朝拝(2006年 新年聖会) 2006 /01/22
『下に根を張り、上に実を結ぶ』

II列王記19:29-31

 昨年、私たちは教会の宣教開始から四十年という一つの大きな節目の年を過ごし、これまでの主が注いでくださった恵みの数々について教えられる時を持ちました。そして迎えたこの年、私たちは今日開かれている列王記の御言葉に導かれ、「御言葉に根ざす教会」という主題を掲げて歩み始めています。そこで新年聖会のこの日、今年私たちの教会に与えられた御言葉を通して一年の指針を得たいと願いつつ過ごしていますが、まずこの朝の礼拝においては、列王記第二19章29節から31節を通して、主がご自身の民に与えてくださる祝福のお約束について学び、午後の講演会では、さらにそのことを今年の具体的な教会の歩みに照らして考えてみたいと願っています。

(1)落ち穂によって養われて
 まず初めに、この朝開かれている列王記という書物について、また今日の19章の歴史的な背景について少し触れておきたいと思います。列王記は、その字の通り王たちの歴史が綴られる書物です。元来はその前にあるサムエル記と一続きの書物として読まれることもあったのですが、それは内容的に族長の時代から出エジプトを経て約束の地カナンに定住し、やがてさばきつかさたちによる統治が行われていく中で、周辺諸国との関わりもあって統一王国の建設と王制の導入が図られ、初代の王サウルが立てられてから後の歴史が記され続けていくからです。初代の王サウルの後、ダビデ王の時代、ソロモン王の時代を経て、次のレハブアムの時代に王国は南北に分裂することになりました。その後、一方はヤロブアムを王とし、都をサマリヤに置いて歴史を重ねていきます。いわゆる北イスラエル王国と呼ばれる王朝です。他方はレハブアムを王とし、都をエルサレムに据えて歴史を刻んでいきます。いわゆる南ユダ王国と呼ばれる王朝です。列王記はこのダビデ王の晩年からソロモンの時代、王国分裂の時代、そしてその後入れ替わり立ち替わり現れる王たちの姿を記していくのですが、その殆どが神の民としてのイスラエルのあり方に反し、主なる神の御心に背いて異教の悪しき習慣と偶像礼拝に突き進む姿でした。その結果、主なる神の裁きが下ることになり、北イスラエル王国は紀元前722年にアッシリヤ帝国によって滅ぼされ、南ユダ王国は紀元前586年にバビロン帝国によって滅ぼされ、ユダの民は遠くバビロンの地に捕らえ移される。このいわゆるバビロン捕囚という出来事をもって列王記は締めくくられることになるのです。
 これらの大まかな流れの中で今日の箇所の背景を確認しておきたいと思います。今日のII列王記19章は、北イスラエルがアッシリヤ帝国によって攻め入られ、都サマリヤが陥落してついに王国が滅亡の危機に直面していこうとする時代、さらにアッシリヤの手がユダ王国、エルサレムにまで伸ばされていく時代の様子を記している箇所です。前の18章1節、2節に「イスラエルの王エラの子ホセアの第三年に、ユダの王アハズの子ヒゼキヤが王となった。彼は二十五歳で王となり、エルサレムで二十九年間、王であった」とあります。このヒゼキヤ王は南北あわせた歴代の王たちの中では異例なほどに、主に忠実に従う良い王でありました。18章3節、「彼はすべて父祖ダビデが行ったとおりに、主の目にかなうことを行った」、5節、「彼はイスラエルの神、主に信頼していた」、6節、7節、「彼は主に堅くすがって離れることなく、主がモーセに命じた命令を守った。主は彼とともにおられた」と記される通りです。その後、18章、19章を見て行きますと、このヒゼキヤの治世の第四年にアッシリヤの王シャルマヌエセルによって北イスラエルの都サマリヤが包囲され、三年に及ぶ攻防の末についに陥落、王国の滅亡に至ることが記されます。しかし列王記はこの北イスラエル滅亡の真の原因を次のように語るのです。12節。「これは、彼らが彼らの神、主の御声に聞き従わず、その契約を破り、主のしもべモーセが命じたすべてのことに聞き従わず、これを行わなかったからである」。
 それから十年後、今度はシャルマヌエセルに次いでアッシリヤの王となったセナケリブが南ユダ王国に遠征して都エルサレムを取り囲み、将軍ラブ・シャケを中心にヒゼキヤ王をはじめユダの民たちに様々な揺さぶりを掛けるのです。その様子は18章13節以降に記されている通りです。この国の存亡の危機に際してのヒゼキヤの姿が続く19章に記されますが、彼は主なる神の前で衣を裂き、荒布をまとって悔い改め、次いで預言者イザヤのもとに使いをやってこの危機に際しての主なる神の御心を求め、さらには主なる神に祈るのでした。19章15節から。「ケルビムの上に座しておられる神、主よ。ただ、あなただけが、地のすべての王国の神です。あなたが天と地を造られました。主よ。御耳を傾けて聞いてください。主よ。御目を開いてご覧ください。生ける神をそしるために言ってよこしたセナケリブの言葉を聞いてください」。19節。「私たちの神、主よ。どうか今、私たちを彼の手から救ってください。そうすれば、地のすべての王国は、主よ、あなただけが神であることを知りましょう」。このヒゼキヤの祈りに答えて、主なる神が預言者イザヤを通して語られたのが今日の19章21節から34節までの預言の言葉なのでした。

(2)下に根を張り、上に実を結ぶ
 この御言葉は預言者イザヤがヒゼキヤに語ったもので、これとほぼ同じ内容の言葉がイザヤ書37章にも記されていますが、21節から28節と32節から33節まではアッシリヤの高ぶりへの裁きの言葉が語られ、その間に挟まれる29節から31節がユダの民への約束の言葉、そして最後の34節が主なる神ご自身の決意の言葉となっています。29節。「あなたへのしるしは次のとおりである。ことしは、落ち穂から生えたものを食べ、二年目も、またそれから生えたものを食べ、三年目は、種を蒔いて刈り入れ、ぶどう畑を作ってその実を食べる」。アッシリヤに攻められ、包囲網を敷かれ、国の存亡の危機に立たせられたユダの民は、しかし主によって守られ、助け出される。主はそのことを危機を脱した後のユダの国の姿を示すことで教えてくださっているのですが、それは決して無傷の中で起こることでないこともまた事実です。実際に国はアッシリヤによって打撃を受け、畑は荒廃し、人々は苦しめられるであろう。人々の多くは傷つき、ある者はいのちを失い、ある者は家を失い、そうやって人々の生活は困窮の中に置かれるであろう。しかしその荒廃の中から、困窮の中から神の民の回復は始まっていくのだと、主はイザヤを通して、この回復への道筋をぶどう畑の収穫になぞらえてお語りになるのです。ここからこの朝、三つのことを教えられたいと思っていますが、その第一は「すぐにでなく、やがて次第に」ということです。「今年は落ち穂から生えた者を食べ、二年目もまたそれから生えたものを食べる」と言われます。神の民の回復と再興はすぐに起こることではなかった。畑の落ち穂によって養われるという経験は、旧約聖書の律法によれば、イスラエルの中にある在留異国人や貧しい者たちのために備えられた福祉的な考え方でした。畑の収穫の時に麦の束から抜け落ちた落ち穂は拾ってはならない。それは貧しい者たちのためにそのままにしておかなければならないという規定がありました。今まさに彼らはその貧しい異邦人のようにして落ち穂を拾い集めるところから国の再建に取りかかっていこうというのです。そのような経験を一年、二年と続けていく中で次第に国は回復の道を歩み、土は耕され初め、そして三年目になってようやく種を蒔いて刈り入れをするまでになり、ぶどう畑もその実を実らせるまでになるというのです。それはある意味で神の民にとってはすぐにでも再建にとりかかろうとはやる気持ちを留められ、落ち穂を拾い集めながら再建の時を待つ忍耐の時であったに違いありませんし、またそのようにして自分たちの無力さを知らされ、神の恵みを頼りとして生きていくそのような姿を自覚させられる訓練の時であったに違いありません。今の私たちの四十年を経ての新しい出発点は、このヒゼキヤの時のようでは状況ではありませんが、しかしあらためてここから新しく歩み始めようとする時に、何か自分たちの力で造り上げ、建て上げていこうというのでなく、ひたすら神の語りかける御言葉に聴くことで養われ、神の注いでくださる恵みに依存して、そこから力を得てまた立ち上がっていくことを学ぶ大切な時なのではないかと思います。その意味で、この年改めて御言葉に聴き、御言葉に親しむという信仰の原点から初めて行きたいと思うのです。
 次に30節。「ユダの家ののがれて残った者は下に根を張り、上に実を結ぶ」。ここで私たちが学びたい第二のことは「見えないところから見えるところへ」ということです。「下に根を張り、上に実を結ぶ」。聖書がしばしば引用する植物のたとえ、木とその実のたとえですが、この根を張り、実を結ぶという当然のような自然の営みから改めて教えられたいと思います。まず根が張り、それがしっかりと水分、養分をくみ上げ、幹を伝わって枝の隅々にまで行き渡り、花を咲かせ、そして実を結ぶという一連の繋がりの中で、この土の中で起こる「根を張る」ということの大切さを思います。私たちはとかく見事な枝振りや美しく開いた花、たわわに実った豊かな実りにばかり目を奪われやすい者ですが、それらを可能とならしめる根の大切さということに目を注ぐ者でありたいと思うのです。しっかりと深く下へ下へと確実に根を張っていくことで、その確かさ、その深さ、その堅さ、その力強さが、その分、上へ上へと伸び広がっていく枝振りと、そこに豊かに結ばれる実りを約束するのです。見えるものにでなく、見えないものにこそ目を留める。この信仰の原則をこの年、十分に体験していきたいと思います。

(3)万軍の主の熱心
 そして31節。「エルサレムから、残りの者が出て来、シオンの山から、のがれた者が出て来るからである。万軍の主の熱心がこれをする」。私たちがこの御言葉から教えられたい第三のことは「万軍の主の熱心」ということです。イザヤを通して語られる主は、ここでユダに民の回復を、同時に終末の時の神の民の回復の希望と重ね合わせておられるようです。土地が荒廃し、民が失われていく神の民の存亡の危機において、しかし主はそこにご自身の民を残しておられる。そしてその残りの者たちが、やがて再び集まってきて神の国を建て上げていくのです。しかもそのすべてを始められ、それを導かれ、それを完成に至らせるのは「万軍の主の熱心」と言われるのでした。この主の熱心は、続く34節の主ご自身による主の民の救いの決意表明にも繋がるものです。34節。「私はこの町を守って、これを救おう。わたしのために、わたしのしもべダビデのために」。主の熱心が、主の決意がご自身の民の回復、ご自身の国の再建を導かれる。このことの励ましと慰めをこの朝、しっかりと受け取っておきたいと思います。
 私たちが生かされているこの時代は、終わりの時代、終末の時代です。この時代認識から始めなければ、私たちはこの世にあって神の民として生きる自覚と使命を見誤ることになるでしょう。しかしそんな中にも新しい2006年が与えられ、教会の四十一年目の歩みを始めることが許されていること。終わりの時を見据えながらも、しかし同時に見えないものに目を注ぎながら、やがて次第に、という時の繋がりの中に主にある成長を仰ぎ見て行くことができること。決して楽観的になることができないような時代の空気の中で、それでも悲観的になったり、途方に暮れてしまうことなく、なお豊かな実の結実を希望し、期待して歩み始めることができること。それもこれも、すべては天地万物を作り、それを今も御手の中で統べ治めたもう主なる神の、歴史を支配し、最善に導かれる摂理の御心が確かに私たちに上にも置かれ、そこに主の熱心さの中に注がれ続けていることのゆえに他なりません。主が成し遂げてくださる。そこに主が心を傾けていてくださる。思いを注ぎ込んでいてくださる。このことに励まされ、力づけられて、この年、私たちもしっかりと御言葉に根ざし、神の恵みの実りを結ばせていただきたいと思います。「万軍の主の熱心がこれを成し遂げる」と言われる主に信頼しつつ。

 



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