。ピリピ書3章13節、14節。「兄弟たちよ。私は、自分はすでに捕らえたなどと考えてはいません。ただ、この一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです」。またIIテモテ書4章6節から8節。「私は今や注ぎの供え物となります。私が世を去る時はすでに来ました。私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。今からは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。かの日には、正しい審判者である主が、それを私に授けてくださるのです。私だけでなく、主の現れを慕っている者には、だれにでも授けてくださるのです」。いのちの冠、それはやがて私たちに与えられる永遠のいのちを表すものです。新約聖書で「冠」という言葉は主に二種類出てくるのですが、一つは王がかぶる王冠、もう一つは競技者が勝利したときに栄誉を称えてかぶせられる花飾りの冠です。ここで用いられるのはこの花飾りの冠です。黄金に輝き宝石がちりばめられた王冠でなくても、天の御国において主イエス・キリストが、私たち一人一人に向かって、最後までよく走り抜いた、よく忍耐した、途中で投げ出さず、諦めずによく忠実に歩み通したといって私たちの頭に花の冠をかぶらせ、私たちを主に忠実な者と認めて、その身を装ってくださる。このいのちの冠を目指して、私たちの信仰の歩みをこの年も忠実に、忠実に。決して派手な華やかさからはほど遠いいつもながらの歩みであっても、それでも一歩、また一歩と、私たちの歩みを主の真実さに守られ、支えながら、なお続けさせていただきたいと願います。主イエス・キリストの父なる神に対する忠実さと、私たちに対する真実さのゆえに、私たちも終わりまで主に忠実にお従いして行く者でありたいと願います。
 IIテモテ書2章13節。「私たちは真実でなくても、彼は常に真実である」。



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