第一部 礼拝
『主の宝の民として』

申命記26:16-19

 この年、私たちはこの地に福音の種が蒔かれ、主の教会が建て上げられ始めてから四十年という一つの大きな歴史の節目を迎えています。そこに溢れ出る主の恵みを覚えながら、この主日の一日を私たちは新年聖会として守り、今年私たちの教会に与えられた御言葉を通して一年の指針を得たいと願いつつ過ごしています。そこでまずこの朝の礼拝においては、申命記26章16節から20節を中心にして、主の宝の民、聖なる民とされている教会の姿とそこに寄せられている神様からのご期待について教えられたいと願います。

(1)主の宝の民ー神の喜びー
 「宝物」という言葉には、何かしら人の思いを今あるところから前に、そして後ろに動かしていくような響きがあります。幼い頃に一生懸命に集めたり、大切にしまい込んだりしていた宝物の思い出は、宝物そのものが大人になった今から思い起こせば実に他愛のないモノ、ガラクタのようなモノであったとしても、思い出としてのかけがえのなさは決して色あせるものではないでしょう。宝物は私たちに過去を思い起こさせる力を持つものと言えるのではないかと思います。それと同時に宝物とい言葉は、私たちにまだ見たことのない、手にしたことのない新しい事柄との出会いを待ち望ませる力をも持っています。隠された宝物を目指す冒険物語やファンタジーは大人にとっても心動かされるものです。宝物は私たちにまだ見ぬ未来、将来を仰ぎ望ませる力を持つものと言えるのではないかとも思うのです。そして両者に共通することは「喜び」の感覚です。昔の宝物を思い起こすことも、まだ見ぬ宝物について思い巡らすことも、それは私たちにとって厭わしく煩わしい作業ではなく、むしろ喜びの営みなのです。
 この年私たちの教会は「主の宝の民として−回顧と展望−」という主題を掲げました。これは今日開いている申命記26章18節から与えられたものですが、教会の宣教開始から四十周年を迎えたこの年、教会の「これまで」を顧み、「これから」を望み見るにあたって、主御自身が、私たちの群れをどのように見つめていて下さるかを確認するのにまことに相応しい御言葉と言えるでしょう。「宝の民」という表現は神が御自身の民を高価な宝、かけがえのない我がもの、神の所有の民としていて下さることを表すものであり、神の喜びの民であると言うことです。この驚くような、そして大変光栄な言葉に励まされながら、私たちも自らの姿を主なる神の眼ざしの中に見つめて行きたいと思います。この「宝の民」という表現は申命記の中で26章の他に二度用いられています。一度目は7章6節。「あなたは、あなたの神、主の聖なる民だからである。あなたの神、主は、地の面のすべての国々のうちから、あなたを選んでご自分の宝の民とされた」。二度目は14章2節。「あなたは、あなたの神、主の聖なる民である。主は、地の面のすべての国々の民のうちから、あなたを選んでご自分の宝の民とされた」。しかしこの表現は申命記の中だけに用いられるものではありません。その下敷きとなっていると思われる箇所として出エジプト記19章5節、6節を挙げることが出来ます。「今、もしあなたがたが、まことにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るなら、あなたはすべての国々の民の中にあって、わたしの宝となる。全世界はわたしのものであるから。あなたがたはわたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる」。さらに詩篇135篇4節には次のように歌われています。「まことに、主はヤコブを選び、ご自分のものとされ、イスラエルを選んで、ご自分の宝とされた」。これらはいずれも出エジプトのイスラエルを指している表現ですが、しかしそこでの神の約束は過去に結びつけられるもののみならず、神の約束における未来、終末の幻においても語られています。旧約聖書最後の書物であるマラキ書3章17節に次のように記されているとおりです。「彼らはわたしのものとなる。万軍の主は仰せられる。わたしが事を行う日に、わたしの宝となる。人が自分に仕える子をあわれむように、わたしは彼らをあわれむ」。

(2)主の宝の民−選びと愛−
これらの御言葉に繰り返し明らかにされているのは、イスラエルが神の民、神の宝の民と呼ばれるのは神がイスラエルを他の国々の中から特別に選び出されたからだということです。神の選び、それがイスラエルをして今、主の宝の民と呼ばれうる立場に置かせているの根拠なのです。では、主なる神はなぜイスラエルを選ばれたのか。その選びの理由、根拠が次に問われるでしょう。なぜ他の民でなくイスラエルなのか。彼らの中に何か選ばれるべきものがあったのか。それは一体どのようなものだったのか。イスラエルの選びの理由と根拠は一体どこにあるのでしょうか。その答えを申命記7章7節、8節が次の表に語っています。「主があなたがたを恋い慕って、あなたがたを選ばれたのは、あなたがたがどの民よりも数が多かったからではない。事実、あなたがたは、すべての国々の民のうちで最も数が少なかった。しかし、主があなたがたを愛されたから、また、あなたがたの先祖たちに誓われた誓いを守られたから、主は、力強い御手をもってあなたがたを連れ出し、奴隷の家から、エジプトの王パロの手からあなたを贖い出された」。ここにはっきりと言い表される選びの根拠、選びの理由。それはただ「主があなたがたを愛されたから」という理由、神の愛であったというのです。しばしばユダヤの文化を支える基盤にあるものとして「選民意識」という言葉が使われます。神に選ばれた特別な民であるという意識を指すこの言葉は、しかししばしば自意識過剰で傲慢かつ独善的な意識を意味する言葉として用いられています。しかし選びの根拠がただ神の愛にあることを知らされるならば、選びの民がおごり高ぶることは許されることではありません。ひたすら神の恵み深い主権的で自由なる愛を受け取るほかないはずなのです。
 このように選びの愛は、私たちを自らの歩みに対して謙遜にさせるものです。四十年という歩みを振り返る地点に立たせられている私たちは、荒野での四十年を過ごし、モーセによってそれまでの歩みを顧みさせられているイスラエルの民とともに、歴史を回顧することと記憶することの大切さを教えられているのではないでしょうか。それは神の御言葉にいよいよ信頼することの訓練を受けるため、神の選びと愛の真実を覚えるためであり、歴史の意味を知り、謙遜にさせられるためにどうしても必要な作業なのだと思うのです。事実モーセもイスラエルの民に次のように語り聞かせています。8章2節から4節。「あなたの神、主が、この四十年の間、荒野であなたを歩ませられた全行程を覚えていなければならない。それは、あなたを苦しめて、あなたを試み、あなたがその命令を守るかどうか、あなたの心のうちにあるものを知るためであった。それで主は、あなたを苦しめ、飢えさせて、あなたも知らず、あなたの先祖たちも知らなかったマナを食べさせられた。それは、人はパンだけで生きるのではない、人は主の口から出るすべてのもので生きる、ということを、あなたにわからせるためであった。この四十年の間、あなたの着物はすり切れず、あなたの足は、はれなかった」。私たちが四十年という歩みを顧みて語りうる言葉はまさにこのモーセの言葉に込められた主なる神の御真実への告白なのです。

(3)主の宝の民−約束と祝福ー
 以上の事柄を心に留めつつ、改めて今日の申命記26章の御言葉に聞きたいと思います。16節、17節をご覧下さい。「あなたの神、主は、きょう、これらのおきてと定めとを行うように、あなたに命じておられる。あなたは心を尽くし、精神を尽くして、それを守り行おうとしている。きょう、あなたは、主が、あなたの神であり、あなたは、主の道に歩み、主のおきてと、命令と、定めとを守り、御声に聞き従うと断言した」。ここではイスラエルの主であられる神と、神の民であるイスラエルとの間の結ばれる契約の関係が明らかにされています。主なる神はイスラエルに対し、心を尽くし、精神を尽くして神のおきて、定めを守り行うようにという命令を与えられ、これに対してイスラエルの民は、主の道に歩み、主のおきてと命令と定めとを守り、御声に聞き従うという決断を下すのです。そしてこの神とイスラエルとの間に結ばれる契約を見届ける仲介者、仲保者の位置にモーセが立っているのです。このモーセを仲保者として結ばれる主なる神とイスラエルの民との契約関係は、先の出エジプト記19章5節、6節に記されるいわゆるシナイ契約の反復とも言える内容です。けれども出エジプトの際の契約を下敷きにしつつ、ここにおいて改めて契約が確認されるのは単なる繰り返し、反復ではありません。むしろそれは新しい決断に基づく契約の更新ともいうべき事柄なのです。
 神の民イスラエルが主の御声に聞き従い、主の道を歩むことによって宝の民としての祝福を確認していったように、私たちも繰り返し繰り返し新しい決断をもって主の前に立ち、この契約内容を確認し、更新していくことが求められていると言えるでしょう。イスラエルが荒野の四十年を通らされたのは、いわばこの主の御声に聞き、主の道を行くための主からの訓練、レッスンであったことを思う時、私たちも今日この朝、新しい思いで主の御声に聞き、主の道を行くという決断を下すものでありたいと思うのです。「きょう、あなたは、主が、あなたの神であり、あなたは、主の道に歩み、主のおきてと、命令と、定めとを守り、御声に聞き従うと断言した」。この神の御前での契約が、すべての祝福の基です。今日の箇所で申命記が繰り返し繰り返し「きょう」ということを強調するのは、モーセの前にあるイスラエルの民だけでなく、後にこの申命記の御言葉を聞く後の世代のイスラエルが、さらには今日、こうして私たちの四十年を過ごしてきた教会が、この神との間に結ばれる契約と、それに向かうにあたっての決断を新しく自らのものとして受け取りなおし、他ならぬ私たち自身の決断として新しく告白するためです。私たちは申命記における「今日」を、この2005年の今日として、新しく受け取り、決断的な信仰の姿勢を堅く保ちたいと思います。私たちをこの神との契約の中に保ち続ける鍵は、私たちの内にはありません。私たちの決断も、私たちの服従も、私たちの忠実さも、そのすべては人間の不真実さの中に覆い包まれています。しかしながら、それでも私たちがイスラエルの民とともに主の御前に契約を結び、新しい決断をもって立つことができるのは、神とイスラエルとの間に立つ契約の仲保者が、今やモーセにまさるただ一人のまことの仲保者イエス・キリスト御自身でいらっしゃることに拠っています。主イエス・キリストが私たちの不真実にもかかわらず、絶えず神の御前に御自身の真実さによってこの契約を保ち、全うしてくださることを固く信じるものでありたいと思うのです。

(4)主の宝の民ー存在と使命ー
 主なる神はイスラエルの民をモーセを仲保者とする契約の中に招き入れ、そればかりか、その契約の保証としての次のような祝福の約束の言葉を与えられます。18節、19節。「きょう、主は、こう明言された。あなたに約束したとおり、あなたは主の宝の民であり、あなたが主のすべての命令を守るなら、主は、賛美と名声と栄光とを与えて、あなたを主が造られたすべての国々の上に高くあげる。そして、約束のとおり、あなたは、あなたの神、主の聖なる民となる」。ここに語られた主なる神の言葉はイスラエルに対する祝福の約束の言葉であると同時に、そこにイスラエルの存在の尊さと、イスラエルの使命の重さを表すものでもありました。まったく取るに足りない弱く小さな民であったイスラエルを神御自身が選びの愛の中に御自身の民とされ、かけがえのない宝の民としてその手の中に握っていて下さる。それは主なる神の自由なる愛と慈しみ深い憐れみがどれほどのものかを表すためであり、そのようにして選ばれて主なる神の所有とされた宝の民が、今度は主の聖なる民として、すなわち主の御用のために聖め別たれた民として歩むため、新約聖書に記された主イエスの御言葉で言い換えるならば、まさしく地の塩、世の光としてこの世のただ中に歩み続けるためであったのです。
 今日、主イエス・キリストの教会に与えられている存在の意味とその使命とを思います。それはこのイスラエルの如く、神の愛と慈しみ、憐れみと恵みの大きさ、深さ、そして自由さとをその存在そのものをもって証しし、さらにはその存在をもって地の塩、世の光としてこの世界を神の御前に聖なるものとしていくという使命です。自らが聖とされ、また自らをもって周囲を聖としていくこと。これが教会の存在の意味であり、また教会の使命です。主の宝の民として歩む。私たち一人一人がこの圧倒的で大いなる、そして身に余るほどの光栄なる立場を与えられた者として、ひたすら謙遜に、そして忠実に神と人を愛し、神と人に仕え、神の御言葉に忠実に聞き従い、神の御心を悟り、神の御教えを守り、神の示された道を歩んで行く時に、「この宮のこれから後の栄光は先のものにまさる」という主の祝福の広がりの中に生きることが許されるのです。使徒ペテロは書簡の中で次のように語ります。Iペテロ2章9節、10節。「あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、神の所有とされた民です。それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです。あなたがたは、以前は神の民ではなかったのに、今は神の民であり、以前はあわれみを受けない者であったのに、今はあわれみを受けた者です」。主の宝の民、それは主の憐れみに生きる民です。荒野の四十年を生きたイスラエルが主の憐れみのゆえに宝の民とされたのと同じように、この地で四十年を過ごしてきた私たちもまた主イエス・キリストの十字架の贖いのゆえに、ただそれだけを理由として今、主の宝の民とされている。この恵みを改めてこの朝しっかりと心に刻みつつ、「やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを宣べ伝えるため」になお新しく心を高く挙げてこの地に生きていく私たちでありたいと願うものです。



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