第二部 講演(2006年 新年聖会) 2006 /01/22
『御言葉に根ざす教会』

序.
 この午後は、朝の御言葉の学びを踏まえつつ、そこから私たちの救いの教理の中でも重要な教えである「キリストとの結合」について考え、さらに私たちの信仰生活、教会生活における実践的な事柄についても展開させながらお話ししたいと思います。
 そこでまず第一章では聖書における植物のイメージを手がかりに聖書的な語りかけを捕らえ、続く第二章では、キリストに根ざす信仰者のあり方を義認、聖化、栄化という救いについての中心的教理から確認し、第三章ではその救いの恵みをさらに深く豊かに受け取っていくための恵みの手段ということについて教えられていきたいと思っています。

第一章 聖書における「根」と「実」
第一節 旧約聖書における「根」と「実」
旧約、新約を通して、聖書の中には木や実、枝や根、畑や農夫など植物や農作物のイメージに託して大切なメッセージが語られるという用例が少なくありません。そこでここでは大まかに旧約聖書と新約聖書の中から「根」や「実」に関わる箇所を取り上げ、それらを通して語られる聖書の語り口をまとめておきたいと思います。
 「根」や「実」という表現に注目しながら旧約聖書を繙いていく中で、特に目に留まる箇所を幾つか挙げてみたいと思います。まずは今朝のII列王記19章30節。「下に根を張り、上に実を結ぶ」。これはイザヤ書37章にも出て来ます。次にイザヤ11章1節。「エッサイの根株から新芽が生え、その根から若枝が出て実を結ぶ」。イザヤ27章6節。「時が来れば、ヤコブは根を張り、イスラエルは芽を出し、花を咲かせ、世界の面に実を満たす」。エゼキエル書36章8節。「だが、お前たち、イスラエルの山々よ。お前たちは枝を出し、私の民イスラエルのために実を結ぶ。彼らが帰ってくるのが近いからだ」。さらによく知られた詩篇1篇1節から3節。「幸いなことよ。悪者のはかりごとに歩まず、罪人に道に立たず、あざける者の座に着かなかった、その人。まことにその人は主の教えを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ。その人は、水路のそばに植わった木のようだ。時が来ると実がなり、その葉は枯れない。その人は、何をしても栄える」。またこれと通じるエレミヤ17章7節、8節。「主に信頼し、主を頼みとする者に祝福があるように。その人は水のほとりに植わった木のように、流れのほとりに根を伸ばし、暑さが来ても暑さを知らず、葉は茂って、日照りの年にも心配なく、いつまでも実を実らせる」。
 以上の限られた用例からですが、旧約聖書が「根」や「実」のイメージを用いて語ろうとしているメッセージを次のようにまとめることができるのではないでしょうか。まず第一に、それは来るべき救い主メシヤの到来の姿を描いているということです。これは先に挙げたイザヤ書11章のほかにも幾つかのメシヤ預言の箇所に見られるものです。第二に、それは終末における神の国の完成の姿を描いているということです。特に王国の滅亡を語る預言者たちが、終わりの日に回復されるイスラエルの姿を預言して語る際に用いられる語り方です。そして第三に、それは主にあって実を結ぶ人の姿を描いているということです。特にそこでは主のおきて、主の教えに信頼する人の祝福が教えられています。

第二節 新約聖書における「根」と「実」
 次に新約聖書に目を転じてみましょう。まずは共観福音書の中からよく知られた四つの種蒔きのたとえの御言葉です。これはマルコ4章1節から20節、マタイ13章12節から15節、ルカ8章4節から10節に記されています。またマルコ4章26節から29節にある種蒔きのたとえ、また続く4章30節から32節のからし種のたとえの御言葉などです。これもマタイ13章31節、32節、ルカ13章18節、19節にも記されています。ヨハネ福音書では何と言っても15章の御言葉です。特に5節。「わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます」。パウロ書簡ではエペソ3章17節から19節。「こうしてキリストが、あなたがたの信仰によって、あなたがたの心のうちに住んでいてくださいますように。また、愛に根ざし、愛に基礎をおいているあなたがたが、すべての聖徒とともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように。こうして神ご自身の満ち満ちたさまにまで、あなたがたが満たされますように」。またコロサイ2章7節。「あなたがたは、このように主イエス・キリストを受け入れたのですから、彼にあって歩みなさい。彼の中に根ざし、また建てられ、また、教えられたとおり信仰を堅くし、あふれるばかり感謝しなさい」などを挙げることができます。 
 以上の用例から、新約聖書が「根」や「実」のイメージを用いて語ろうとしているメッセージを次のようにまとめることができるでしょう。まず第一に、旧約と重なるテーマとしてそれらが終末における神の国の完成の姿を描いているということです。そこでは終末を見据える視野の中で「今」は小さい種や、見えない根が、「やがて」の時に大いなる実を結ぶことが示されています。第二に、これも旧約と重なるテーマですが、主にあって実を結ぶ人の姿が描かれているということです。そして第三には、これが新約聖書における特徴的な用例ですが、「キリストに根ざす」といった表現に顕著なように、主と結び合わされる人の姿が描かれているということです。

第二章 キリストに根ざす
第一節 キリストとの結合
主イエス・キリストを信じ、主のからだなる教会に加えられて、御言葉に根ざして生きる私たちにとっては、旧約聖書において預言されていた「エッサイの根」から出るダビデのひこばえ、救い主メシヤなるイエス・キリストによって救われ、下に根を張り、上に実を結ぶ神の国の完成の時を目指しながら、水路のそばに植わった木のように主の教えを口ずさみつつ歩み、そして豊かに実を結んでいく信仰生活の中心は、なんといってこの贖い主イエス・キリストに根ざすという生命的な結びつきにあると言えるでしょう。このキリストに根ざすという有り様、それを教理の言葉では「キリストとの結合」と言いますが、この事柄について続いて考えておきたいと思います。
通常、神学において救いの教理を扱う際には「救いの歴史」(historia salutis)と「救いの秩序」(ordo salutis)と言う区別をします。前者は創造から終末に至る救いの歴史の中での旧約から新約に及ぶ恵みの契約の進展と成就を扱うものですが、ここで取り上げるのはむしろ後者の「救いの秩序」に関することです。それは神の選び、聖霊による召し、悔い改めと信仰、義認、子とされること、聖化、聖徒の堅忍、栄化という贖いの諸段階を示すものですが、中でも宗教改革者カルヴァン以来、その重要性が指摘されるようになった教えが、この救いの秩序の全体を結び合わせる「キリストとの結合」の教理なのです。このことの重要性について神学者ジョン・マーレーは次のように言っています。「キリストとの結合は、本来、非常に広範囲で包括的な主題であって、単に贖いの現実的適用の一段階に限定できないと言うことである。聖書の教えに従って、より広い見地から見る時、それは贖いの現実的適用のあらゆる段階の根底を貫いているものと考えられる。キリストとの結合は、キリスト教救済論全体、つまり、救いの現実的適用の場面においてのみならず、完結したキリストの十字架のみわざによる救いの一回的成就においても、また中心的な真理である。実に救いの過程全体は、その起源をこのキリストとの結合の中にもっているのであり、救いはいわばキリストとの結合に属する他の諸側面の実現を目指しているとも言い表すことができる。・・・キリストとの結合は、救済論の中心的真理である。この教理の中に、神の永遠のご計画において神の民にあらかじめ定められていたすべてが、一回的に成就された贖いにおいて彼らのために確保され確立されたすべてが、贖いの現実的適用によって彼らが実際に与るすべてが、そして神の恵みによって彼らにもたらされる完成時の至福のすべてが包含されている」(ジョン・マーレー『キリスト教救済の論理』149~156頁)。

第二節 義認とキリストとの結合
 以上のように主イエス・キリストによる贖いの御業の諸段階を包含するキリストとの結合の教えを、特に義認と聖化、栄化との関わりに絞って見ておきたいと思います。この際、教理についての簡潔な説明ということで、ウエストミンスター小教理問答の助けを借りることにしたいと思います。まず義認ということについて第33問を見ましょう。「問い:義認とは何ですか。答え:義認とは、それによって神が、私たちに転嫁され、信仰によってのみ受け取られるキリストの義のゆえに、私たちのすべての罪を赦し、私たちを御前に義なる者として認めてくださる、神の無償の恵みによる決定です」。
 このように義認とは神の法廷において下される私たちへの赦罪宣告という法的な側面を持つのですが、しかしそこには一方で生命的で実体的な意味も含まれています。キリストが十字架によって獲得してくださった義が私たちに転嫁されることを聖書的な表現で言い表すならば、「キリストに接がれる」、「キリストに接ぎ木される」ということになるでしょう。これはパウロがローマ6章5節で語っていることです。「もし私たちが、キリストにつぎ合わされて、キリストの死と同じようになっているのなら、必ずキリストの復活とも同じようになるからです」。さらにこの一回的な義認の行為によって私がキリストに死に、キリストが私のうちに生きるというキリストと生命的に結び合わされた信仰者の生が始まるのです。ガラテヤ2章20節に「わたしはキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです」と記されている通りです。

第三節 聖化とキリストとの結合
 次に、聖化とキリストとの結合の関わりについて見てみましょう。まず聖化についてウエストミンスター小教理問答第35問は次のように教えています。「問い:聖化とは、何ですか。答え:聖化とは、それによって私たちが、神のかたちに従って全人を新たにされ、ますます罪に対して死に、義に対して生きることができるようにされる、そのような、神の無償の恵みによる御業です」。
 このように聖化とはキリストの贖いによって義と認められ、神の子の身分と特権を頂いた私たちが、その与えられた神の子の立場に相応しくきよめられ、その祝福に与って生きる者とされていくことですが、そこで重要なのは聖化が「ますます罪に対して死に、義に対して生きることができるようにされる」という継続的で漸進的な経過であるということです。いわば義認が一回的な神の行為であるのに対して、聖化は継続的な行為であると言えるでしょう。キリストと結び合わされた私たちは聖化の道筋を通る中でますます緊密にキリストと結び合わされていくのであり、そのようにしてキリストの満ち満ちたさまにまで達するというプロセスを経験していくのです。そこでは聖化の結実は「御霊の実」を結ぶということに現れると聖書は教えています。ガラテヤ5章22節、23節。「御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です」。これらは一回的に完成するものでなく、それこそ種が植えられてから成長し、実を結ぶに至るという一連の継続したプロセスを聖書自身が暗示しているように、そこには時間的な経過や成長、漸進性ということが含意されているのです。

第四節 栄化とキリストとの結合
 救いの最終的な完成は、私たちが栄光のキリストの似姿に変えられる時であり、これを教理の言葉で「栄化」と言います。それはIコリント15章によれば、復活における「天上のからだ」、「朽ちない栄光のからだ」、「御霊に属するからだ」と呼ばれ、IIコリント3章18節では「私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられて行きます」と教えられています。栄化はこのように終わりの時に救いの完成、からだのよみがえりと新天新地の成就の時に与えられる最終的な祝福であり、キリストとの結合の最終的な完成の姿であると言えるでしょう。その時には「被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられる」(ローマ8章21節)のであり、またそこでは「見よ、神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものがもはや過ぎ去ったからである」(ヨハネ黙示録21章3節、4節)という神とともに住む永遠の神の都が実現するのです。これこそが私たちに与えられている究極の希望であり、キリストとの結合の最終的な成就の姿なのです。

第三章 御言葉に根ざす
第一節 恵みの外的手段
以上のような贖いの御業の諸段階と、それら全体を貫き、また相互を関係づける「キリストとの結合」の教えを踏まえて、今私達がすでにキリストの贖いによって義とされ、神の子とされ、聖化の道筋を歩み、救いの完成である終末における栄化の時に向かって進んでいる中で、そこにおける日々の信仰の営み、信仰生活の現実というところに最後に光を当てておきたいと思います。それによって今年の掲げられている「御言葉に根ざす教会」というテーマが、皆さんの教会を中心とした信仰の歩みにおいて具体的な形を帯びてくることになるでしょう。とりわけ今年、私たちは信仰生活の基本的なあり方をもう一度再確認し、また再点検して行きたいと願っているわけですが、その際に、ここでもウエストミンスター小教理問答が教える「恵みの手段」という考え方を支えにしたいと思います。
 ウエストミンスター小教理問答の第88問には次のように記されています。「問い:贖いに伴うさまざまな益をキリストが私たちに分け与えられる、外的な手段は何ですか。答え:贖いにともなうさまざまな益をキリストが私たちに分け与えられる外的な通常の手段は、キリストの諸規定、特に、御言葉と聖礼典と祈りで、これらすべてが、選びの民にとって救いのために有効とされます」。ここでは私たちが主イエス・キリストの恵みとそれがもたらす信仰の益にますます与っていくために、私たちの内側に働いてくださる聖霊の神が用いられる外側からの手段ということで「御言葉、聖礼典、祈り」が取り上げられているのです。

第二節 恵みの手段としての御言葉
 救いの恵みを私たちに与え、またその恵みの中に私たちを進ませる手段として聖霊が用いられるのは、何と言っても御言葉です。ウエストミンスター小教理問答第89問は次のように言います。「問い:御言葉は、どのようにして救いに有効とされるのですか。答え:神の霊が、御言葉の朗読、特に御言葉の説教を、罪人に罪を自覚させて回心させ、さらに信仰を通して彼らをきよさと慰めにおいて造り上げ、救いに至らせるのに有効な手段とされます」。ここには義認においても、聖化においても決定的な役割を果たす御言葉の受容生が教えられていますが、とりわけ重視されているのが公的礼拝において説教者によって説き明かされる御言葉の説教です。このことから、御言葉に根ざす教会は、まず第一に、主の日の礼拝における御言葉の説教を重んじる群れであることが求められています。教会はそのために御言葉の説教者である牧師を立てているのであり、その牧師を通して御言葉が語られるように牧師のために祈り、また御言葉を語る務めを全うさせなくてはならないのです。また御言葉の説教を重んじることとの繋がりの中で、一人一人の日ごとの生活が大切になってきます。御言葉に根ざす教会は、第二に、一人一人が御言葉によって日々養われている者たちの群れであることが求められているのです。
 では私たちはそのように御言葉に根ざす教会であるために、どのようにして御言葉と取り組むことが必要なのでしょうか。ウエストミンスター小教理問答の第90問は次のように教えます。「問い:御言葉が救いに有効となるために、それはどのように読まれ、聞かれなければなりませんか。答え:御言葉が救いに有効になるために、私たちは熱心と、準備と、祈りをもってそれに傾聴し、信仰と愛をもってそれを受け入れ、心に蓄え、生活の中で実践しなければなりません」。このことは、これをさらに詳細に論じたウエストミンスター大教理問答を紹介することで十分にその説明になると思います。

第三節 御言葉を読む、御言葉を聞く
 まず教えられるのは誰が御言葉を読むべきかということです。「第156問:神の言葉は、すべての人によって読まれなければなりませんか。答え:御言葉を公的に会衆に対して朗読することがすべての人に許されてよいわけではありませんが、しかしどのような人も、自分一人で、あるいは家族とともに、御言葉を読むべきで、その目的のために、聖書は原語から一般民衆の言語に翻訳されなければなりません」。次に教えられるのは聖書をどのように読むべきかということです。「第157問:神の言葉は、どのように読まれなければなりませんか。答え:聖書は、第一にそれに対する高く敬虔な評価をもって、第二にそれが神の言葉そのものであり、神のみが私たちに聖書を理解させることがおできになると言う固い確信をもって、第三に聖書の中に啓示されている神の御心を知り、信じ、それに従いたいという願いをもって、第四に熱心に、また聖書の内容と目標に留意しつつ、第五に瞑想、適用、自己否定、祈りをもって、読まなければなりません」。
 以上が個人的な聖書との取り組みであったのに対して、以下には公的な礼拝における説教の問題が取り上げられます。まずは説教を語るのは誰かという問題です。「第158問:神の言葉は、だれによって説教されなければなりませんか。答え:神の言葉は、賜物が十分に与えられ、またその職務に就くことを正規に承認され、召された人々によってのみ、説教されなければなりません」。次に説教者がどのようにして御言葉を取り次ぐべきかが教えられます。「第159問:神の言葉は、その職務に召された人々によって、どのように説教されなければなりませんか。答え:御言葉の宣教に労するように召された人々は、健全な教理を、第一に折りが良くても悪くても、熱心に、第二に人間の知恵の、心そそる言葉に拠らず、御霊と力との証明によって、わかりやすく、第三に神の計らいの全体を知らせて、忠実に、第四に聞く人たちの必要と能力にあわせて、賢明に、第五に神と神の民の魂への燃え立つ愛をもって、熱烈に、第六にただ神の栄光と神の民の回心・教化・救いを目指して、真摯に、説教しなければなりません」。さらに、御言葉の説教の聞き手の問題が問われます。「第160問:御言葉の説教を聞く人々には、何が求められていますか。答え:御言葉の説教を聞く人々に求められているのは、第一に熱心と準備と祈りをもって説教に耳を傾けること、第二に聞いたことを聖書によって吟味すること、第三に真理は、神の言葉として、信仰・愛・謙遜、素直さをもって受け入れること、第四に神の言葉について瞑想し、語り合うこと、第五に神の言葉を心に蓄えること、第六に生活の中でその実を結ばせることです」。これらウエストミンスター大教理問答の教えるところに照らして自らの御言葉の生活を点検することは、大きな益のあることだと思いますし、ここで教えられていることを念頭に置きつつ、この年、個人的に御言葉を読み、礼拝において御言葉を聞く生活を続けていくならば、さらに大きな御言葉の養いを受け、御言葉に根ざす生活が整えられていくのではないでしょうか。

結.下に根を張り、上に実を結ぶ
私たちは御言葉に親しみ、御言葉によって教えられ、礼拝・聖礼典によって養われ、祈りの中に主との交わりを頂きながら、日ごとに聖霊の導きによってキリストとますます深く、固く、緊密に結び合わされつつ、聖化の途を辿っていきます。その歩みを確かにし、その足取りを支えるのは、やはり神の生ける御言葉です。私たちの生活が御言葉に根ざし、御言葉に養われ、御言葉に導かれて行く時に、私たちの信仰の根はますます下に張り巡らされ、粘り強くしなやかな信仰の姿勢を形作っていくことになるでしょうし、また上に向かって大きく広く枝を広げ、そこに豊かな実を結ぶことになるでしょう。この年、私たちは見えない密かな御言葉との取り組み、日ごとの地道な主との交わりを通して、そこからしか始まることのない主の大いなる御業に参加し、その実りと収穫に与るものでありたいと思います。
 「良い地に蒔かれるとは、みことばを聞いて受け入れ、三十倍、六十倍、百倍の実を結ぶ人たちです」(マルコ4章20節)。



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