第二部 講演
『主の民の歴史形成−回顧と展望−』

 この午後は、「主の民の歴史形成」と題してお話します。そこでまず最初に今回の学びの意図するところを申し上げておきたいと思います。それは、今回の学びでは、私たちの教会の歩みの回顧と展望の内容を具体的に示すと言うことでなく、その歩みを事柄に即して回顧し展望するための視点を定めておきたいと言うことです。具体的な事柄については、例えば回顧という側面では秋に向けて準備が続けられている四十周年記念誌がその役割を担うことになりますし、展望という側面ではそれこそ今年一年をかけて皆さんとともに祈り求めて行くことになるでしょう。
 そこで今回は、そのような作業に取り組むにあたって、キリスト者として歴史をいかに見、いかに考え、それに参与し、それを切り拓いて行くのかというテーマに集中して考えたいと思っています。少々大げさな言い方が許されるとすれば、キリスト教歴史観入門の入門とでもいうことになるでしょうか。ともかくこれらのことを念頭に置きつつ、キリスト者の歴史観、歴史意識、歴史形成というポイントでしばらくご一緒に考えていきたいと願っています。

序.荒野の四十年
 「四十年」という時の長さと向き合う時、思い起こされるのはやはりイスラエルの民が経験した出エジプトから約束の地カナン入国までの四十年にわたる荒野の生活ですが、この経験を自らの国の歩みに当てはめて語られたのが、1985年5月8日、西ドイツ(当時)のリヒャルト・フォン・ヴァイツゼッカー大統領がドイツ敗戦四十周年に際して行った有名な演説「荒れ野の四十年」です。これは大統領の信仰と人格のにじみ出る歴史的な演説として記憶されていますが、その有名な一節に次のようにあります。「問題は過去を克服することではありません。さようなことができるわけはありません。後になって過去を変えたり、起こらなかったことにするわけにはまいりません。しかし過去に目を閉ざす者は結局のところ現在にも盲目となります」(『荒野の四十年』岩波ブックレット、16頁)。ここでの「過去」とは言うまでもなく第二次大戦中にナチス・ドイツが犯したユダヤ人迫害などの戦争犯罪を指してますが、これらの過去を振り返るにあたって大統領がしばしば用いるのが「心に刻む」という言葉です。「心に刻むというのは、ある出来事が自らの内面の一部となるよう、これを信誠かつ純粋に思い浮かべることであります。そのためには、われわれが真実を求めることが大いに必要とされます」(同11頁)、「心に刻むというのは、歴史における神の御業を目の当たりに経験することであります。これこそが救いの信仰の源であります。この経験こそ希望を生み、救いの信仰、断ち裂かれたものが再び一体となることへの信仰、和解の信仰を生み出すのであります。神の御業の経験を忘れる者は信仰を失います」(同18頁)。このように正しく過去を振り返り、その事柄を心に刻むためには、「真実を求めること」、「神の御業を経験すること」が必要であり、ここにおいてはじめて主の民の歴史形成の展望は開かれて行くのです。

第一章 主の民として歴史をどう見るのかーキリスト者の歴史観
第一節 基本的視座の設定
 さて、議論を進めて行くに際して基本的な視座を定めておきたいと思いますが、私たちキリスト者の歴史の見方がどのようなものであるかを考えるに先立って、私たちが与しない歴史の見方を挙げておきたいと思います。そうすることによって必然的にキリスト者の歴史観の輪郭がおぼろげながらにも浮かび上がってくると思うからです。まず第一にキリスト者の歴史観は円環的・循環的歴史観ではないということです。私たちの歴史の見方は、万物流転を説く古代ギリシャの思想や、輪廻転生の教えに代表される仏教的・東洋的な歴史観のように汎神論的な世界観に基礎付けられたものではありません。第二にキリスト者の歴史観は機械的で非人格的な存在によって決定づけられた歴史をただなぞっていくだけのような運命論的・宿命論的歴史観でないということです。また第三にキリスト者の歴史観は人間中心主義的なユートピア思想に支えられた進歩的歴史観ではありません。そして第四にキリスト者の歴史観は、自由主義史観に見られるような歴史修正主義的・独善的歴史観ではないということです。では一体、キリスト者の持つ歴史観とはどのようなものであるのか。そのことを以下において三つの点にまとめて考えてみたいと思います。すなわち第一に創造から終末へと貫かれる直線的歴史観、第二に聖霊の支配を信じる摂理論的歴史観、そして第三に終わりの光のもとに導かれる終末論的歴史観ということです。

第二節 創造から終末へー直線的歴史観
 信仰者の歴史観の基礎となるのは、創造から終末へと貫かれる直線的歴史観ということです。ここで「直線的」というのは、歴史に初めと終わりがあり、その始点と終点との間が歴史という線において結ばれることを意味しており、歴史が一直線に平坦な線で結ばれると言うことではありません。むしろそこには様々な紆余曲折があるのですが、それでも歩み始められた歴史は必ず終わりを迎えるのであり、その歴史の中で起こる事柄は一回的な性格を持つということを意味しています。つまり創造から終末へと導かれる歴史においては事柄の反復はあっても時の反復はないのです。より厳密に言えば事柄の反復もまた単なる反復ではあり得ず、そこには終末に向かう絶えざる新しさがあるのであり、その新しさは同時にその事柄のかけがえのなさ、尊さをも意味するのです。この繰り返されない時の一回性ということを私たちはしっかりと受け取っておきたいと思います。
 このことを考えるにあたって一つの文章をご紹介しておきます。宮村武夫先生の著書『存在の喜び』の中にある「1977年秋」という文章です。「長い夏休みが終わり、登園してくる子どもたちに会うのは、毎年、教師一同にとり大きな楽しみです。子どもたちの成長、何か一つの節を通り抜けたように、はっきりと認めることが出来るのです。4月から7月までの歩みの中で徐々に備えられ、蓄えられていたのでしょう。とにかく子どもたちの個性がはっきり見えてくるのです。A君はA君であって、B君でもC君でもない。六十数名の園児各自の固有な美しさ、その多様さに全く圧倒されてしまうのです。毎年毎年繰り返してきた経験です。そして、今年も例年のように、ごく自然に9月が楽しみになってくるのです。しかし、ふと考えるのです。毎年のように、例年のようにと言っている自分の中に、とても危険な落とし穴が潜んでいるのではないかと。昨年のように、5年前のように、年中行事が続きます。私どものような園にも、それなりのリズムが生まれて来ています。そして9月には子どもの個性がはっきりしてくることも、毎年の繰り返しから学んで来たのです。新任の教師に例年のように話すのです。『夏休み後が楽しみだ。本当に子どもの個性がはっきりしてくるよ』と。しかしまさにここに落とし穴があるのではないでしょうか。平凡な事実を見逃してしまうのです。今年の青組さんたちは、昨年の青組さんとは違う事実です。黄組さんも赤組さんも1977年度の黄組さんは1976年度の黄組さんではないし、1978年度の黄組さんとも違うわけです。1977年度の黄組さんなのです。後にも先にも、ただ一度、その美しい存在を輝かす1977年度の黄組さんなのです。そのただ一度、本当にただ一度の黄組さんを毎年のように、例年のようにとだけ言って迎えようとしているだけで良いのだろうか。なぜ気づかぬ間にそんな落とし穴が存在するようになったのでしょうか。二つの理由があるように思います。何か『もみの木幼児園』という非人格的なものが存在して、そこに園児が入ってくるという考え方が根本的な問題なのです。園のために子どもがあるのではなく、子どもが園なのです。人格は、非人格的なもののための手段とされてはならない。園ばかりでなく国家、会社、家、いかなる非人格的存在のためにも人格は手段とされてはならない。もみの木の戦いも、実はこの一点にあると確信します。もう一つあります。夏休みが終われば秋、そして冬、春、また夏休みが来て秋、このぐるりぐるりと回転するものとしてのみ、時の流れを見る見方に問題があるのではないでしょうか。単に秋ではなく1977年の秋です。目標を目指し進む歴史の流れの中に、かけがえのないただ一度の時としての1977年秋です。歴史の目標。歴史の主なる神。1977年秋、楽しみです。秋として、1977年秋として」(宮村武夫『存在の喜び』真文舎、67頁)。
 このように創造から終末へと貫かれる歴史の見方においては、そこで繰り返しのように思える私たちの何気ない日常も、かけがえのない価値、二度と繰り返されない一回的な尊さをもって輝き始めるのであり、そこでは顧みられる必要のない歴史は何一つないということになるのです。

第三節 聖霊の信仰ー摂理論的歴史観
 次に、私たち信仰者の歴史の見方は、聖霊による支配を信じる摂理論的な歴史観であるということです。天地万物を創造された神は、今もそれを御自身の御手の中で保持し、統治される摂理の神であられ、私たちの歩みに関心を寄せ、私たちとの交わりの中で歴史を導かれる人格的な神、生ける神です。それゆえにその神によって導かれる歴史は決して運命論、宿命論に取って代わられるものではありません。創造の神を信じる者は、同時に摂理の神を信じるのです。この摂理の教えについて、聖書の教えを大変美しく簡潔にまとめているハイデルベルク信仰問答の第27問によっておさらいしておきたいと思います。「問:神の摂理について、あなたは何を理解していますか。答:全能かつ現実の、神の力です。それによって神は天と地とすべての被造物を、いわばその御手をもって今なお保ちまた支配しておられるので、木の葉も草も、雨もひでりも、豊作の年も不作の年も、食べ物も飲み物も、健康も病も、富も貧困も、すべてが偶然によることなく、父親らしい御手によって、私たちにもたらされるのです」。
 このように神の摂理によって歴史を見るということは、聖霊の信仰によって基礎付けられまた支えられるものです。聖霊の神は私たちの内に住みたもうお方であり、父なる神はこの内住の聖霊のゆえに私たちの「うちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださる」のであって、そこでは歴史の営みの中で私たちが出会う苦難や失敗の経験もまた意味を持つのです。この摂理の信仰が聖書の中で最も鮮やかに証しされるのが創世記37章以下に記されるヨセフ物語でしょう。兄弟たちの妬みをかって奴隷として売られ、エジプトの地で波瀾万丈の人生を送り、ついには宰相の座に着くに至ったヨセフは、やがてイスラエルの飢饉を逃れてエジプトに助けを求めてきた家族たちとの劇的な再会を果たした時、かつて自分を奴隷として売り払った兄弟たちにこう言うのです。「今、私をここに売ったことで心を痛めたり、怒ったりしてはなりません。神はいのちを救うために、あなたがたより先に、私を遣わしてくださったのです」(創世記45:5)、「だから、今、私をここに遣わしたのは、あなたがたではなく、実に、神なのです」(45:8)。

第四節 終末の光の下でー終末論的歴史観
 第三番目に、終末の光のもとに相対化される終末論的歴史観ということを挙げておきたいと思います。神の創造された世界は今、罪の中に呻き、終末における贖いの時を待ち望んでいます。従ってこの被造世界のあらゆる営みは根本的に過ぎゆくものであり、終末の光のもとで相対化されるべきものなのであって、私たちはこの世の事柄を絶対視することなく、これを終末の時、完成、成就の時へと向かう途上にある未完成なもの、不完全なもの、暫定的なもの、トルソとしての被造物世界として認めることが必要なのです。このような終末論的歴史観に立つ時、私たちは必然的に歴史というものに対して謙遜にさせられるはずです。なぜなら地上のあらゆる営みはたとえそれがどんなに精緻なものであったとしても終末の光のもとではそこに絶えず不完全さを持つのであり、私たちは自らの築き上げる歴史や人間の営みを決して絶対化させることはできません。しかしそのような人間の限界をわきまえ知ることは、私たちを歴史に対する無責任さへと追いやることにはなりません。終末における被造物の贖いと万物の完成、更新を信じる者は、それゆえに過ぎゆくこの地上の歴史や営みに対して誰よりも責任を負うものとされるはずです。
 こうしてみると、終末論的な歴史観に立って生きる信仰者は、一方ではこの世の現実を誰よりもリアルに見つめながら、その重荷を引き受け、地に足をつけて歩み続ける現実主義者でありつつ、同時にこの世の現実がたとえどれほど深刻かつ重大な問題の中にあろうとも、終末における神の贖いを希望して生きることのできる楽観的主義者であると言えるでしょう。終末論的な生き方。それはこの世のただ中にありつつも、この世の事柄にとらわれ切ってしまうことのない非陶酔的な態度、すべての事柄を「永遠の相の下で」見つめ、相対化する態度を私たちに求めるものであり、そこにおいては私たちは「究極的なもの」と「究極以前のもの」とを見極めつつ、「最後から一歩手前の真剣さ」で生きるようにと促されているのです。「われわれは、真剣にこの世の課題を受けとめて生きていかねばならないであろう。特にキリスト教の場合、信仰に基づいて証しをする責任がある。しかし、この世の課題を決して究極的な真剣さで受け取るのではない。地上での戦いの勝敗に、究極的な運命がかかっているかのように一喜一憂するのではない。これらの出来事、激動する歴史の中の諸問題、それは究極以前の事柄なのである。そこで問われているのは、『最後から一歩手前の真剣さ』で真剣に取り組むことである」(宮田光雄『キリスト教と笑い』岩波新書、206頁)。
第二章 主の民として歴史をどう生きるのかーキリスト者の歴史意識
第一節 回顧と展望
 以上のような歴史の見方を受け取りながら、では私たちは主の民としてこの歴史をどのように生きていくのでしょうか。ここではキリスト者としての歴史の意識について考えておきたいと思います。そこで第一に必要なことは、正しく過去を顧み、未来を展望すること、そのために必要な「今、ここ」の視点を獲得するということです。私たちは過ぎ去った過去と、現在とをどのように結びつけるべきでしょうか。次の一文を心に留めたいと思います。「過去との連続性のみ重視するなら、場合によっては伝統の力に押しつぶされて、今の時の独自な意味を見失ってしまう。また、過去との生きた関わりを軽視したり、まして無視して『今』だけを主張しようとすれば一種の刹那主義に陥る危険がある」(宮村武夫『申命記』いのちのことば社、35頁)。確かに一方で「伝統」という名の下に過去の事柄を墨守するならば、そこには硬直化した形式主義や形骸化への落とし穴が口を開きます。けれども他方で「刷新」の名の下に過去との連続性を断ち切って伝統を無視し、そこから未来を展望しようとすることがあるならば、私たちは受け継ぐべき信仰のアイデンティティーという視座を持たない者となり、知らず知らずのうちに歴史の中を漂流する根無し草のような存在になってしまうでしょう。
歴史の支配者であり、統治者である神を信じる者に必要な歴史意識とは、過去から未来へと連なる線上に置かれる「今、ここ」の意味を認識し、その全体を創造から終末という歴史観のもとに見つめ、悔い改めと感謝をもって過去を回顧し、約束と希望に基づいて未来を展望することと言えるのではないでしょうか。過去を顧みることが、未来を希望することの支えとなり、根拠となるのであり、さらに約束によって基礎付けられた希望は、私たちに終末に向けて歩むに当たっての決断的な信仰を形成させるのです。「イスラエルの民は神の言葉を聞く時、歴史の統治者の御前に、過去を回顧し未来を展望しながら、過去から未来への大きな流れを見通し、今ここで歴史形成に参与する特権と責任を与えられているという恵みの立場を悟る。何をなすかの前に、今ここに生かされているという明確な意識を持って、神の言葉に聞くこと。また、神の言葉に聞くことによって、今ここに生かされている喜びに満たされること。これこそ、神の民イスラエルの大切な使命なのである」(前掲書、36頁)。このように「今、ここ」にある自分を神の恵みのもとで位置づけることがなければ、私たちは回顧と展望をするための視座を持つことができません。同時に神の恵みのもとでこれまでとこれからを回顧し展望をすることがなければ、私たちは私たちの立つべき「今、ここ」を定めることができないのです。

第二節 記憶と忘却
イスラエルは記憶する民であると言われます。そして聖書の中には私たちに「覚えよ」、「忘れるな」と繰り返し迫る事柄があります。けれどもそれと同時に、記憶することに相反するように、事柄によっては忘却することの大切さをも教えられています。記憶と忘却。これもまた信仰者の歴史意識を形作る一つの契機であると思うのです。いくつかの御言葉を拾い出してみたいと思います。申命記6章12節。「あなたは気をつけて、あなたをエジプトの地、奴隷の家から連れ出された主を忘れないようにしなさい」。詩篇103篇2節。「わがたましいよ。主をほめたたえよ。主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな」。そしてイザヤ書63章11節から14節。「そのとき、主の民は、いにしえのモーセの日を思い出した。『羊の群れの牧者たちとともに、彼らを海から上らせた方は、どこにおられるのか。その中に主の聖なる御霊を置かれた方は、どこにおられるのか。その輝かしい御腕をモーセの右に進ませ、彼らの前で水を分け、永遠の名を成し、荒野の中を行く馬のように、つまづくことなく彼らに深みの底を歩ませた方は、どこにおられるのか。家畜が谷に下るように、主の御霊が彼らをいこわせた』」。これらの御言葉にあるように、イスラエルの記憶の核にあるのは、出エジプトに代表される神の救いの出来事です。この記憶を彼らは単に個人としてのみならず、共同体の記憶、民族の記憶に深く刻んで、自らの歴史形成の土台に据えたのです。そこでこの神の救いの出来事の共同体としての記憶のために用いられたのが過越の祭りを中心とした礼拝祭儀でした。このことを今日の私たちに当てはめるならば、主イエス・キリストの救いの恵みを記念し、十字架と復活を覚えて集う主の日の礼拝、とりわけ主の晩餐の礼典がこれにあたるでしょう。主イエスは最後の晩餐の席で「わたしを覚えて、これを行いなさい」と命じられ、使徒パウロはこれを受けて「主が来られるまで、主の死を告げ知らせる」と語ったのです。
 このように聖書は、イスラエルの救いの経験を記憶し続けることとともに、終末に向かう新しさの中での忘却についても語ります。イザヤ書43章18節、19節。「先の事どもを思い出すな。昔の事どもを考えるな。見よ。わたしは新しいことをする。今、もうそれが起ころうとしている。あなたがたは、それを知らないのか。確かに、わたしは荒野に道を、荒地に川を設ける」。同じくイザヤ書65章17節、18節。「見よ。まことにわたしは新しい天と新しい地とを創造する。先の事は思い出されず、心に上ることもない。だから、わたしの創造するものを、いついつまでも楽しみ喜べ。見よ。わたしはエルサレムを創造して喜びとし、その民を楽しみとする」。このように主の民は、過去における神の救い出しの出来事を記憶し続ける一方で、終末における救いの完成のヴィジョンの大いなる輝き、まぶしさ、圧倒的な新しさの中に過去を忘却し、来るべき救いの完成の時への憧れの中に生きることが許されるのです。それは単なる甘い夢想の日々ではありません。むしろ使徒パウロの言葉を用いるならば、あのピリピ書3章18節にある「うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目指して一心に走っている」という日々、終末の希望から引き寄せられるような日々なのです。

第三節 部分と全体
 さらに、主の民の歴史意識という事に関連して、部分と全体ということを考えたいと思います。申命記8章2節に次のように記されています。「あなたの神、主が、この四十年の間、荒野であなたを歩ませられた全行程を覚えていなければならない」。ここでモーセが「全行程」と言う事の意味深さを思います。そこでは単に楽しかった事、良かった事だけが覚えられたり、逆につらかった事、苦しかった事だけが記憶されたりするのでなく、その両面、その全体を覚える事が命じられています。私たちはとかく一面的な観察、一方的な評価に傾きがちですが、事柄の真実を見つめるためにはその全体を見渡す広く公平な視野が求められるでしょう。イスラエルの四十年がどのような意味を持ったかというその全体像は、その旅を終えた地点ではじめて明らかにされるものです。その意味では、地上の歴史の営みに対する全体的な評価もまた、究極的には終わりの時、終末における審判の時を待つほかありません。ここでも終末論的な思惟、歴史観が求められてきます。けれども旅の途上にある私たちも少なくともこれまでの歩みの全体を感謝と悔い改めをもって見つめる時、そこにその渦中にあった時には見えなかったものが見えて来、また断片的に見ていた時には気づかなかった神の計り知れない確かな導きの御手を見出すことができるのです。
 それと同時に、全体を見渡す歴史の視点は、他ならぬこの私、今ここに生かされている個別な存在である私にも与えられている事を覚えたいと思います。全体と部分との関係です。「全行程を覚えよ」と命じられたイスラエルの民のすべてが、荒野の四十年を体験したわけではなく、荒野の旅の途中で生まれた民もそこには含まれていました。けれどもモーセはそれらの人々をも含めて、この命令を語っています。このことはこの群れの四十年の歩みを振り返る私たちにも大切な視点を与えていると言えるでしょう。私自身のことで言えば、私はこの群れの四十年の歴史の中でまだ五年という時しか経験していません。それは全体ではなく部分としての経験です。同じように私たちは一人の存在として全部を経験する事ができることは希であり、それぞれある部分を経験しているに過ぎないのです。その経験はある人にとっては四十分の五、ある人には四十分の二十、ある人には四十分の一、ある人には四十分の四十ということであるかも知れません。そこには当然、経験した時間の長短や経験した事柄の有無、その経験が与える影響の濃淡があるのですが、しかしそれらの様々な違いがあるにもかかわらず、その個別性は全体としての群れの歴史形成を損なうものではなく、むしろそれを補完し、一つの共同体としての歴史形成に大きな役割を果たすことができるのです。なぜなら全体は初めから全体として存在していたわけでなく、個別な事柄の集積の上に成り立っているのであり、歴史の形成とはまさしくそのような個別の事柄、その時にはそれが全体の中でどういう意味を持ち、どういう役割を果たすのかも分からない中に織り合わされ、綴り合わされていく事柄のパッチワークのような出来事だからです。しかしそれが完成した時には、その途上にあっては影の部分、弱さや傷と思われた部分が全体の中で実に味わい深い役割を果たすことがあるのであり、そこに私たちは歴史の主なる神の御真実を認めて、御名を崇めることができるのではないかと思うのです。

第三章 主の民として歴史をどう切り拓くのかーキリスト者の歴史形成
第一節 ピスガの頂に立って
 最後に私たちはこれからの歩みを切り拓いて行くにあたって、御言葉からの示唆と励ましを受け取っておきたいと思います。申命記34章1節から3節で、いよいよ約束の地カナンを前にしたモーセの姿が描かれます。「モーセはモアブの草原からネボ山、エリコに向かい合わせのピスガの頂に登った。主は彼に次の全地方を見せられた。ギルアデをダンまで、ナフタリの全土、エフライムとマナセの地、ユダの全土を西の海まで、ネゲブと低地、すなわち、なつめやしの町エリコの谷をツォアルまで」。私たちが今ここから歩み出して行くに当たって必要な第一のことは、このピスガの頂からの展望を持つということでしょう。それは言い換えるならば主の御前での視点、終わりからの視点をもって地理的地平、歴史的地平を仰ぎ見るということです。具体的な私たちとの関わりで言えば、この教会が建てられている地域の全体を視野に収めること、徳丸、板橋、東京、日本、アジア、そして世界という大きな視野の中で私たちの使命を受け取ることです、その時、単に徳丸町キリスト教会という一つの群れの歩みだけが私たちの関心に留まり続けるのでなく、この地域やこの国、アジアや世界に対する使命と、ここに建てられた他の教会、私たちが属する教団、宣教区、ひいては公同の教会に対する責務を私たちに自覚させることになるでしょう。また歴史的地平ということでは、私たちの教会のこれまでの歩みとともに、日本の教会のこれまでの歩み、世界の中でのキリスト教会の歴史を、そこに刻まれた数々の祝福の遺産とともに、そこに積み残されている罪責をも含めてともに担うという責務を自覚させられることにもなるのです。

第二節 受け取り、受け渡し
 第二のことは教会の信仰、伝承、ヴィジョンの受け渡しということです。いよいよ約束の地を目前にしたモーセに、主は大変厳しいと思われる言葉をもって語りかけられました。申命記34章4節。「わたしが、アブラハム、イサク、ヤコブに『あなたの子孫に与えよう』と言って誓った地はこれである。わたしはこれをあなたの目に見せたが、あなたはそこへ渡っていくことはできない」。断念させられるモーセの姿です。彼はこれまで約束の地を仰ぎ見つつ、そこに入っていくために必要な回顧と展望をイスラエルの民に語り続け、説き続けてきました。けれどもその彼自身はカナンの地に入っていくことは出来ない。それは民数記20章のメリバの水の事件により、モーセがイスラエルの罪をその身に負うことのゆえでした。それゆえモーセは自らが語った言葉の実現を、次の世代に受け渡さなければなりません。後継者ヨシュアへのバトンタッチが必要となるのです。
 ここに教会の信仰継承、伝統継承の機能が生まれ、教会教育の必要性が明らかにされます。使徒パウロはIコリント15章の冒頭で「私は今、あなたがたに福音を知らせましょう。これは、私があなたがたに宣べ伝えたもので、あなたがたが受け入れ、また、それによって立っている福音です」と語り、その福音の教えについて「私があなたがたに最もたいせつなこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです」と、主イエス・キリストの贖いの御業について記します。ここで私たちは、パウロが自ら受け取った信仰を次の人々に伝える、そのような信仰の伝承機能に注目させられるのです。教会はそのようにして生きた信仰を前の世代から受け取り、そして次の世代に受け渡していきました。ユダ書3節で「聖徒にひとたび伝えられた信仰」と言われるのはそのようなものです。それはさながら障害物リレーの時のバトンの受け渡し区間のようなものです。バトンを受け渡す側はそれを次の人がしっかりと受け取りやすいように、体を前に伸ばすようにして差し出さなければなりませんし、受け取る側も、それを落としたりしないように、後ろを振り返りながら助走をつけてつかみ取らなければなりません。受け渡す側は受け取る側がバトンを握ったことを確認したならば速やかにそこから手を離さなければなりませんし、受け取る側はそれを受け取ったならば一気に加速して全力疾走しなければなりません。そのようにして主の民は終末におけるゴールを目指し、幾つものコーナーを曲がり、途中にある障害物を乗り越えて、バトンを次から次のランナーへと受け渡しながら歴史を形成していくのです。主の民の歴史形成はそのような共同の営みであることを覚えたいと思います。
第三節 変わるもの、変わらないものを見つめて
宗教改革の伝統に立つ教会は、永遠に変わることのない神の御言葉に立って、創造から終末へと貫かれる父なる神の壮大な救いのご計画の全体を受け取り、主イエス・キリストによるこのご計画の成就と実現の歴史を教えられながら、聖霊に導かれつつ絶えず新しく改革されていく教会であることを深く自覚するものです。「改革教会は絶えず改革され続けなければならない」(エクレシア・レフォルマータ・センペル・レフォオルマンダ)というスローガンはそのような教会のあり方を言い表したものでした。その改革を可能にする根拠は変わることのない神の御言葉の確かさであり、その御言葉が指し示す主イエス・キリスト御自身の確かさにほかなりません。預言者イザヤがイザヤ書40章8節で語ったように「草は枯れ、花はしぼむ。だが、私たちの神のことばは永遠に立つ」のであり、またヘブル書13章8節が次のように語る通りです。「主イエス・キリストは、きのうもきょうも、いつまでも、同じです」。
 この歴史の主であり、永遠のお方である主イエス・キリスト御自身にしっかりと照準を合わせながら、このお方の御声に聴き続け、従い続ける時、私たちはそこで変わるものと変わらないもの、変えるべきものと変えてならないものとを見極める霊的な洞察力と、それをより分けていく霊的な判断力、そしてその判断に基づいて歩み出す信仰による決断を身につけていくことが出来るのです。「教会は、一回的な時を将来に向けて生きるゆえに、過去の経験に基礎付けられたデータの計算をするのでなく、未見の、しかし約束によって保証されている将来に向けて決断するのである。・・・教会が決断的性格を持つとは、教会の個々の肢が決断的に生きるという意味を包含するのはもちろんであるが、教会としては主の日を守ることや、一つ一つの肢に対する配慮や、教会政治に関して決断を重ねていくことに表れる。・・・未来に向けて開かれた教会の決断は、来たらんとする者、また来たらんとする教会、来たらんとする世界に向けての決断である」(渡辺信夫『カルヴァンの教会論』改革社、92頁)。

結.
これまで主の民の歴史形成と題して学んできました。これをもって、では具体的に私たちの教会はここからどのように立ち上がり、どのように歩み始めるのか。それが私たちに課せられたテーマです。この一年、主の恵みの中で悔い改めと感謝をもって過去を回顧し、約束と希望をもって未来を展望をしながら、歩み続けていきたいと願うものです。この学びの締めくくりに当たり、アメリカの神学者ラインホルド・ニーバーの祈りをもって私たちの祈りとさせていただきたいと思います。
 「神よ。変えることのできるものについて、それを変えるだけの勇気をわれらに与えたまえ。変えることのできないものについては、それを受けいれるだけの冷静さを与えたまえ。そして、変えることのできるものと、変えることのできないものとを、識別する知恵を与えたまえ」。

 



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