朝拝(2007年 新年聖会) 2007 /01/21
『愛をもって互いに』

ガラテヤ5:13

 主の2007年、私たちはガラテヤ書5章13節の御言葉を与えられ、「互いに仕えあう教会」という主題を掲げて歩み始めています。そこで、まずこの朝の礼拝においては、ガラテヤ書5章13節を通して、主イエス・キリストが私たちに与えてくださっている自由のすばらしさと、私たちがその自由をいかに用いて生きていくのかということについて学び、続いて午後の講演会では「互いに仕えなさい」という御言葉の勧めを今年の具体的な教会の歩みに当てはめながら考えてみたいと願っています。

(1)キリストにある者の自由
 私は常々、信仰生活において大切なテーマは「自由」ということだと考えています。それは、多くの信仰者たちの中に、主イエス・キリストによって救われてすでに新しい人とされているにもかかわらず、なお律法の縛りの中に窮屈に生きようとしている律法主義的な信仰、喜びのない信仰に生きているという現実があり、一方、それとは正反対に、与えられた自由をはき違え、救いの恵みを軽んじて、今なお古き人のようにして罪の中を生き続けているという現実があるからです。今の私たちの姿をもう一度、御言葉の光の中でしっかりと受けとめていきたい。そしてキリストに結び合わされた新しい人としての歩みを確かにしていきたい。特にそのことを願って昨年後半からこの主日礼拝において旧約聖書出エジプト記の十戒を学び、そして今年からガラテヤ書を読み始めている次第です。
 そこで今朝はこの自由の問題に焦点を当てて行きたいと思います。まず13節を読みましょう。「兄弟たち。あなたがたは、自由を与えられるために召されたのです。ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕えなさい」。パウロはこれまでのところで、私たちが罪の中から救い出されたのは律法の行いによらず、ただ主イエス・キリストを信じる信仰によることを示し、主によって救われた者の現実を「自由」という言葉で表現しました。そして5章からは、ではキリスト者は与えられた自由をどのように用いて生きていくのかという実践的な教えを説いていこうとしているのです。そこでまず考えなければならないのは、この自由は何からの自由かということです。パウロは5章の冒頭で次のように語ります。5章1節。「キリストは、自由を得させるために、私たちを解放してくださいました。ですから、あなたがたは、しっかり立って、またと奴隷のくびきを負わせられないようにしなさい」。このように私たちに与えられている自由は、何と言っても罪の奴隷の状態からの自由だということなのです。かつては罪の奴隷の状態にあり、したいと思う善を行うことができず、かえってしたくない悪を行っていた。あらゆることにおいて私たちの心は悪しき方向へと傾くようになってしまっていたのです。しかし主イエス・キリストはそのような私たちを罪の奴隷の状態から解放して、自由なる者としてくださったというのです。
そこで次に問題になるのは、私たちはこの自由をどのように日々の生活の中で用いていくのかという極めて実際的な問題です。これについてパウロは13節で新しい生き方の指針を示すのです。「その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕えなさい」、つまり自由を愛において用いなさい、互いに仕えあう隣人愛において用いなさいというのです。ここで取り上げておきたいのが宗教改革者ルターがその著書『キリスト者の自由』の中で示した二つの提題です。「キリスト教的人間はすべてのものの上に立つ自由な君主であって、誰にも服しない。キリスト教的人間はすべてのものに仕えるしもべであって、誰にでも服する」。しなければならないからする。命令されてするのは奴隷の心です。しかし同じことでも、したいからする。してあげたいからするというのは自由なる人の心です。私たちはしばしば自由を自分の好き勝手にしたいことをすること、自分のしたくないことはしないこと、というように考えますが、ルターはパウロの御言葉に教えられながら、キリスト者は人がしたくないことを喜んで進んですることのできるしもべの心をもつ自由人だ、というのです。これは本当に驚くべき言葉、新しい人間の姿を指し示す言葉です。ここに古き人と新しい人との違い、罪の奴隷から主イエスにある自由人への転換があるのです。ここでパウロは「自由を肉を働く機会としないで、愛をもって」と語ります。肉における自由と愛における自由を対比しているのです。
 肉における自由とは何でしょうか。それがかつての古い人、罪の奴隷の時に私たちが自由だと思っていたこと、すなわち何でもかんでも自分のため、自分さえよければ、何でも自分のしたいようにするという、まさに自分を神様にして、そのためにすべてのものを用いようとする「自己中心さ」、「自己愛」ということでした。しかし愛における自由とは、キリストの愛、奪い取る愛ではなく惜しみなく与える自己犠牲の愛によって愛されて、罪の奴隷の状態から解放された者として、神の愛、アガペーの愛に生きること、神を愛し、この神にあって自分を愛し、隣人を愛していく「神中心の愛」、「隣人への愛」ということです。ですからパウロはここでこう語るのです。あなたはもう新しくされたのだから、古い人のように愛を肉のために用いるな、新しい人に与えられた自由を、古い人に逆戻りするために用いるな、新しい人の生き方、自由なる人の生き方の証しとして愛に生きよ、と。

(2)律法と愛
 続いてパウロはキリストによって新しい人とされ、真の自由に生きる私たちにとっての律法の意義ということにも触れていきます。14節。「律法の全体は、『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』という一語をもって全うされるのです」。これまでパウロは行いによらず、ただ信仰によって、律法によらず、キリストの恵みによってと語ってきましたし、私たちはもはや律法のもとにはいないとさえ語ってきたパウロなのですが、だからといって律法を捨て去ってしまうとは言いません。この問題はあらためてガラテヤ書を読み進めていく中で丁寧に扱っていきたいと思うのですが、まとめて申し上げておきますと、パウロは救いのための条件としての律法はもはや必要ないというのですが、救われた者が神に感謝し、主に仕えて生きていく上では今なお大切な指針であるというのです。これは十戒の学びの中でも繰り返し学んできたことです。主イエス御自身も「わたしが来たのは律法を廃棄するためでなく、成就するため」と言われました。これらのふまえてパウロはここで律法を全うするのは愛だ、と語るのです。これと同じことをパウロはローマ書13章8節から11節でも語っています。「だれに対しても、何の借りもあってはいけません。ただし、互いに愛し合うことについては別です。他の人を愛する者は、律法を完全に守っているのです。『姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな。』という戒め、またほかにどんな戒めがあっても、それらは『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』という言葉の中に要約されているからです。愛は隣人に対して害を与えません。それゆえ、愛は律法を全うします」。
 ここに自由な者として律法を全うして生きる私たちの新しい姿が示されています。私たちが律法の教えのもとで互いに愛をもって仕えあうのは、奴隷が主人の顔色をうかがいながらおそるおそる、あるいはいやいやながら強いられて従うからでなく、自由なる者として生きることの根源的な喜びと、その自由を与えてくださった主なる神への感謝、そのために主イエス・キリストが示してくださった十字架の愛に動かされ、私たちもまたこの主を愛していきたいと願う主への愛にほかなりません。愛は愛を呼び起こす力、応答を呼び起こす力です。主が私たちをこの愛で愛してくださっているので、私たちも主を愛し、主にあって互いを愛し、互いに仕えていくことができる。これが自由を生きる私たちの姿なのです。

(3)愛をもって互いに
 最後に「仕える」という言葉に注目しておきたいと思います。新約聖書において「仕える」と訳される言葉は幾つかありますが、主として「ラトレイオー」、「ディアコネオー」という言葉と「ドゥーレゥオー」という三つの言葉が用いられます。一つ目は神に対する奉仕という意味で、「礼拝する」とも訳される言葉です。二つ目は神の家に仕える「しもべ」としての奉仕の姿を表す言葉であり、三つ目は奴隷として主人に従う姿を表す言葉です。ここでパウロが「愛をもって互いに仕えなさい」と言うときに用いるのは、この三番目の「ドゥーレゥオー」、すなわち奴隷として仕えるようにという言葉なのです。奴隷の身から自由にされたのに、また奴隷のようになれとはどういうことかと思います。しかしよくよく考えてみると、私たちはそこに主イエス・キリストが私たちに示してくださった愛のお姿、まさに自ら進んで奴隷のようになって仕える姿の模範を示された主のお姿に思い至ることになるのです。ヨハネ福音書13章には、主イエスが最後の晩餐の席で弟子の足を洗われたお姿が記されています。上着を脱ぎ、膝をかがめて、腰に手ぬぐいをし、奴隷のように足を洗ってくださった主のお姿です。そして主は言われました。13章14節。「主であり師であるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのですから、あなたがたもまた互いに足を洗い合うべきです」。福音書を記したヨハネはこの光景を深く心に刻みつけたのでしょう。後に記した手紙の中で繰り返し繰り返し、この主イエスから教えられた愛の教えを語っています。Iヨハネ3章11節、「互いに愛し合うべきであるということは、あなたがたが初めから聞いている教えです」、4章7節、「愛する者たち。私たちは互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。愛のある者はみな神から生まれ、神を知っています」、11節、「愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた互いに愛し合うべきです」、12節、「もし私たちが互いに愛し合うなら、神は私たちのうちにおられ、神の愛が私たちのうちに全うされるのです」。
 私たちは毎週の礼拝の終わりに、次の派遣と祝福の言葉によって遣わされていきます。
「平和のうちに行きなさい。自由な者として生き、聖霊の力により、喜びをもって主に仕えなさい」。自由な者として主に仕えよ。この言葉をしっかりと受け取りながら、この年、互いに愛し仕えあう群れとして、まず主の御愛に大きく満たされ、その愛に溢れて、互いを愛し、互いを尊び、互いを喜び、互いに仕えるそのような歩みをはじめさせていただきたいと願います。その秘訣は「御霊によって歩め」ということです。私のうちにある愛ではなく、私の力によってでなく、神がキリストによって与えてくださった愛に満たされ、今、私たちのうちにいて聖霊に信頼して、御霊によって歩んでまいりましょう。



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